反旗

冬場蚕〈とうば かいこ〉

反旗

第一章

1 圭祐

 圭祐が恋人の羽崎奈月に呼び出されたのは、夏休み明けの長い始業式を終えた後だった。帰り支度をしていると、羽崎が教室にやってきて、無言で腕を引いた。

 羽崎にとって恋人とは、どうやらそういう存在であるらしかった。理由の分からない行動も察して許し合える存在。言葉がなくても通じ合える存在。そして、自分がいつでも独占できる存在。

 屋上に出た。未だ残暑が厳しく、蝉もけたたましい。生温い風が頬を舐める。

「教室じゃダメなのかよ。なんでわざわざ屋上なんか……」

 顔を顰めてみせると、

「ちょっと、大事な話だから」

 羽崎がいつになく真面目な顔で言った。別れを切り出されるのだろうか、と想像した。構わなかった。所詮は、発散と優越感のための交際。そろそろ羽崎に付き合うのにも嫌気が差してきたところだった。圭祐はすぐに答えを決め、どのように反応するのが一番波風が立たないのかを考えていた。

 羽崎は惑うような素振りを見せてから、何度か大袈裟に深呼吸をして、芝居がかった様子で、切り出した。

「あたし、前から少し体調が良くなかったじゃん。それでさ、少しおかしいなと思って病院に行ったの」

 迷うような沈黙。反応を待っているのかと思い、相槌のため口を開いた。

「ねえ圭祐。あたしね、赤ちゃん出来たんだよ」

 と言った。

 すぐには理解できなかった。蝉の声が大きく聞こえた。圭祐は思わず羽崎の顔を見つめた。羽崎は日に焼けた肌でも分かるほど赤面し、次の瞬間にはにかみ、伏し目がちに頷いた。

「本当に……」

 乾ききった舌を引き剥がすように言う。

「本当に、出来たのか?」

 羽崎が頷くのを見て、目の前が大きく揺れた。

「なにかの間違いとかじゃないのか、だって、市販の検査キットって、間違いも多いって聞いたし……」

「だから、病院で見てもらったんだって」

 口紅で真っ赤な唇を尖らせ、チークでピンクがかった頬を膨らませる。

「ちゃんと話聞いてた? ……まあ、自分でも検査はしたけどさ」

 ポケットからピンクと白で色分けされたものをとりだした。検査キットだ。背筋で鋼鉄のムカデが這い回っているような、重たくいやな感覚に襲われる。

「正真正銘、あたしと圭祐の子だよ」

 羽崎は愛おしそうに自身の腹を撫でた。

 認めるしかなかった。夏休み中どころか、それ以前から、毎日のように羽崎と会っていたし、まず間違いないだろう。羽崎は性に奔放だが浮気できるタイプではない。

 しかし不可解でもあった。避妊が完璧だったわけではない。けれど羽崎はいつだったかに、避妊薬を飲んでいる、と言っていたのだ。「だから、生でしようよ」そうしつこく食い下がってきたのは彼女の方だった。

