3 礼子
階段を一段一段確かめるように歩き、ゆっくりと二階へ上がっていく。足はふわふわと浮ついていて、踏みしめているはずの階段がぐにゃりと柔らかく歪む錯覚に陥った。
礼子は長い時間を掛けて上の息子――直人の部屋の前まで来ると、戸を叩いた。一瞬だけ、何と声をかけようかを迷い、下の息子――啓太にするように話しかけた。
「なお君。少しお話がしたいの。ここを開けてくれるかしら」
返答はなかった。礼子は包丁を握りしめる手が汗ばむのを感じながら、ドアノブに手を掛ける。
「なお君? 開けるわよ?」
自分の声がやけに遠くに聞こえた。
礼子が、円木一恵を殺した息子――圭祐について、ほとんど何も知らないことを話すと、天乃を含む三名は、皆一様に落胆を露わにした。
「本当に、行方や過去の話なども知らないのですか? 職員の方からはもっぱらあなたが円木さんの担当であったと聞きましたが」
疑惑の目つきを振り払うように礼子は首を振った。
「何も知りません。私が担当していたといっても、一恵さんだけですし。圭祐さんとは一度だけお話ししたことがあっただけで……」
一瞬言い淀み、
「そのあとのカウンセリングはほとんど、別の人間に任せていました」
「別の人間、というと?」
天乃が口を挟んできた。
「既にやめられたパートの方です。志奥千摘さんといいますが」
天乃は考え込むような仕草で、眉間を揉んだ、背後の二人も表情を固くしている。
「志奥さんがどうかされたのですか」
逸る気持ちを抑えつけながら聞いた。天乃は背後の二人に目配せし、やがて嘆息して声を潜めた。
「これから話すことは全て、他言無用でお願い致します」
礼子は頷いた。
「今日私どもが伺ったのは、現在発生している通り魔事件及び、暴行事件の捜査のためです」
「ええ。分かっています。先ほどニュースで見ました。小学生の女の子が殺されたって。私はてっきりその女の子について聞かれるのかと……」
「昨夜、堂島美波ちゃんの遺体が発見され、先生の患者さんだと分かった段階ではその予定だったのですが、今朝方、円木一恵さんが殺され風向きが変わりましてね……。一刻も早く円木圭祐を……いや、志奥千摘を捕まえなくては何もかも手遅れになってしまうかもしれない」
天乃の苦渋に満ちた顔の隣で、スーツと制服の警官がそれぞれ同意するように頷いた。礼子だけ置いてけぼりにされたような気分だった。
「先生には以前お話ししたと思いますが、覚えていますか。今回の事件は、昔起きていた事件と酷似している、と」
「ええ、覚えています。その犯人は最後の犯行のあと、自殺をしたんですよね。でも、警察はそのとき自殺した人間は、囮だったのではないかと疑っている……もしかして、真犯人は志奥さんですか」
本気で聞いたわけではなかった。あまりに現実的ではない。
だが天乃は重々しく頷いた。
「理解がお早くて助かる。このとき自殺した人間というのが円木圭祐の実兄、円木尚人なのですよ」
息子と同じ名前にドキリとした。
「順を追って説明します。まず今から約二十年前――正確には、十九年前の七月中旬、一件の通り魔事件が起きました。殺されたのは高校生の少女です。すぐに捜査が開始されましたが、容疑者は検挙できず。その後も立て続けに、合計で三件の通り魔事件が起こりました。犯人を仮にXとしましょう。この時点のXの犯人像は男性で、学生やフリーターなど、時間にある程度の余裕がある人物だとされていました」
条件反射的に直人の顔を思い浮かべて、頭を振った。
「九月初めにもこのXはまたしても女子高生を襲います。しかしこのときの被害者は殺されることはなく、ただの暴行事件として終わりました。初めはXが失敗しただけなのだと考えていましたが、その後に妊婦ばかりを襲うという事件が複数発生しましてね。この一件目に襲われた女子高生を調べてみると彼女も妊娠していたことが発覚しました。
つまり彼女は通り魔事件の被害者ではなく、暴行事件の被害者だったわけです。こちらの犯人はYとしておきましょう。……先に明かしておきますが、この一件目の被害者の当時の恋人が円木圭祐であると、後の捜査で分かっています」
「つまり、暴行事件の犯人候補は円木圭祐だった、と?」
