3 礼子
ここ数日間、クリニックは嵐のように忙しかった。
二週間前末松が仕事を辞め、それに次ぐように事務も数人辞めた。理由はどれも似たようなものだった。仕事がきつい。礼子にはついていけない。
無能な人間は責任転嫁が上手い。
そのときは清々していたが、今はその無能の手すら借りたい状況に陥っていた。職員の減少に反比例して相談件数が増えたせいだ。
どうやら通り魔事件に加えて、妊婦ばかりを襲うという特異な暴行事件も起こっているらしい。今朝、警察が訪問に来たときようやく知ったことだ。天乃と名乗った中年の刑事は頻りに時計を気にしながら、礼子がカウンセリングしている妊婦のことを聞いていった。
警察が帰ると、礼子はすぐクリニックを出る準備を整えた。市立病院で暴行事件被害者のカウンセリングが入っていた。約束の時間は迫っていた。事務員には必要書類を纏めておくよう指示を出し、司令塔として件の臨床心理士の女を指名した。
「わたしも妊婦なんですから、気遣って下さいよ」
女はそう軽口を叩いていたが、無視してクリニックを出た。今日から女は産休を取ることになる。忙しさに拍車が掛かることに、気分は重たく沈んだ。
本当はパートもいたのだが、馬場と榎下が体調を崩し、志奥も、昨日になって急遽休みたいと言い出した。普段なら引き留めたが、弱みを握られているせいでそれも難しかった。
「ありがとうございます。穴埋めはしますから」
ふと気になって、なぜ一恵の息子のカウンセリングを買って出たのか聞いた。
今年の七月頭、産婦人科からの紹介状を持ってきた女子高生がいた。期待はしていなかったが、志奥にカウンセリングを頼んだ。
すると、ものの一〇分で悩みを聞き出し、そのまま雑談までも楽しげにやってのけた。彼氏との子どもをどうするか迷っているという相談だったにも関わらず、病院を出て行くとき少女の顔は明るかった。
その志奥が、あんな中年の相手を買って出たのか気になった。
「あまり詮索しないで下さいよ。礼子さんとは仲良くしたいんですから」
志奥は牽制するように、
「ああでも一個だけ。一恵さんに礼子さんの息子……なお君が引きこもりだと伝えたのは私です」
愕然とした。もしや上の息子の旧友かと思ったが、思い当たる顔はなかった。
「とにかく詮索さえしないで頂ければ、礼子さんにご迷惑はおかけしません」
志奥はそう言って頼んでいた仕事をこなすと、さっさと帰っていった。
市立病院前でタクシーを降り、院内での受付を済ませたところ、ちょうど院長が姿を見せた。名前を柿崎といった。礼子を見ると一瞬だけ手首の金時計に目を落とし、すぐに微笑みを作った。礼子もつられて時計を見る。約束の時間ぴったりだった。
「お待ちしておりました。こちらへお願いします」
「ご無沙汰しております。柿崎さん」
柿崎は礼子のクリニックの得意先だった。クリニックで見られない患者を優先的に受け入れてくれる。その点で礼子は彼に感謝していたが、やはり他の男と同様、見下してもいた。
「珍しいですね。普段は五分前にいらっしゃるのに……」
のぞいた歯は、嫌みなくらい白く光っていた。
「でも残念だな。今日こそ飲みに誘おうと思っていたのに。最近良い店を知りましてね。店主が良い趣味をしてるんですよ。酒も美味しいんですが、料理がまた独創的で……」
「先生のお誘いを断るため時間通りに来たんです」
礼子は冗談めかして応じた。決して冗談ではなかった。柿崎は笑みを深くした。
「俄然やる気が湧きますよ。次こそはお誘いしますから、そのときは是非遅れてきて下さい」
礼子がこの男を見下している理由はこういったところにあった。全ての女を手篭めにしないと気が済まないのか、事あるごとに礼子を誘ってくる。そのうえ関係を持っている女は多かった。
先日も、「昔うちで入院していたという女性と縁ができましてね」とはじまり、二〇分近く彼の性事情を聞かされることになった。柿崎にとって女は、若さの証明のようなものらしかった。
