2 わたし
「あんたら、何やってんだよ!」
叫び声と共に現れたのは、わたしの母だった。千摘さんと啓太を突き飛ばした男――圭祐は、このときを待ちわびていたかのように母を振り向いた。同時に、過去の事件の説明で伏せられていた名前が誰のものだったのかを知る。
「やっと来たね」
千摘さんの声は朗らかだった。
「これでようやく、役者が揃った」
「やっぱりお前らの仕業だったか……」
母は苦々しい顔で千摘さんを睨んだ。対して千摘さんは余裕のある顔をしていた。
「へえ。気づいてたんだ。っていうことは警察にも通報したのかな?」
「……してない」
千摘さんはせせら笑った。
「まあ、そうだよね。子どもを虐待してるような人間、警察とは関わりたくはないよね。羽崎さんは利己的だから、どうせしないとは思ってたよ。あ、今は羽崎じゃなくて佐藤だっけ? それとも『なつみ』って呼んであげた方が良いのかな?」
母は目を見開いた。
「お前、もしかして……」
「もちろん。柿崎先生には、さっきちゃんとお断りの電話を入れておいたよ。『あなたが執心しているなつみという名のホステスですが、実はあなたのことを裏切る予定のようですよ。詳しいことは、うちのクリニックの宮下までご確認いただければ』ってね」
千摘さんは母から離れるようにこちらに歩いてきた。
「子は鎹なんてことわざがあるけどさ、それを実行しようなんて本当に愚かだよね。そんな理由で生まれさせられる子どもの気持ち、あなたは考えたことあるの?」
母は自分の腹に手を添えた。わたしはそれを見て、姉の日記を思い出した。
日記には、姉と母が妊娠していることが書かれていた。それぞれの出産予定日にはハートマークのシールまで貼られていた。姉の妊娠が発覚したのは、今年の七月初旬だったようだ。それからというもの、事細かに自分の体温や体重、その日食べた献立までもが書き記されていた。
反対に日記の中で知った母は残酷だった。彼女はある医者と結婚したいがために子どもを作ったのだという。その後のことをどう考えているのかは分からないが、わたしと同じように育つのかもしれないと思うと、ぞっとした。あのとき千摘さんの『不幸の芽を摘む』という言葉を真に理解できた気がした。
「あなたが無責任に生んだせいで苦しむ子がいるんだよ」
千摘さんの手がわたしの肩に置かれる。
「そんなの、お前に関係ないだろ」
母はふと目を逸らして、
「あたしが自分の子どもをどう扱おうが、あたしの勝手だ。大体そんな子、生みたくて生んだわけじゃない」
心が漣立つのを感じ、自分の中に残る母への期待に気がついた。そんなもの、あの日記を見た時点で捨てたと思っていたのに。
母と姉がわたしに隠していたのは、わたしと姉の血が半分しか繋がっていないということだった。姉とわたしの父親は違う。姉は母に似て、わたしは父に似てしまった。そして姉だけが虐待を免れる理由は、そこにある。姉の父はただのギャンブル狂だったが、わたしの父は加えて詐欺師だったのだ。
わたしの体内に流れている薄汚い詐欺師の血を母は嫌っていた。
「そんな子ども、欲しいならお前にくれてやるよ」
乱暴な口調だった。
「あいつに似てて、その顔を見てるだけでむかつくんだ。そいつは存在が罪なんだよ」
もし言葉が質量を持っていたら、辺り一面にはわたしの鮮血が飛び散っていただろう。
千摘さんはわたしを一瞥すると、
「なら、生まなければ良かったのに」
とびきりの笑顔で言った。
衝撃が体を貫いた。まさか、千摘さんにまで存在を否定されるとは思ってもみなかった。
つい昨日、味方でいてくれると言っていたのに。いや、それ以前から彼女だけはわたしの存在を肯定してくれていた。まさかあれすらわたしを小間使いにするためだけの、体の良い殺し文句だったのか。わたしはそんなものに騙されて、初めてできた親友を裏切ってしまったのか。
今までのことが脳裏を駆け巡り、目の前が揺らいで、景色がぼやけた。わたしは泣いているのだ、と妙に冷静な頭で思う。
「なんで生んじゃったの?」
志奥千摘は軽やかに続ける。
「私、高校の時に教えてあげたよね。あなたに子どもを産む資格なんてないって。口で言っても分からないだろうと思って、わざわざ襲ってあげたのにさ……。あ、もしかして馬鹿だから忘れちゃった?」
母は突然笑い声を上げた。気が狂ったかのようなキンキンと頭に響く声だ。志奥千摘も僅かに顔を顰めていた。
「なあ、お前。本当はわたしに嫉妬してるんだろ?」