天乃は頷いた。
「そればかりかXとYは共通した犯人像だったので、その両方である可能性も視野に捜査を進めていました。しかし……」
苦々しく顔を歪め、
「……どう足掻いても、円木圭祐は犯人になり得なかったのです。恋人が襲われている時間帯、彼が自分の家にいたと母親から証言があったからです。
またXでないことも証明されています。九月半ば、Xがある親子を殺した時間帯、私が彼を職務質問にかけていたからです。このアリバイの揺るぎなさは分かっていただけると思います」
確かに、警察官の証言があっては、円木圭祐を犯人とみるのは難しいだろう。
「事件に進展があったのは、それから更に一ヶ月後、十月上旬のことでした。ある男女が深夜の公園で死んでいたのが発見されました。初めは心中事件だと思われていましたが、このとき死んでいた男のポケットから、事件の証拠となる写真や凶器などが多数発見されたのです。加えて彼の部屋からも同様の物が見つかったことにより、この男こそXであり、Yであると結論づけられました。この男というのが円木尚人です」
一先ず話を終えた天乃の顔は、しかし浮かなかった。
「……このとき、もっとしっかり捜査されていれば、今このような事態にはなっていなかったかもしれません」
嘆くように首を振って、
「当時、いくつもの証拠を前に、我々はもちろん疑いました。あまりにも示唆的であり、加えて不自然なところがいくつかあったからです」
「不自然なところ、ですか」
礼子が口を挟む。
「例えば、この円木尚人が今で言う引きこもりであったのにも関わらず、使われた凶器のケースから乾いた猫の血が検出された点です。しかしこれにはいくらでも理由を付けることが出来ます。そもそも円木直人がXであり、Yであるとするのならば、外出の件は不自然と言えない。猫の血もその際に付着したものだ、とか」
「……」
なぜもっと慎重に調査を行わなかったのだろう、と感じずにはいられなかった。その胸中を敏感に汲み取ったのか天乃は苦い顔で、
「身内贔屓な話になってしまいますが、円木尚人を犯人だと断定してしまったのは、仕方のないことだったのだと思います。物的証拠があまりにも揃いすぎていて、加えてその後事件がぱったりと起こらなくなってしまいましたから。円木尚人が犯人だったのだという考えを強固なものにしてしまっても、責めることはできません。私も犯人死亡ですっきりはしないが、事件は終わったのだと半ば本気で思っていました」
「それなのに、最近になってその事件がまた起こっている……」
「今年の七月からです。これによって、十九年前の事件と今回の事件を同一の物として扱い、これまでの事件も全て再捜査されることになりました。そこで我々はある事実に気がついたのです」
「ある事実?」
「円木尚人が、少なくともYではないとする証拠です。……ところで先生は、人間の足のサイズは何歳頃まで成長するかご存じですか?」
唐突な問いかけに驚き、礼子は首を振った。
「知りません」
「男性だと平均的に一八歳まで。女性だと一五歳までだとされています。もちろん個人差はありますが、特に女性は、中高校生の頃の足のサイズのまま、大人になっても変わらない方が多いのではないかと思います」
自分のことを考え、確かにそうかもしれないと思った。
「でも、それがどうかしたのですか?」
「実は再捜査によって、十九年前の被害者の衣服から犯人のものと思われる足跡が見つかっていたことが判明したのです。靴自体はごくありふれたスポーツ用の物で、大した手がかりにもならず放置されていたのですが、これこそが重大な証拠でしてね」
逸る気持ちを抑えるように長い息を吐き、
「今年の九月半ば、暴行事件の被害に遭われた、辻西さんはご存じですね」
礼子は首を捻りかけ、すぐに思い出した。柿崎の病院でカウンセリングを受け持っていた女だ。
「辻西さんの上衣の腹部からも、犯人の物と思われる足跡が見つかりまして、この足跡と十九年前のもののサイズがぴったり一致したのですよ。サイズは約24.0センチと、女性の足のサイズの平均程度でした。対して、事件の犯人とされていた円木尚人の足は27.5センチと、まったく違っていたのです。これを受けて捜査本部では、犯人Yの人物像を女性に切り替えて、捜査することになりました。Xについても同様に、円木尚人は無関係であったというのが本部の考えです。そうなれば示唆的な証拠品の数々にも説明がつく」