「なあ、奈月」

 試すような気持ちで、

「お前、薬飲んでたって言ってたよな。それなのに、出来るのか? やっぱり勘違いじゃないのか」

 羽崎はわざとらしく小首を傾げた。

「そうだったっけ? まあ、どうでもいいじゃん、そんなことは」

 呼吸が浅くなる。頭に血が上っていくのが分かる。愛おしそうに自身の腹を撫でる羽崎の脳天気さと、過去の自分の浅はかさに怒りが湧いた。

「それよりさ、あたしと圭祐が親になるんだよ」

 羽崎は幸せな顔を臆面もなくさらし、自分の腹を撫でたs。

「名前も考えなくちゃね。何がいいかな」

 騙されたのだと思うと、怒りが募った。

「ほら、圭祐も触ってみて。この子もきっと喜ぶ」

 手を取られた瞬間、圭祐は舌打ちと共にその手を振り払った。

「この馬鹿女が」

 低い声で、羽崎を睨む。

「……え?」

「産めるわけないだろ。二人ともまだ高校生で、バイトすらしてないのに、本気で育てられると思ってるのかよ」

「そんなの、やってみないと分からないじゃん!」

 羽崎の顔色が変わる。

「高校なんてやめてさ、二人で働きながら生活しようよ。きっとママ達も助けてくれるよ。圭祐のお母さんだって、話し合えば分かってくれる」

 圭祐は喉の奥から唸って、頭を掻いた。

「うちの母親がそんなこと、許すわけないだろ。お前のところはいいかもしれないけどな。普通は違うんだ。高校生が子どもを産むなんて……どう考えてもおかしい」

 羽崎の頬を涙が伝う。圭祐は溜め息をついた。

「大体、なんで薬を飲んだなんて嘘ついたんだよ。そんなことしなければ子どもなんてできなかったのに……」

「夢だったの」

 嗚咽交じりだった。

「ママがあたしを産んだのが十八歳の時だったから、あたしも若いお母さんになりたかったの。ねえ、どうして産んじゃダメなの? 夢を叶えようとするのがそんなに悪いの? それに、高校生が子どもを育てられないって誰が決めたの。あたしだってこうして育ったじゃん」

 頭の奥に鈍痛を感じた。

 羽崎の、自分がまっとうに育ったのだと信じられる神経が、圭祐にはいっそ羨ましかった。何人もの男と体の関係を持ち、素行も不良で、挙げ句の果てに計画性もなく子どもを産もうとする人間の、一体どこがまともなのか。

「このまま殺したりしたら可哀想だよ。子どもを堕ろすって、殺すってことだからね」

「そんなこと、僕だって分かってんだよ」

 溜め息を堪えながら、羽崎を見る。背後に、屋上のフェンスが見える。このまま突き落としてしまおうか。圭祐は半ば本気で思案した。

「なあ、産んでから育てられなくなった方が困るだろ? それこそ子どもが可哀想だ」

 圭祐はなるべく優しい声を心掛けた。

「変に愛着が湧く前に、堕ろした方がいい。その方が奈月の負担も減るだろ。金は……僕がなんとかするから」

 羽崎ははじかれたように、

「愛着が湧くとか、物みたいに言わないでよ!」

 と金切り声を上げた。

「もう、この子も立派な一人の人間なんだよ? この子は生まれたがってる。あたしには分かるの。お腹からそういう意志が伝わってくるの!」

 圭祐は堪えきれず溜め息をつく。

「大体、妊娠っておめでたいことじゃないの? それなのに、どうしてあたしが責められなきゃいけないの? なんで圭祐は喜んでくれないのよ!」

 羽崎はまた嗚咽を漏らした。チークで桜色だった頬が、怒気で赤くなっている。

 圭祐はそれからもあらゆる方法で説得を試みた。しかし脅しても、宥めても、羽崎の首が縦に振られることはなかった。「高校生が子どもを産めない社会が間違っている」と壮大な責任転嫁までする始末だった。既に日は傾き始めており、屋上に来てから四時間が経過していた。

「それじゃあ、とりあえず一回お母さんに相談してみろよ。僕も母親に相談はするから。産むかどうかは、それからまた考えよう」

 圭祐はついそう言ってしまった。羽崎は途端に顔を輝かせ、

「約束だからね。絶対にだよ?」

 と、さっきまでの態度が嘘のように、軽やかな足取りで屋上を出て行った。

 狐につままれたような気分でその背中を見送る。足を踏み外して落ちてしまえと願ってみるが、羽崎は危なげなく階段を駆け下りていき、扉が閉まる直前こちらを振り返って歯を見せた。舌打ちがもれた。

 ふと空を見上げると、塔屋の上に人影を見た。貯水槽のそばに佇んで、圭祐を見下ろしている。女子生徒だ。リボンの色からして、恐らく同学年だろう。だが、見覚えのない顔だった。

 女子生徒は何かを言っていたがよく聞き取れなかった。圭祐は曖昧に頷き屋上を出た。口止めを忘れたことに気がついたのは、家に帰り、制服のポケットに入った安っぽい妊娠検査キットを見てからだった。

 羽崎が暴行事件に巻き込まれたという報せを受けたのは、その日の夜だった。


 真夜中の電話だった。羽崎の母親が、妊娠を聞かされ、怒るためか祝福を伝えるために電話を掛けてきたのだと思った。羽崎に似たあの母親なら後者だろうとも思った。

 しかし違った。

『奈月が……奈月が事件に巻き込まれて……。圭祐くんも、明日でもいいからお見舞いにきて……』

 涙声で病院名を告げられ、電話は切られた。

 夏休みの中頃から起きている通り魔事件の事を思い出した。被害者は既に三人出ており、全員が死体で見つかっているらしい。圭祐の通う学校でも一人亡くなっている。栄えある一人目の被害者だ。警察と学校とPTAで連携して、見回りを強化しているという話も聞いているが効果は薄いようだ。

