3 礼子

 九月の二週目。


 礼子は、窓の外から聞こえるけたたましい蝉の声と、休憩室から聞こえる談笑の声を聞きながら仕事をこなしていた。蝉の声も鬱陶しいが、それ以上に、休憩室を陣取って詮無いことを話し続けるパートの連中に辟易していた。


 休憩室と仕事場は一応壁で隔たれてはいるが防音ではなかった。下品な笑い声、机や手を叩く音、更にはお茶を啜る音すら仕事場には全て筒抜けだ。

 彼女たちの業務は午前中に終わっている。しかし一向に休憩室から出てくる気配はなかった。普段は残業を頼んでも、「PTAで忙しい」「子どもが帰ってくるから出来ない」と断るくせ今日に限ってはそんな用事もないようだ。彼女たちがあそこに溜まってから既に二時間が経過していた。


 礼子は深い溜め息をついて首を振った。暇を持て余した怠惰なパート達にはもちろんだが、休憩室から笑い声が聞こえるたび手を止める職員達の集中力のなさにも苛立っていた。


 礼子は立ち上がり、同僚と小声で新作の香水について花を咲かせている一人の事務員の横に立った。礼子より二回り以上も年の若い女性職員だった。

「無駄口叩いてないで、手を動かしなさい」

 なるべく静かに、低い声を心掛けた。この声が一番、怒鳴り声よりも、効果的であることは経験上分かっていた。

「その仕事は明日に回させないからね。残業してでも終わらせなさい」

 女性職員が腕時計を確認するのにつられて礼子も壁掛け時計を見る。午後三時を少し過ぎたところだった。


 視線を周囲にも配り、

「みんなもよ。連帯責任。この子が終わるまでは帰れないから。いいわね」

 どの職員も溜め息を押し殺したような顔を晒し、体の芯から疲れ切っているような返事をした。


 発端となった女性職員は泣きそうな顔をして、「本当にごめんなさい」と近くの同僚に謝り、涙が出てもいないのに目尻を拭って仕事に取りかかった。叱咤が利いたのか周りの職員もようやく自分の仕事に集中し始めた。


 礼子はオフィスビルに入ったメンタルクリニックで主治医として働いていた。やる気のない職員がいればその尻を叩くのも、患者の診察も、院外の患者へのアプローチも、対外折衝も全てが礼子の仕事だった。礼子はそれらをこなす自分を誰よりも優秀だと信じて疑わず、それが自惚れでないという自惚れを抱えていた。


「礼子さん、あんまり新人をいじめたら可哀想ですよ」

 数分後、書類のチェックを頼みに来た若い男性職員が礼子にそう言った。仕事が出来ないくせに、プライドと文句だけは一丁前の男だった。礼子は書類に目を通しながら、すらすらと不備に印を付けていく。

「この前もそれで一人やめちゃったじゃないですか」

 男性職員は礼子の手元を見ながら眉を顰めた。

「あの子にまでやめられたら困りますよ」

「あの程度でやめるなら、それで結構よ。うちに仕事の出来ない人はいらない」

 あなたもいらない人間の一人だ、と思いながら、書類を突き返した。

「全然ダメ。今日中に全部直して」

 男性職員は一瞬だけ嫌な顔をして、

「あの人達がうるさくて集中できないんですよ」

「他人のせいにしてないで、自分の仕事を全うしなさい」

「でも、うるさいのは事実ですよ」

 捨て台詞を吐いて席に戻っていた。さっき嘘泣きをしていた女子職員になにやらアイサインを送っている。女子職員は唇を突き出して、礼子に対する不満を表明してから微笑んだ。男性職員はその表情に心を奪われてしまったようだ。照れ笑いを浮かべて、意気込むように袖を捲っている。


 礼子はその様子を滑稽に見ながら男性職員を哀れんだ。若い女の狎(な)れに、なぜ男はこんなにも弱いのだろう。そう自問し、男が馬鹿だからだとすぐに結論づけた。まして有能な人間などゼロに等しい。

 男は礼子が見下しているものの一つだ。稼ぎが少ない劣等感から離婚を申し出た夫も、仕事が出来ない男性職員も、手当たり次第に粉を掛ける男も等しく侮蔑の対象だった。


 礼子が男という生物の中で唯一見下していないのは、自身の下の息子だけだった。自分が三十六歳の時に産んだ高校生の息子だけは、誰よりも優秀であると考えていた。


   ○


 さすがにパートの姦しい声に耐えきれなくなり、他の職員からも文句が出始めたので、礼子は休憩室の扉を叩いた。薄い木の板で作られた扉を強めに叩くと、中で談笑していた声が一瞬だけ止まった。