「つまり、円木尚人は誰かから罪を着せられたということですか」
天乃は頷いた。
「そうなります。望んでやったのか、無理やりだったのかは分かりませんがね。円木尚人が殺したのは加々美澄香さんけであったと見てまず間違いないでしょう。
……さてそうなると、円木尚人に罪を着せることが出来た人物――真犯人は誰なのか、という疑問が湧いてきます。もちろん私は初め、弟の円木圭祐を疑った。しかし私や一恵さんの証言から彼が犯人だとは考えづらい。また彼の靴のサイズは男性の平均程度でしたから、見つかった物とは一致しない。そのときふと思い出したのです。十九年前、私が円木圭祐に職務質問を掛けた際、そこにもう一人少女がいたことを」
「まさか、それが……」
名天乃は鷹揚に頷いた。
「実を言えば、円木尚人が自殺した直後から私はこの二人を疑っていたのです。しかし、あまりにも荒唐無稽な話で、当時はまるで取り合ってもらえなかった。特に円木尚人が死んで以後は、再捜査に許可が下りるはずもなかった。だから私ですら忘れていたのですが、今になってその仮定が現実味を帯びてきました。犯人像は女性とされ、円木尚人が実は犯人でなかったときた。少女を有力視するには充分な理由です」
焦らすように一拍を置いて、
「佐藤珠希というのが調書に残る名前でした。しかし、この名前が偽名で、本名が志奥千摘であるというのは、すぐに発覚しました」
「偽名……」
「とはいえ、もちろん偽名を使っていたから犯人だとするわけではありません。あくまでさらに彼女を疑うきっかけになった、というだけのことです。あくまで志奥千摘は重要参考人でしかない。たとえ靴のサイズが一致していたとしても、円木圭祐と当時、恋人関係にあったとしても、そんなもの彼女を犯人とする充分な根拠とは言えない」
話ながら鋭さを増していく眼光に思わず身震いした。全てを見透かされているような気がして、落ち着かない。
「ところで、一週間ほど前、興味深い証言がありましてね」
突然話を変えた。
「ある小学校の教師だった木村という男性が署に駆け込んできたのです。内容は、自分の教え子が通り魔事件の犯人だとするものでした。この木村教諭の受け持っていたクラスには、通り魔事件の被害者である、神林咲妃ちゃんと井月唯花ちゃんが在籍しており、彼は神林咲妃にいじめられていた少女こそが犯人だというのです」
おかしな話でしょう、と口調は軽かったが表情は真剣だった。
「当然取り合っていませんでした。我々は何度も木村教諭を諭しましたが、一向に納得してもらえず根負けしましてね。形だけ捜査をすることになったのです。しかし、そのおかげで思わぬ収穫がありました」
天乃の目が観察対象を見るものに変わった。
「先生は、『佐藤志緒』という小学生をご存じですか?」
礼子はその名前をしばらく考えてから首を振った。『佐藤』も『志緒』も、ありふれた名前だ。ただ頭の中で砂糖と塩が思い浮かび、言葉遊びのようだという感想を抱いた。
「そうですか。では佐藤莉緒という少女は? こちらは高校生です。佐藤志緒ちゃんの姉ですね」
そちらの名前には聞き覚えがあった。
「その子なら、一度うちにカウンセリングに来ました。担当は……志奥さんでした」
「なるほど」
天乃は礼子を見据えたまま頷く。
「では、『佐藤奈月』という女性も?」
礼子は更に首肯した。柿崎の愛人の名前だ。
「でも、そのことが志奥さんと何か関係があるのですか?」
「……直接的な関係とまではいいません。ただ、間接的に全ては繋がっています。志奥千摘をこのまま放っておいたら、本当に取り返しのつかないことになるかもしれない」
婉曲な言い方にとうとう焦れた。
「先ほどから仰っている、取り返しのつかないこととは一体何なのですか」
語気を強くすると、天乃は目を丸くして、
「失礼しました。先生は既に分かっているものとばかり……」
咳払いで取りなした。