柿崎に会うたび、礼子は男がいかに愚かであるかを認識し直す。そしてその愚かな男の誘いに乗る数々の女にも侮蔑を覚えていた。
「それで、患者さんの容態は」
角の病室まで来ると、そう訪ねた。柿崎は真面目な顔になり、
「以前よりは落ち着いています。話も出来る状態にありますし……ただ、未だにフラッシュバックが見られるのが懸念点ですね。子どもを失った傷はでかい。今は個室に移動してもらいました」
「分かりました。ではここから先は私ひとりにさせて下さい」
柿崎の了承を背に、病室の扉をノックした。返事を待って中に入る。
「こんにちは、辻西さん。先日振りです。お体の方は大丈夫ですか」
ベッドヘッドに背を預け座っている女――辻西は脇には子どもが座っていた。辻西は優しい声で退室を促している。
子どもが部屋を出るのを待って、時候の挨拶からはいった。
「最近は肌寒くなってきましたね。病室にいて、ご不便を感じることはないですか。なにかあれば責任者に私から言っておきますが」
辻西はゆるやかに首を振った。
「もう紅葉の季節ですね。さっき息子から落ち葉をもらったんです」
手元の紅葉を見つめる目には慈しみの情が現れていた。
「礼子さんは、初めて子どもを産んだときのこと、覚えていますか」
唐突だった。礼子は首を振った。
辻西は紅葉に目を落としたまま、
「私は覚えてます。一番目の息子を産んだときのことも、二番目の息子を産んだときのことも。幸せに胸が詰まって、細胞の一つ一つが喜んでいて、あのときを思い返すだけで、どんなに辛いことも乗り越えられる。そういう気持ちでした」
相づちがなくても、辻西はまるで気にせず続けた。
「次は、女の子だったんです。私、昔からお菓子作りが好きで、娘が出来たら絶対に一緒に作るんだって決めてました。それなのに、こんな……」
涙を堪えるように顔を強張らせ、
「私の家は確かに貧乏でした。でもそれだけです。ねえ、先生。貧乏な人間が子どもを産むのって、そんなに悪いことなんでしょうか――」
ついには泣き出した。「貧乏人は子どもを産むな」。それが彼女を襲った犯人の残した言葉だったらしい。
「あのときの声、今でも聞こえるんです。貧乏人は子どもを産むなって、笑いながら私の腹を蹴る女の声が。きっと私は、あの声から一生逃げられない」
いよいよ嘔吐き始めた。礼子は慌ててナースコールを押した。看護師が駆け込んできたのを後目に病室を出ると、待合室で待っていた辻西の息子を病室に行かせた。
「やってしまいましたな」
柿崎は、礼子を見る目を歪ませていた。
「患者さんがまた発作を起こしてしまった。一体どうされたんですか」
「事件のことを思い出してしまったみたいで……。私の判断ミスです。謝罪の言葉もありません」
礼子は思わず奥歯を噛んだ。こんな男に付け入られる隙を見せたのが許せなかった。
「ディナー、とは言いませんが、ランチくらいはご一緒して頂けますね。個室を抑えておきますから」
柿崎はそう言って肩に手を回してきた。
*
礼子がクリニックに戻ることができたのは、午後二時過ぎだった。ランチだけといっていた柿崎が調子付いてホテルの鍵をチラつかせたときは流石に戸惑ったが、のらりくらりと躱して、なんとか事なきを得た。
柿崎は若い女などいくらでも抱けるだろうに、なぜ自分にここまで固執するのだろう。不審に思い聞くと柿崎は愉快そうに笑ってから、
「優秀な女性と残酷な女性はセックスが上手いからです」
臆面もなく答えた。
「馬鹿な女も優しい女もそれなりですけどね。でも、それだけです。上手いだけで楽しくはない。食事もセックスも、うまいだけじゃ意味がないんですよ」
歌うように言って、
「セックスは生殖行為をも兼ねて呼称されますがね。でも、私に取ってみれば生殖行為とセックスはまったく別なんですよ。セックスは本当に一握りの人間としか出来ない。楽しめなくては、肌が合わなくては意味がないんです。私はその相手を探しているのですよ」