「あら、礼子さん。どうしたんですか?」

 パートの中で一番高齢の女、榎下が扉を開けて、怪訝な顔をした。礼子は声を半音上げた。

「お時間はまだ大丈夫ですか? もう四時になりますけど」

 古株の馬場が手を振った。

「大丈夫よ。今日は息子の帰りも遅いらしいから」

 音を立てて煎餅を咀嚼しながら、

「部活が始まったんですって。もう年頃の子はいやよねえ。毎日汗臭くて困っちゃう」

 太った馬場が言うと、自虐に聞こえた。

「あら、私たちだって加齢臭臭いわよ」

 榎下がそう応じると、下品な笑い声が上がった。礼子は顔を顰めそうになり、咄嗟に口元を覆って愛想笑いを浮かべた。


 パート連中も礼子が見下しているものの一つだった。顔中に口がついているような彼女らは本当に口さがなく、加えて下品だ。常に噂話を欲していて、そのためだけに仕事場に来ているようですらある。

 そのくせ、年の功なのか、なまじ仕事が出来るので手を焼いていた。礼子にとっては、無能な働き者よりも有能な怠け者の方が厄介だった。


「そうだ、礼子さんも一緒にお茶しませんか」

 部屋の中にいる一人が突然そう言ってきた。一番若い、新入りのパートだ。といってももう四十近いが。三六歳といっていたか。名前は確か 志奥だった。

「私、ここに入ってまだ日が浅いから、色々お話ししたいんです」

 その声に周りも賛同した。

「それいいわね。礼子さんも確か母親でしょう? 私も前からお話ししてみたかったの」末松はそう言い、「ほら、礼子さんの分のお茶も用意してあげて」と榎下も乗り気で礼子の手を引く。


 その手をやんわりと振りほどき、まだ仕事が残っていることを訴えたが、

「ちょっとくらいならいいでしょ? 第一、礼子さんは働き過ぎよ。少しくらい休憩しないと」

 と馬場に押し切られてしまった。


 こういうとき、職員を相手にしたときのような態度を取れればいいのだが、それが悪手であることは分かっていた。責任感がないのか、忍耐力がないのか、パートは些細なことで簡単に仕事を辞める。


「では、一〇分だけ」

 手を引かれるまま、礼子はソファに腰掛けた。

「礼子さんは確か息子さんがいるんだったわよね」

 全員に新たなお茶が行き渡ったところで、末松がそう切り出してきた。

「私も息子が欲しかったんだけどねえ。残念なことに女の子なのよ」

「あら、いいじゃない女の子でも」

 馬場が相槌を打つ。

「今可愛い盛りでしょ」

「ええ。小学五年生になりました」

「女の子なんて羨ましいわ。あたしのところなんて、中学生の男の子なんだけど、やっぱりダメよねえ礼子さん。男の子なんて。毎日毎日汗臭くて、口を開けば反抗ばっかり。本当に嫌になっちゃうわよねえ」


 うちの息子を一緒にするな、と思ったが、礼子は曖昧に微笑んで茶を濁した。


 正直、下の息子のことを話すのは吝かではない。優秀な息子の自慢は心地よく、快感ですらある。けれど上の子のことが知られたら、翌日には根も葉もない噂や憶測が職場を行き交うことになるだろう。それはプライドが許さなかった。本当に邪魔な子。長年引きこもっている上の息子の顔を思い浮かべて、礼子は内心で舌打ちをした。