「先ほどお話しに出てきた、佐藤志緒ちゃんのクラスでは三人も通り魔事件の被害者が出ています。神林咲妃ちゃん、井月唯花ちゃん、昨夜に発見された堂島美波ちゃんです。井月唯花ちゃんに関しては、井月清花さんの娘さんですから先生も知っていると思います」
「まあ、名前だけは……」
先を急かすように、
「それが、どうかしたのですか」
「分かりませんか。木村教諭の予想は外れていなかったということですよ。通り魔事件の今までの被害者には小柄な女学生という共通点しかありませんでした。十九年前も、現在もね。しかし直近の三件には、他に『佐藤志緒と同じクラス』という共通点が生まれている。とても無視できるものではない」
「佐藤志緒に協力者がいたということですか?」
「逆です。佐藤志緒ちゃんがXの協力者だったのでしょう。これに関してもある程度の根拠が示せます。君、話して」
天乃は背後の制服警官に目を遣った。ずっと直立不動で控えていた取っていた彼は緊張に固まった声で、
「私はこの佐藤志緒ちゃんに二度、職務質問をしたことがあるのです。一度目は今から二週間ほど前、井月親子が殺される前日のこと。二度目はその翌日のことです。小学生にしては、少々おかしな点があったので話を聞いたのです」
「おかしな点?」
礼子は眉を寄せた。先ほどから彼らはそればかりだ。不自然なこと。おかしなこと。気になること。全てこちらのセリフだ。
「一度目に気に掛かったのは時間です。夜の八時頃でしょうか。ランドセルを背負って、一人で歩いていたので声をかけました。塾があったのだと答えられ、ちょうど近くに塾が何件かありましたので大して気に掛けていなかったのですが、ずっと少女から煙草の臭いがしていたのには気に掛かりました。少女は母が吸っていると答え、さすがに家庭の細かな事情にまでは口を出せませんから、何も言いませんでした」
制服警官は反応を伺うようにチラリと天乃を見た。天乃は手を差し出して、続けて、と先を促した。
「二度目に気に掛かったのは場所です。明らかに学区外のところにいて、更に昨日職質をしたばかりの少女だったので話しかけたのです。そのときの彼女は何というか、異様でしたね。生気が感じられないといいますか。やはり煙草の臭いをさせていましたし……」
「そこまででいい。ありがとう」
制服警官を下がらせ、天乃はこちらを向いた。
「まず、志緒ちゃんは、母親が煙草を吸っているといったようですがこれは嘘です。彼女の母、佐藤奈月さんは非喫煙者でした。では、なぜ嘘をつく必要があったのか。そしてなぜ学区外にいたのか。これは私の予想に過ぎませんが、志緒ちゃんは恐らく、Xと会っていたのでしょう。そうすれば、志緒ちゃんのクラスに通り魔事件の被害者が固まっている理由に説明がつく。そして、このXこそ志奥千摘なのです」
そこで効果的な沈黙を使い、
「……ですが、そうなると一つ齟齬が生じるのです」
「齟齬ですか。どこもおかしな点はないように思えますが」
天乃はわざとらしく首を振った。
「いいえ。よく思い出してください。先ほど、私が円木圭祐をXではないとした根拠は何でしたか」
「あなたが職務質問を掛けていたのと同じ時間帯に、通り魔事件が起きたからです」
「そうです。そしてその際、その隣には佐藤珠希と名乗る、志奥千摘がいたのですよ。つまり、この二人はXになり得ない。となると、Xは他にいることになります」
礼子は鼓動が早まるのを感じた。昨日の光景がまたフラッシュバックする。Xは志奥ではない。しかし、通り魔事件のターゲットは、佐藤志緒を中間点として選ばれていた。息子の動向……ここから導き出せる結論は何だろうか。
「このXは誰なのか。それを考える前に、他の点についても考えてみましょう」
天乃はいつの間にか、礼子に近づいてきていた。
「まず、佐藤奈月さんについてです。佐藤奈月さんの旧姓は羽崎奈月といって、十九年前の暴行事件の、Yの一件目の被害者です。さっきも言いましたが、羽崎奈月さんと恋仲にあったのは円木圭祐です。そしてこの事件の直後、二人は別れ、円木圭祐は志奥千摘と恋仲になりました。羽崎奈月さんはほどなく高校を中退している。何かおかしいとは思いませんか。因縁めいた物を感じずにはいられない」
更に一歩近づいてきた。礼子は思わず後ずさる。
