2 わたし
トイレ掃除用具入れの中。身体が震える。決して掛けられた水が冷たかったからではない。むしろ残暑の厳しい九月に浴びせられる水は、普段の仕打ちに比べれば、心地良いくらいだった。
だから、違う。
震えは、外にいる集団が恐ろしいからだ。そして、わたしの考える〝逃げ道〟が、あまりにも現実的で絶対的だったからだ。それ以外に現状を脱する方法など、何一つ思いつかなかった。わたしはわたしにすら加害されなければ、逃げることも出来ないのだ。
「佐藤ちゃん、どう? 少しは反省できた?」
外から声が聞こえる。神林の声だ。取り巻きの甲高い嘲笑を纏わせ、その言葉はわたしを押しつぶそうとする。
「ねえー、聞いてんの?」
扉がガンガンと鳴る。恐らく蹴飛ばしているのだろう。神林は足癖が悪い。
わたしは返事をしようとして口を開けた。もちろん、反省したと答えるつもりだった。だから、早くここから出して、と。
しかし、昨日母に殴られたときに傷ついた唇がまた裂けて、痛みで声が引っ込んだ。
神林はその一瞬で、気を悪くした。
「無視するなんて生意気」
今度は掃除用具入れの上からホースを投げ入れてきた。緑色の蛇がわたしの顔の辺りで揺れ、黒い空洞と目が合った。外から蛇口を捻る音が聞こえた。しまった。そう思った時には遅かった。空洞から濁った水が押し寄せてきて、わたしの顔を直撃する。鼻や口から大量に水が入ってきて、息をするのすらままならない。溺れる視界の中、わたしは水を避けようとホースを手探った。そうしている間にも、水は容赦なく襲いかかってくる。もうやめて! 溺れながらの叫び声はなんとも無様だった。
「ひどい声! みんな聞いた? この中にカエルでもいるのかなあ?」
神林は惚けるように言って、周りの笑いを誘った。「本当だ、カエルみたい」誰かが便乗して下手なカエルの鳴き真似をした。笑い声はさらに大きくなる。水は止まらない。なんとかホースを掴み、自分の顔から外す。外から悲鳴が聞こえたのは同時だった。すぐに自分が誤ったことに気づいた。濡れた視界を拭って、ホースの掴んだ手を見る。水は天井に向かって、そのまま掃除用具入れの外へ落ちていった。
呼吸が浅くなる。
さっきよりも強く扉が蹴飛ばされた。ホースを取り落とす。水の勢いは既に弱まっていて、わたしの顔に向かってくることはなかった。足下に水が流れていき、やがて止まった。
「おい! ふざけんなよ! 私らに水掛けて、何様のつもりだよ!」
「本当に最悪なんだけど。佐藤、あんたやっぱり反省してないんだ」
神林の怒鳴り声と、わたしを非難する周りの声が重なった。
「ちがう! そんなつもりじゃ……」
「ちがう? 私達に水掛けて、最初にすることが言い訳?」
背骨が震えるくらい恐ろしい声だった。
「あんたやっぱり生意気だよ」
扉が勢いよく開けられて、わたしは引きずり出された。取り巻きの一人に無理やり押し倒される。神林がわたしの腹を踏んだ。激しく噎せて、喉の奥からよだれがいっぱい出た。
取り巻きの誰かが、「佐藤汚い。清めの塩」と歌うようにわたしを詰った。いつからかそれが、わたしへの常套句になっていた。神林はその言葉に笑ってから、わたしを踏む足に力を込めた。
「ねえ、ここ、潰してあげよっか?」
神林はにこやかに笑っている。
「この前保健の授業でやったじゃん。ここに子宮があって、将来子どもを産めるようになるんだって。でも、佐藤ちゃんが子どもを産むなんておかしいでしょ? 生意気で、鈍くさくて、可愛くもない、いじめられっ子の佐藤ちゃんがが子どもなんて」
どんどん体重がのせられる。咳とよだれが容赦なく喉を押し開けていく。臓器が口から出てしまいそうだった。
「佐藤汚い、清めの塩。ほら、潰してあげるよ」
わたしは彼女の足首を掴んで首を振った。
「お願い、それだけは、やめてください……」
泣いているのか、それとも濡れているからそう思うだけなのか、自分でも分からなかった。
神林は目だけで周りに合図する。やめてもらえる、わけではない。取り巻きはわたしの手足を押さえ込んだ。その中の一人、右腕を押さえている子は、わたしが助けてあげた子だった。
わたしが転校してきた昨年の十月。彼女は既にいじめられていた。原因は分からなかったが、ひどいものだった。転校したての私には何もできなかったが、長い間ずっと気に掛けていたのだ。そして夏休み直前、ようやく助けることができた。しかし、いじめのターゲットが自分に変わった。そして、助けたはずの彼女までいじめの側に変わってしまった。