 その後、様々な角度から飛んでくる、息子に関する質問を礼子は全て躱した。名前や年齢すら明かさなかった。やがて質問も尽きたのか、白けたのか、何も聞いてこなくなった。


「そういえば、最近この辺りで通り魔事件が起きてるの、聞きました?」


 休憩所を出て行くタイミングを見計らっていると、志奥がそう話題を変えた。礼子は鼓動が早くなるのを感じた。


「あ、それ知ってる」

 榎下が頷く。

「学生ばかりが狙われているそうね」

「やだ、物騒ね。怖いわ」

 末松が自身を抱くように腕を組んだ。

「あたしも聞いたわ。だから息子に、部活で遅くなるときは集団下校するよう言ったもの」

 馬場は礼子に目を向けた。

「礼子さんも知ってた?」

「いえ、知りませんでした。怖いですね」

 喉の引きつりを感じる。声が震えなかったのは幸いだ。

「皆さんも気をつけてくださいね。ただでさえこの辺りは、昔から物騒な事件も多いですから」

 志奥がもっともらしく言って、頬に手を当てた。

「私は子どもとかいないから大丈夫ですけど、皆さんのお子さんは心配です」

「言われてみれば、昔にも似たような事件はあったわね」

 馬場が当時を思い出すような顔で、

「そのときの犯人がまたやっていたりするのかしら」

「でも、確かあの事件の犯人って亡くなっててましたよね」

 末松がそう反応し、榎下なんかは気取った顔で、犯人は学生かもしれない、と講釈口調で言った。それに誰かが冗談を返し、笑いが起こる。


 礼子の耳にはそんな会話など全く入ってきていなかった。辛うじて皆が笑っていたところで、合わせて笑うことは出来たが、意識はほとんど宙を彷徨っていた。


 ノックの音で我に返った。ドアを開けると、事務員の一人が、気まずそうな顔で立っていた。

「どうしたの? 私もすぐ仕事に戻るわ」

 休憩室から中々出てこないことを責められるのではないかと思い、礼子は先んじてそう言った。ここにいるのは決して私の意志じゃない。そう表明するためにうんざりした顔もしてみせる。


 事務員は気まずそうな顔のまま言った。

「礼子さんにお客様です。一恵様がいらっしゃいました」

 今日はとんだ厄日だ。まさか見下しているものが一日の内に全て揃ってしまうとは。礼子は眉を顰めた。

「診察室の一番で待っていただいております」

 事務員はそれだけ言って足早に席へ戻っていた。

 礼子は小さく溜め息をつくと、パートの面々に挨拶して休憩室を出た。


     ○


 一恵は相変わらず白髪の目立つボサボサの髪だった。童話に出てくる山姥さながらの風体だ。この女を見るたび礼子は、不幸な人間なほど老けるのが早いという言葉を思い出す。


「どうもすみません、お待たせいたしました」

 礼子は笑顔を貼り付けて、一恵の正面に座った。

「今日はどうされましたか」


 儀礼的にそう聞いたものの、一恵の用事は分かっていた。どうせまた自身の息子のことだ。一恵は週に二、三回、こうしてクリニックに来ては、十数年引きこもっているという息子のことでくだを巻いて帰って行く。


 礼子の予想したとおり一恵は、

「息子のことなんですか……」

 と切り出した。いつも変わらない。みすぼらし格好も、話の切り出しも、話していく内容も。もう暗唱できてしまうほどだった。


 昔は息子も優等生だった、ある日を境に変わってしまった、それから自分はこんなにも不幸だ、この不幸に耳を傾けてくれるのは礼子さんしかいない。そういって最後には涙ぐみながら、「どうしてこんなことに……」と悔やむように言って帰って行く。


 いつまでも過去にすがりついては、みっともなく取り乱して、周囲に愚痴を振りまいていく一恵を礼子は蔑んでいた。


「そうですね、辛かったですね」

 それでも礼子はひたすら相槌を打ち、宥め励まして、言葉を震えさせる一恵を落ち着かせた。金になるからだ。たったこれだけのことで月換算数万円の利益がでるなら、割り切るべきだ。そう思っていた。同じ事の繰り返しで儲かるならと。


 しかし今日はいつもとは異なった展開を見せた。いつものように一恵が涙ぐんだところで一恵が、


「お互い辛いですが頑張りましょうね」


 と言い出したのだ。


 礼子は咄嗟には理解できず、思わず聞き返した。

「なにをですか?」

「礼子さんにも引きこもりの息子さんがいらっしゃるんでしょう?」

 一恵は卑下するような笑みを浮かべ、

「ですから頑張りましょうね、と言ったんです。辛いですよね。息子が引きこもりというのは」

「どうしてそれを……」

 礼子は上の息子のことを他言したことはなかった。

「一体誰から、そんなことを聞いたんですか」

 しかしその言葉は一恵に聞こえなかったようだった。

「このことは誰にも言いませんから……。また、来ますね」

 そそくさと帰っていた。扉がゆっくりと閉まった。


 頭に血が上るのを感じた。上の息子の事情を知られていたことよりも、あんな人間と同じ立場なことに腹が立った。一恵に仲間意識を持たれ、あまつさえ同情染みた目を向けられたことが許せなかった。


 礼子は怒りにまかせて一恵の座っていたパイプ椅子を蹴倒すと診察室を出た。


 タイミングを見計らったように、先ほどの男性職員が自信ありげな表情で書類を持ってきた。

「確認お願いします」

 礼子はそれに軽く目を通すと、にっこりと微笑んだ。男性職員も同じように笑ったのを見て、さらに頬を吊り上げる。

「今日中に全部やり直して。さっきよりもひどい」

 男性職員は信じられないものを見るような顔をした。肩を落として席に戻っていく姿を見てようやく溜飲を下げた。


 なぜ一恵が息子のことを知っていたのだろうという疑問だけが残った。

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