「続いて、佐藤奈月さんの娘、佐藤莉緒さんに関してです。これは先生もご存じだと思いますが、莉緒さんは先生の息子さんの啓太君と付き合っていますね。さらに莉緒さんは妊娠していて、先生のクリニックへ相談に行ったこともある。そのときの担当は志奥千摘でしたね。さらに今日、彼らは学校を休んでいるそうです。二人とも風邪を引いたと連絡があったそうです。先ほど学校で確認を取ってきました。でも、啓太君の姿は家に見えませんね。今、どちらに?」
礼子は何も答えられなかった。
「最後、あなたのもう一人の息子さん、直人君に関してです。彼は高校生の頃から不登校で、学校を途中でやめていますね。原因は同級生からのいじめ。間違いありませんか?」
礼子は恐る恐る頷いた。
「実はこの宮下直人君は、十九年前に容疑者として名前が挙げられていたのですよ。通り魔事件の一件目の被害者は、彼をいじめていたうちの一人でしたから。そして彼をいじめていた人間の中には佐藤奈月さん――旧姓羽崎奈月さんも含まれています。さらに彼は、円木圭祐の後輩でもあった。……ここまで言えばお分かりですか?」
充分だった。礼子の中で一つの結論が導き出され、あまりの衝撃に言葉を失った。
「ここから先は、私の推測でしかありません。しかし今まで出てきた、根拠にある程度基づいています」
天乃はそう前置きして、
「十九年前の事件が始まったのは、その年の七月中旬から。今年の事件の起こりも同じく七月中旬。十九年前は九月に入ると、暴行事件が起こりました。今年も同じです。
分かりますか。明らかに今回の事件は十九年前の事件をなぞっています。十九年前の事件の終わりは十月の上旬でした。今年に置き換えれば、まさに今です。十九年前は二名が死んで幕を閉じましたが、今年はどうなるのか分からない。既に二名――円木一恵さんと堂島美波ちゃんが亡くなっていますが、それで事件が終わるとも思えない。となれば、XとYはどこに事件の終結を持っていくか。当然、十九年前の因縁の被害者、佐藤奈月さんでしょう。……もしかしたら、啓太君の身にも、危険が迫っているかもしれない」
脅すような声だった。あまりの冷ややかさにぶるりと身を震わせた。
「私は、何をすればいいですか……」
ほとんど泣き声になっていた。天乃は表情を少しだけ和らげ、
「どんな些細なことでも構いません。志奥千摘や、宮下直人に関して分かることがあれば教えていただきたいのです。もしご迷惑でなければ、直人君に会わせていただきたい」
その言葉に一瞬だけ迷った。直接的には口にしていないが、この刑事は犯人が誰か――Xが誰でYが誰か――もう分かっているのだろう。だが決定的な証拠がないため、直人から自供を聞きたいのだ。しかし、それを許したとき自分や啓太の将来がどうなるのかを考えると体が竦んだ。
「宮下さん、お願いします。事件の解決はあなたの手に掛かっているのです」
何か答えようと口を開いたのと、制服の警官の肩口についた無線が音を立てたのは、ほぼ同時だった。
制服の警官はすぐ外に出てしまったため、無線が何を言っていたのかは分からなかった。しかし戻ってきた制服の顔は蒼白で、報告を聞いた天乃とスーツもはっきりと顔色を変えた。
「先生、申し訳ない。また後ほど伺います。その時は恐らく、宮下直人の令状をもって」
狼狽える礼子をそのままに三人は家を飛び出していった。礼子の頭は混乱を極めていて、立っているのがやっとだった。
そこに一本の電話が掛かってきた。ただの電子音が不幸を報せる音に聞こえた。柿崎からだった。
電話に出るとまず怒鳴り声が聞こえた。音が割れ、何を言っているのかほとんど聞き取れなかったが、次第に落ち着いていき、
「あんたのとこの、志奥っていう人間から、あんたが嘘をついてると聞いた。彼女は私を裏切る予定らしいな。なぜ教えてくれなかった」
低く腹に響くような声だった。それに何と答えたのかは覚えていないが、再度の怒鳴り声と共に電話は切られた。礼子は混乱した頭で、今の電話こそ彼女が犯人である裏付けだという確信にただ震えていた。
呆然と自分が何をすべきか考えた。直人が、円木尚人のように自殺してくれれば……そう思ったとき、キッチンに置かれた包丁に目が留まった。礼子は階段に向かった。