救いと裏切り。わたしの世界はそれで変わった。
夏休み中にどのようなやりとりがあったのかは分からない。しかし夏休み明けの始業式の日、わたしのクラスでの立ち位置が変わってしまったことは、机を汚す落書きと、神林のグループに加わった一人を見て、すぐ分かった。
「やめてよ、真奈佳ちゃん……」
右腕を押さえる真奈佳は虚ろな目でわたしを見つめていた。ご、め、ん、ね。そう口が動いて、へらりと媚びるように笑った。神林にもそのようにして媚びへつらったのだろうか。悔しかった。そんなことのために助けたわけじゃない。
「もう下校時間だぞ。早く帰れよ」
神林の足が高く持ち上げられたとき、トイレの外から先生の声が聞こえてきた。担任の木村正義先生だ。改名してしまえ、といつも思う。きっとそこだけは、学校中の誰とでも意見が一致するだろう。
「はーい。すぐに帰りまーす」
神林が普段よりも高い声で返事をした。
「ああ、神林か。悪いがトイレの窓も閉めておいてくれ。先生ちょっと忙しくてな」
正義先生はそれだけで、トイレの前を離れていった。
神林が噴き出した。トイレにわたし以外の人間の笑い声が響く。もちろん真奈佳も笑っていた。一見すれば楽しそうな顔で。あるいは本当に心から笑っているのかもしれない。
「見回りも来ちゃったし、もう帰ろっか」
その言葉を合図に取り巻きはわたしを解放した。
「あ、佐藤ちゃん」
トイレの外に足を向けかけたところで、神林が振り返った。
「窓閉めときなよ。あと床の掃除もね。とりあえず今日はそれで許してあげる。今日は、ね」
今日は、だよ。今日だけ、だよ。周りもしつこいくらいに念を押した。
「明日はどうなるだろうね」
真奈佳も一緒になってそう言った。明らかにわたしを蔑む笑顔だった。真奈佳はわたしの視線に気づくと、ハッとした顔で目線を下げた。
「じゃあね、佐藤ちゃん。また明日」
一仕事終えたような顔で神林達はトイレを出て行った。真奈佳は気遣わしげに一度だけわたしを振り返ったが、何も言ってこなかった。
わたしは、しばらくそこを動けなかった。
今日のいじめは終わる。でも、まだ今日が終わったわけではない。家には母がいる。水浸しのわたしを見て、激しく荒れるだろう。洗濯が大変だからと言って、わたしを殴るのだ。わたしを殴っても、洗濯の大変さは変わらないのに。昨日はご飯を作るのが面倒だと言って殴られた。そして昨日と同じように、姉は味方もしてくれない。
明日を迎えるために、今日を犠牲にし続けなくてはいけない。その事実に気がついて、自然と笑いがもれた。
「もう限界だよ」
口に出すと、意外なほどしっくりとくる言葉だった。そうだ、もう限界なのだ。わたしは床の掃除をしながら唯一の〝逃げ道〟に思いを馳せた。
昇降口ですれ違った正義先生に、挨拶をされて学校を出た。服や髪が濡れている理由は聞かれなかった。
「神林たちと遊ぶのは良いが、ほどほどにしとけよ」
先生の手にあった書類には『見回り』という文字が見て取れた。わたしのいじめは雑務にも劣るのだ。
校門を出て学校を振り返る。無表情な校舎が夕焼け空を背景に聳えている。感傷などなかった。心はいつになく穏やかだ。トイレの窓を閉め忘れたことに気がついたが、戻る気も起きなかった。
いつもの下校路を外れて、姉の通っている高校を通り過ぎ、学区外へと歩みを進める。危ないから近づかないようにと、学校で散々言われていた廃ビルを見上げる。天を衝くように背が高く、今にも崩れてしまいそうなほど古い。
錆びた外階段に足を掛けた。
夏休みが明けてからよく耐えたと思う。いや、それ以前からずっと、わたしはよく耐えていた。耐えるばかりが人生だった。それにもう疲れてしまったのだ。楽になりたい。ただその一心で上を目指す。
ときどき下を見ては、地上との距離に戦く。同じくらい期待もあった。これだけの高さがあれば小学生の体など一溜まりもないだろう。
屋上まで上がるとランドセルを放って、錆びたフェンスへ駆け寄った。温い風が濡れた体を優しく撫でる。夕焼けが落ちた町並みは、燃え盛っているようにも見えた。錆びたフェンスは思いのほか頑丈で、わたしはフェンスをよじ登ることにした。靴下まで脱いで、フェンスに足を掛けたとき、
「もしかして、死ぬつもり?」
後ろか声が消えた。女性の声だった。頭のどこかに後ろめたさがあったせいだろうか、咄嗟に、怒りで顔を赤くした母を思い出した。