 本当はすぐにでも病院へ行くべきだったのだろう。しかし億劫さが勝り、圭祐は結局、言われたとおり朝になってから、義務感で重い足を病院へ運んだ。

 病室のベッドの脇に座る羽崎の母親がまず圭祐に気がついた。

 病院には不似合いな派手な服と化粧。仕事帰りか、あるいは今から出勤なのだろう。羽崎は圭祐が来たことを知ると、母親に退席を求めた。母親は手に持ったハンカチで目元を押さえながら病室を出て行った。すれ違ったとき強い香水の臭いを嗅いだ。

「大丈夫か?」

 なるべく心配している風を装って聞く。羽崎はむくりと起き上がった。沈黙が続いた。窓の外では今日も蝉がけたたましく鳴き、酷暑の日照りに悪態をついている。

 あまりのショックに話したくもないのだろうか、と考えたがすぐにそれはないだろうと思い直した。羽崎は元カレにレイプされたことすら誇らしげに話す人間だった。口では傷ついたと言っていたが、その表情の充足感を圭祐は知っている。

「大丈夫か?」

 羽崎はようやくこちらを向いた。

「あたしはね」

 どことなく投げやりな言い方だった。羽崎が自身の腹を頻りに撫でているのを見て、ようやく気がついた。

「なあ、まさか……」

「うん、ダメだったって」

 羽崎は顔を歪ませた。

「お腹を蹴られてね、守ろうと思ったんだけど、無理だった」

 蹲るように身を丸め、何度も鼻をすすった。圭祐は体が強張るのを感じた。

「あたしと圭祐の子、死んじゃった……」

「そうか」

 圭祐は俯いた。奥歯を噛みしめて、拳を固く握る。叫び出したい気分をなんとか抑えて、もう一度だけ、そうか、と言った。

「お腹の子、守れなかった……。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 嗚咽に攫われた謝罪がせまい病室に響く。その声を聞きつけた母親が病室に戻ってきて羽崎を抱きしめた。母親は圭祐の顔を一瞥し頷いた。

 圭祐はそれに従って病室の扉に手を掛けた。

「圭祐、ごめんね」

 背中に、羽崎の声がかかった。

「圭祐との子だったのに……」

「奈月が謝る事なんて、何もないよ。奈月だけでも無事で良かった」

 圭祐は振り返ることもなく病室を出た。

 そうだ。謝る必要なんて、どこにもない。

 病院の出口に向かいながら、圭祐はようやく頬を緩ませて笑った。腹の底から笑いがこみ上げる。すれ違った看護師に怪訝な顔をされるが、なかなか笑いはおさまらなかった。

 本当に、本当によかった。

 そのときポケットで、携帯電話が震えた。ショートメッセージが来ている。知らない相手からだ。

 簡潔な文章だった。

〈今日の放課後、屋上まで来てください〉

 登録されている名前は「佐藤珠希」。名前から察するに女だ。

 圭祐はそう考えてから、昨日、屋上で見た女子生徒のことを思い出した。


 果たして圭祐の予想は当たった。学校が終わる時間を狙って屋上に行くと、案の定、昨日の女子生徒がいた。

「待ってたよ」

 圭祐の顔を見ると、「佐藤珠希」は顔を綻ばせた。

「円木圭祐君、だよね。私は佐藤珠希。クラス一緒になったことないから知らないよね。よろしく」

 珠希が手を差し出してきた。圭祐はその手を一瞥し、

「一つ、質問なんだけど」

「なに?」

「あのメッセージだよ。どうやって送ってきたんだ。電話番号とか、ほとんど誰にも教えてないのに」

 ショートメッセージは、相手の電話番号を知らないと送れない仕様だ。

「ああ、そんなこと」

 手を引っ込めて、朗らかに笑った。

「職員室で円木君の個人情報を見ただけだよ。入学した最初にみんな書くでしょ?」

「教師にバレるだろ」

「私は優等生だからね。大抵のことは出来るんだ」

 軽やかな声だった。

「それに、先生はみんな忙しいみたいだったからさ。通り魔事件のせいじゃない? きっと職員室に入ってきた生徒なんて、気にしてられないんだよ。通り魔に忙殺されてるんだ」