その一歩一歩が、救済へ向かっているようにも、破滅へ向かっているようにも感じられた。そのどちらだとしても、やるべきことは変わらなかった。
直人の部屋に入った礼子は、一頻り取り乱した後、机の上に置かれた血塗れのノートに目を遣った。何冊か積まれていて、中を見ると日記のようだった。
大半は日常の些事に対する不満や愚痴だったが、中には事件に関係のある記述もあった。
例えば、今年の七月初めの日付には、
『先輩二人と、本当に久しぶりに会えた。変わってなくて感激。志奥さんの計画も飲み込めた。でも、俺はもう疲れた。なんで俺ばっかり割を食うんだろう。全部が憎い。
でも二人は俺の憎しみを受け入れてくれた。俺の最期を認めてくれた。だから俺はこの人達に従うんだ。志奥さんがある言葉を教えてくれた。俺の人生にぴったりだと思う。「遺書に使います」って言ったら、笑われた。本気なんだけどな。』
志奥の名前を見ても、礼子は驚きもしなかった。
その翌日には、
『久しぶりだったから上手くいくか不安だったけど、なんとかできた。つくづく俺がおかしいことが分かる。血が噴き出すのとか見るとスカッとする。こんなの異常だな。でももっと異常なのは、あんな加害者を野放しにしてるこの世界だと思う。』
直人が本当に人殺しだったのだと知っても冷静でいられた。もしここに、「Xは直人、Yは志奥」と書かれていても驚かなかっただろう。
あとの記述も大半は似たようなものだった。厭世的な言葉の数々、通り魔事件の犯人としての述懐。事件を起こすと快楽と後悔を綴っている。
礼子や啓太についての記述もあった。
『また母親がまた啓太の部屋を漁っている音がする。こういうとき、いつも家族を呪縛だと感じる。啓太はどう思ってるだろう。気づいた上で放置してるのか、それとも気づいてないのか。』
日付は九月の上旬だった。
『もしここに警察が来て、俺の部屋が漁られたらバレるかもしれない。ここ最近、母親は啓太の部屋を漁ってないから、あいつの部屋に使わない武器は隠しておこう。』
啓太の引き出しに入っていた大量の刃物はそういう経緯で入っていたのか。日中はいくらでもチャンスがあっただろう。
その後は数ページに渡って、また厭世的な言葉や希死念慮が並んでいた。礼子は読まずに飛ばし、昨日の記述を見つけた。
『一階から物音がすると思って見に行ったら、啓太が女を連れてきていた。派手な顔をした、あいつを思い出す顔をした女だ。いや、志奥さんが、あいつが娘を生んだって話をしてた。多分それだ。すぐ部屋に戻ってきた。あのままあそこにいたら、俺は気が狂っていたかもしれない(もう狂ってるけど)。それに、啓太があいつの娘と付き合ってるなんて知らなかった。俺はあいつにいじめられたのに、啓太はその娘といて幸せそうだ。』
よほど強い力で書いたのだろう。ページに皺が寄っていて所々破けていた。昨日部屋で見つけた髪の毛や香水の残り香は、啓太の彼女――佐藤莉緒のものだったのだろう。礼子は一度、佐藤莉緒に会っている。プリクラだって見つけた。どうして気づけなかったのだろう。
礼子は指を痙攣させながら、ページを捲った。直前に書かれたものだ。ボールペンを押しつけるようにして書いたのだろう。字は乱れ、インクも乾ききっていなかった。
『ついに警察が来た。もう終わらせて良いんだ。最期に願うことは、俺みたいな人間が……いや、人間そのものが、二度と生まされない世の中になることだ。
〈遺書 出生しないということは、議論の余地なく、ありうべき最善の様式だ。
エミール・シオラン「生誕の災厄」より〉』
その先は全て白紙だった。
礼子はノートを閉じ、死神の扮装をした志奥が、自分の首元に鎌の先を突きつけてくるイメージを思い浮かべた。じきに私も、その鎌によって首を落とされる。志奥によって、最期は皆が等しく摘まれるのだ。誰もそこから逃れられない……
礼子は目の前の、首をかっ切り自殺した直人の死体を見て身震いした。
手の中で、使い道の失った包丁が鈍く輝く。
また、電話が鳴った。
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