木に張り付いた蝉のような間抜けな格好でおずおずと振り返る。一人の女性が立っていた。背が高く真っ黒なスーツを着ている。年齢は不詳だった。高校生のようにも、三十代のようにも見える。表情はにこやかだったが、その瞳には温度がなく、どこか作り物めいていた。その姿からわたしはスーツ姿の死神を想像した。
女性は自然な身のこなしで近づいてくると、
「やめときなよ」
澄んだ声でわたしをフェンスから引き剥がした。着地に失敗して、無様に尻餅をつく。
「ここからじゃどうせ死ねない。死ぬならもっと高いところがいいよ」
面食らった。止めるわけでもなく、場所についての文句を言われるとは思っていなかったから、意表を突かれた。
「ああ。もしかして、止めて欲しかった? ごめんね。私は別に善人じゃないから」
見透かすように言われ、顔が熱くなった。
「でも、そうだな。一応聞いておこうか」
女性はわたしに目線を合わせるように屈み、
「どうして死のうと思ったのかな?」
しばらく黙っていたが、いつまで経っても女性がわたしの前から退かないので、理由を話すことにした。いじめと虐待に耐えかねたことや、一度だけスクールカウンセラーにも相談したが、軽くあしらわれたこと。先生も助けてくれないこと。世界の全てがわたしに優しくないこと……。話している間女性は無言で、「生まれてこなければよかった」と吐きだしたときも、ただ考え込むように沈黙を守った。
「それで死ぬなんて馬鹿みたいだね」
第一声はそれだった。とっさに意味を飲み込めず混乱するわたしに、女性は不意に笑顔を見せた。
「名前なんだっけ。あ、私はチヅミ。『千』に『摘む』で千摘ね」
今度は旧友に話しかけるような口調になった。困惑しながら答える。
「佐藤です」
「下の名前は?」
その質問には口ごもった。名前で揶揄われることが多かったからだ。小さな声で名前を言うと、
「私とお揃いだね」
千摘さんは冷たい目をいくらか柔らかくして笑った。わたしは首を傾げた。わたしの名前に、「ちづみ」のどの文字も入っていない。漢字にしても同じだ。そう伝えると、千摘さんは笑って手を振った。
「ああ、そっちじゃなくてさ。苗字の方。私の苗字と似てるんだよ」
千摘さんは自分の苗字を名乗った。
「ね、お揃いでしょ」
「でも、わたし自分の名前好きじゃないんです……揶揄われるから」
「そうなの? 可愛い名前だと思うけど……。でも、好きじゃないならさっちゃんって呼ぶね。佐藤だからさっちゃん。良いでしょ」
頷いたわたしの頭を撫でながら、そうそう、と思い出したように話を戻した。
「さっちゃんさ、いじめとか虐待とか、そんな程度で死ぬなんて馬鹿みたいだよ」
言葉に詰まった。
「つらいのも苦しいのも分かったけど、それで死んでどうなるの? さっちゃんばかりが割を食って、他はのうのうと生き続けるんだよ。きっとさっちゃんが死んだくらいじゃ、誰も反省なんてしない。お母さんも、神林って子も、その周りの子も、先生も、カウンセラーも。そんなのって不公平じゃない?」
千摘さんはわたしを見つめたままで言う。その瞳には決して同情の色はなく、かといって義憤に駆られているようでもなかった。
「生まれてこなければよかった、なんて言いたくなるほど追い詰められてるなら、向こうにも同じことをしようよ。生まれてきたことを後悔するくらい、追い詰めてやるんだ」
「でも、わたしにはそんなこと……」
「安心してよ。私が代わりにやってあげるから。手始めに学校のいじめっ子をなんとかしようか。虐待する親とはいえ、いなくなったらそれなりに困るでしょ? 親は最後ね」
千摘さんは階段の近くに転がっていたわたしのランドセルを持ってきて、
「とりあえず今日は帰りなよ。明日になったら、世界が少しだけ優しくなってるはずだから」
その言葉に押されるようにして家路についた。改めて廃ビルを見上げると、来たときよりも随分と小さく見えた。縮んだ廃ビルを見るうち、千摘さんなんて女性は、わたしの妄想だったのではないかと思った。苦しい現実から逃れたいがために、わたしが作り出した幻想。わたしだけの救世主。そうでなかったら、見知らぬ小学生のために、人殺しを提案する人間なんているはずない。
冷静に考えるが、撫でられた頭の心地良さは忘れられそうもなかった。
神林の死体が学校のトイレで見つかったのは、その翌日のことだった。
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