母は表情に自信をみなぎらせていた。
「お前、人に子どもを産む資格がどうとか言ってるけど、本当はただ羨ましいだけなんじゃないのか? お前、実は不妊なんだろ? だから嫉妬心でこんなこと」
志奥千摘は呆れきった顔をした。
「なにその妄想。例えそうだったとしても、それに何の意味があるの? あなたが子どもを産む資格がないことに変わりはない。それは今証明されている。それだけでしょ」
母は鼻を鳴らし、不意に真顔に戻った。
「子どもを産んだことも、育てたこともないお前に何が分かるんだよ。子どもっていうのは手が掛かるんだ。お前は、それを分かっていない。生んでみなきゃ、これは分からねえよ。そのくせ、どこから目線であたしにものを言ってんだよ」
志奥千摘ははっきりと顔を顰めた。ここまで不愉快そうな彼女は初めて見た。
「そんなこと、生んでみないと……育ててみないと、分からなかったの?」
哀れむような調子の言葉に、母は顔を赤くした。
しかし母が怒鳴るより前に、
「やめよう、羽崎さん。こんなのいつまで続けても水掛け論だよ。私はあなたが嫌いだし、あなたも私が嫌いでしょ? 嫌いあってるもの同士、お互いを受け入れられないと思う。だから、冷静な第三者に審判を下してもらおう」
志奥千摘はポケットから一本の果物ナイフを取りだした。
その柄が、こちらを向く。
「ねえ、志緒ちゃん。あなたはどっちが正しいと思う? いや、私とお母さん、どっちが憎い? もう分かってるだろうけど、私は善人じゃない。きっと志緒ちゃんが思っている以上にひどい人間だよ。あなたを助けたのは計画の一部に過ぎないし、はっきり言えば、あなたじゃなくてもいいんだ。ただちょうどいいだけで」
わたしは強制的にナイフを握らされた。
「でも、私はお母さんと違って、あなたに暴力を振るったりしないよ。言ったでしょ? 私だけはさっちゃんの味方だ。私のことを許してくれるなら、あなたに生きる理由も、死ぬ理由も与えてあげられる。私なら、もう二度と、『生まれてきたくなかった』なんて、言わなくて済むようにしてあげられる」
志奥千摘が母の隣に立った。
「さあ、どっちを殺す?」
手を差し出される。わたしを許すような、慈しむような、包み込むような、優しい笑顔を浮かべていた。
わたしは首をぐるりと回した。視界の端に、抜け殻のようになってしまった啓太と、それを組み伏せる、期待に目を輝かせた圭祐。そして少し離れたところでぐったりとしている姉の姿が目に入った。首を戻すと、目の前には狼狽したままの母と、不敵に微笑む志奥千摘の姿がある。
生まれてきて良かったと言える光景とは、この地獄のことだったのだろうか。
ナイフを握る手に力がこもった。
一体どこで間違ってしまったのだろう。
姉と啓太をここまで連れてきたからだろうか。志奥千摘の救いに縋ってしまったからだろうか。井月が殺されるかもしれないというのに、警察に相談しなかったからだろうか。自殺なんかのために、あの日、廃ビルに行ってしまったからだろうか。真奈佳を助けたからだろうか。こちらに転校してきたからだろうか。
それとも、わたしが生まれてきてしまったからだろうか。
ふと脳裏に、井月の笑顔が思い浮かんだ。
この世界で唯一わたしの存在を心から肯定してくれる彼女は、わたしが救世主に絆されたせいで殺された。
彼女に会いたい。会って、謝りたい。たとえ許してもらえなくても、井月唯花にもう一度だけ名前を呼んでほしかった。
そう思ってからの行動は早かった。井月に会うためにどうすれば良いのかわたしはよく知っていた。
「志緒ちゃん。君の手で恨みを晴らすんだ」
「志緒、こんなやつのいうこと聞くな!」
「お母さんを殺そう?」
「志奥を殺せ!」
志奥千摘と母が、口々に喚く。どちらを選んでもわたしは利用されるか消費されるかの二択なのだと分かっていた。あるいは、母がこれを機に改心してくれるかもしれない。志奥千摘は本当にわたしに生きる意味を与えてくれるのかもしれない。
だが、わたしは二人から目を逸らすと、手元のナイフに目を落とした。
よく磨かれていて、切れ味は申し分なさそうだ。小学生の体など一溜まりもないだろう。
「唯花、いま逝くよ」
わたしは小さく呟いて、逆手に持ち替えたナイフを首筋に宛がった。
激痛と暗闇。わたしの世界はそれで終わった。
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