 その冗談は少しだけ笑えた。

「それで羽崎さんは元気だった? ちゃんと救急車は呼んだんだけど。死なれると困るんだ」

「やっぱり、君なんだ」

 あのメッセージが来たときから、そんな予感はあった。

「やっぱりってなに?」

 しかし珠希は素っ頓狂な声を上げた。

「頼んできたのはそっちでしょ。私はそれを実行しただけ」

「頼む? 誰が、なにを?」

「円木君が。羽崎さんを襲うのを」

 そんなこと頼んだだろうかと記憶を引っ張り出し、塔屋の上から彼女が何かを言っていたのを思い出した。

「あのときか」

「正解」

 珠希はにこりと笑った。

「昨日、『彼女さんのお腹の子堕ろしてあげようか?』って聞いたら頷いたから」

 なんて質問をするんだ、と思ったが、それに救われた。

「ありがとう。助かったよ」

「なんで、とかは聞かなくていいの?」

 珠希は意外そうな顔をした。聞いてほしそうな顔にも見えたので、聞いていやった。

「なんでわざわざ奈月のことを襲ってくれたんだ。そもそも、なんで子どもを殺すなんて提案を?」

「私はね、間引きたいんだ」

 途端に顔が輝く。

「産むべき子どもと、産むべきでない子ども。子どもを産む資格のある人間と、ない人間。そういうのを、決めたいんだ」

「決めるって、佐藤さんが?」

「珠希でいいよ。私も圭祐って呼ぶから。……そう、私が決めるんだよ、圭祐。産む資格も、生まれるべきか否かも、全部私が決めるんだ」

「選民思想だ」

「選民、ね。確かにそうなのかも。でも、みんなきっと根底にはそういう意識があるんだよ。高校生が子どもを産むことの是非とか、犯罪者と血の繋がった子どもの処遇とか。そういうものの答えは大体決まってて、でも綺麗事で隠してる。私はそれを剥いでやりたいんだ。そうすれば、きっと結論は一緒になる」

「ならないこともあるだろ。世界は広い」

「でも、圭祐は羽崎さんに子どもを産んで欲しくなかったんでしょ? 流産したって聞いて喜んでもいた。ほら、やっぱり一緒だよ。世界は狭い」

 圭祐はふいと目を逸らし、

「僕が産んで欲しくなかったのは高校生が子どもを産むなんて、一般的に褒められたことじゃないからだ。苦労するのは子どもなんだし」

「同感だね。高校生なんて稼ぎもないし、精神的にもまだまだ未熟だ」

 あざとさともあどけなさともつかない表情をする羽崎が思い浮かんだ。羽崎は天真爛漫で、幼稚だった。

「だから襲ったんだよ。不幸の芽は摘んでおかないと」

「でも、僕は選民意識があるわけじゃない。むしろ、高校生が産んだ子どもは不幸だとか、片親は不幸だとか、そういう決めつけは嫌いだ」

 圭祐は自身が片親であることもあって、声に熱を込めずにはいられなかった。

 しかし同時に、三年前のことも思い出していた。兄が引きこもりになった原因を、それを作り出した人間を、思い出す。兄は今、幸せなのだろうか。

「奇遇だね。私も出産は全て祝福するべきって考え方は嫌いだよ。大嫌い。子どもの人生に責任を持てないなら、子どもなんて産むべきじゃないんだ。出産は義務じゃないんだからさ。それを分かってない人が多すぎるんだよ。だから私が間引くんだ」

「でもそんなの、現実的じゃない」

 圭祐は、年金制度の崩壊や、介護や、人類史や、感情の理屈で子どもを産むことの重要性を伝えた。

「圭祐、子どもは道具じゃないんだよ」

 にべもなかった。

「子どもを産まないとどうとか、子どもがいないとこうとか。結局は自分のことしか考えてないくせに、まるで子どものためかのようにそう言って。本当に反吐が出る。そんな奴らのせいで不幸な子どもは増え続けるんだ」

「幸せになる可能性だってあるだろ」

 圭祐は、自分がなぜこんなにむきになっているのだろう、と不思議に思いながら口にする。

「可能性はね。でも、確実に幸せになるわけじゃない。子どもの人生を博打と勘違いしてない? 不幸になる可能性があるなら、産まない方がいいんだよ」

「だからそんの――」

 現実的じゃない。

 圭祐はそう言おうとしてから、口を噤んだ。堂々巡りだと気づく。

「なんで僕にこんな話を?」

 珠希は作り笑顔を向けてくる。

「それだよ、圭祐」

 手を差し出し、とっておきの秘密を共有するような弾んだ声で。

「私に協力して欲しいんだ。私と一緒に不幸の芽を摘もう」

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