ホテルの鍵を見せてきたのはそのタイミングだった。礼子は頬が強張るのを感じながら、
「以前お話に出てきた、元患者さんの女性はどうなんですか」
柿崎は鼻頭を掻いた。
「彼女はセックスが非常に上手い。でも、頭は良くない。でも、楽しいんです」
「では、そちらの方をお誘いになっては? 私よりも若い方でしょう?」
「若さだけが全てではないですよ」
興をそがれたようで、背広にホテルの鍵をしまった。
「それに、あちらには子どももいますから。そう簡単には会えんのです。まあ、最近は前より会うようにはなりましたが……」
グラスに残った水を飲み干し、
「今日は少々急ぎすぎました。また日を改めさせて下さい」
どこか上の空で、その女に思いを馳せているようだった。いくらでも選択肢のある柿崎を骨抜きにする女が誰かを思い浮かべようとして、残酷な女という言葉から、ふと志奥の顔が思い浮かんだ。
クリニックに戻るとデスクのあちこちから厳しい視線を感じた。最繁時に席を外していたことに対する不満なのだろうが、礼子は無視して休憩室へ向かった。
「あ、礼子さん。お帰りなさい」
臨床心理士の女がこちらを向いた。手元にはスピリチュアル系の書籍が開かれていた。似合わない気がした。
「ただいま。今どういう状況? なぜここにいるの?」
まさか自分がセクハラを受けている間サボっていたのではないかと場違いな怒りを覚えた。女はそれを察してか、
「さっきまでずっと働いていたんですが、流石に休憩がないと辛くてですね。ちゃんと言われたとおり司令塔してましたし、小学生のカウンセリングも終わらせたんですよ。最後の子は本当についさっき帰りました」
そう弁明した。
「あ、そういえば礼子さん、最近噂になってる都市伝説知ってます?」
強引な話題のすり替えに毒気を抜かれ、礼子は女の正面に座った。
「都市伝説?」
「カウンセリングしてた小学生から聞いたんです。〝流産さん〟っいうんですって」
礼子はその名前ですぐピンときた。
「それって、暴行事件の犯人のことでしょ。まったく、悪趣味ね」
「さすが礼子さん。その通りです」
ニヤリと笑い、
「子どもってどうしてあんなに不謹慎なことを全力で楽しめるんでしょうね。最初〝流産さん〟なんて聞いたとき、ぞっとしましたよ」
自身の腹をさすった。
「でも中身は口裂け女とか人面犬とか、他の都市伝説をオマージュしたような内容でしたね。百メートルを三秒で走るとか、懐かしくないですか」
礼子は生返事に相づちを打った。女は話を切り上げ、自分のお茶を汲みに立った。どうやらコーヒーはやめたらしい。
「あなたがそんな本読むの珍しいわね。週刊誌しか読まないと思ってた」
水を向けると、
「さっき〝流産さん〟なんて怖い話聞いちゃいましたし、胎教に良くないかなって思って。精神統一でもしようかと」
女は本気とも冗談ともつかぬ事を言って笑った。
「それより、病院に行ったんですよね。あそこの院長、セクハラがひどいって聞きましたけど、大丈夫でしたか?」
礼子は蒸し返されたことにむっとして、院長からホテルに誘われた話を愚痴っぽくした。彼女は今日で産休に入る。どうせ次に会うときには忘れているだろう。
「話で聞いてたよりは紳士的ですね。過去の患者さんと関係ですか。慎ましいというか何というか……。もっと金と権力を使ってねじ伏せてくるんだと思ってました」
その後、女は自分の仕事を終わらせて、定時で帰って行った。部下からささやかな花束を渡されていたが、
「こんなの恥ずかしいよ」
と頑なに受け取らず、自分のデスクへと置いていった。それを見て誰かが、これじゃあ供花みたいですね、と言ったのを覚えている。
職場の誰もがその言葉にクスリと笑った。
そしてその日の夜。女は自身の娘と共に殺された。
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