第九章
1 圭祐
「やあ、待ってたよ」
志奥にそう言われた瞬間、圭祐は不思議と全てを報われたように感じていた。自分が棒に振った年月も、犠牲にしたものも、決して無駄ではなかったのだ。
母の殺害を遂行できたからだろうか。
母を殺すのは、思った以上に簡単だった。長年のストレスで疲れ切っていた母は、実年齢以上に衰えており、圭祐が襲いかかったときの抵抗もささやかなものだった。
包丁を突き立てた瞬間のあの目は、死を受け入れている人間の目だった。母はきっと、反省も後悔もせず、事切れる間際まで二人の息子に失望していたのだろう。
「圭祐。悦に浸ってるところ申し訳ないけど、その男の子、ちゃんと押さえといて。君の大事な後輩の弟くんだよ」
その声にハッとして、悶えている少年――啓太の体を上から押さえつけた。
「お兄ちゃんは元気だった?」
そう問いかけたが、啓太は藻掻きながら、志奥に暴行されている少女に手を伸ばした。
「莉緒! 今、助けてやるからな!」
少女――莉緒もうつろな眼差しで笑い、手を伸ばした。だが二人の手が触れあう寸前、志奥が莉緒を蹴飛ばした。二人の慟哭が虚しく響いた。
志奥はそれを見ながら頬を上気させ笑っていた。
ここまでは全て、彼女の計画通りに進んでいる。
「圭祐。ちゃんとあの人は呼んであるの?」
莉緒の腹に足を乗せたまま、
「あの人が来ないと、計画は台無しなんだけど」
「大丈夫。あんな仕掛けされたら、普通飛んでくるよ」
「普通なら、ね」
小馬鹿にする口調だった。
「まあ、来ることを信じよう。いや、来なくてもそれはそれで証明になるからいいか」
足下の莉緒に目を落とすと足に体重を掛けていった。莉緒は苦しげに呻いて暴れ、やがて気を失った。啓太は絶望的な表情で過呼吸気味に呻いていた。
「それにしても、なんで高校生で子どもを産もうって考える人間は、いつの時代にも一定数いるんだろうね。あまりにも傲慢だよ。本当に罪深い」
圭祐は肩を竦めて首を振った。
「あ、そうだ。不必要な接触はやめようって言ったのに、なんでうちのクリニックまで来たの?」
莉緒から足をどけ、
「なにかあったんじゃないかって本当にヒヤヒヤしたんだからね」
「宮下の母親がどんな人間か、一目見ておこうと思っただけだよ。別にお前に会いに行ったわけじゃない」
半分は本当で、半分は嘘だった。志奥に会う目的もあった。情報を集めたいがために、噂好きなパートの一員になったと聞いて、面白そうだと思ったところもあったのだ。
「そう。宮下先生の印象はどうだった?」
「まあ思ったより普通の人だったな。自分の子どもを苦しめる人間って言うから、もっとおかしいのかと思ってたけど、僕の母親とさして変わらない」
志奥は頷いた。
「人間なんてそんなもんだよ。見た目からしておかしい人間なんてそうそういない。自分をおかしいと分かっている人間ほど、周囲に擬態するものだ」
圭祐は少しだけ笑った。彼女が言うと説得力が違う。スーツを着て働いている四十絡みの女が、まさか十九年前の事件の真犯人だとは誰も思わないだろう。
志奥はふと思い出したように、部屋の中央辺りで棒立ちになっている、小学生の少女へと体を向けた。名前は確か、志緒と言ったか。圭祐はこちらの少女の顔には好感が持てた。ハの字に下がった眉や、どことなく気の弱そうな雰囲気が、莉緒とは違い、彼女と似ていなくて良い。
「ほら、さっちゃん。最近のスーツは、機能性が良いって言ったでしょ」
志緒は目を見開いて、絶望的な表情をした。それを見て、志奥は苦笑を浮かべた。
「小学生の相手ってやっぱり難しいね」
圭祐は密かに志緒へ同情心を寄せていた。きっとこの子は、志奥に利用されるだけ利用されて、どんどん選択肢を失っていくのだろう。そしていずれ、自分や宮下のようになるのだ。志奥にとって志緒は、宮下の後釜でしかない。理想的な弱者として、情報収集役として消費されていく。
視線に気づいた志緒は救いを求めるような目を向けてきた。圭祐はなるべく優しげな顔を作って笑いかけてやったが、どう写ったのか、さっと目を伏せられた。
「あの人が来る前に、この子だけでもやっておこうか」
志奥が再度莉緒に向かって足を上げたところで、
「あんたら、何やってんだよ!」
髪を振り乱しながら、一人の女が飛び込んできた。
派手な化粧と地味な服装が噛み合っておらず、よほど急いで来たことが窺えた。無理もない。女の家のポストにかつて女から渡された検査キットと、ここの住所を書いたメモを入れておいたのだ。直情的な彼女なら飛び出してくると踏んでいた。
「やっと来たね」
志奥の声は朗らかだった。
「これでようやく、役者が揃った」
持ち上げていた足を戻し、入り口の方を見て笑った。
そこに立っていたのは、佐藤奈月――旧姓、羽崎奈月だった。
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