2 わたし

「佐藤ちゃんは〝流産さん〟って知ってる?」

 登校するなり、井月から声をかけられた。

 わたしの頭に二週間前、自分が千摘さんに頼まれたことと、最近多発しているという暴行事件の二つが同時に浮かんだ。

 わたしは動揺を悟られないよう大袈裟に首を振った。

「いや、知らない。物騒な名前だね。ゲームの名前か何か?」

 井月はくすくすと笑った。

「やっぱり、佐藤ちゃんは都市伝説なんか興味ないよね」

「へえ。都市伝説だったんだ」

 白々しく言って、自分の席に向かった。井月は当たり前の顔でついてきた。

「〝流産さん〟っていうのはね、妊婦ばかりを襲う怪人なんだよ。真っ黒な服を着た男女が、『子どもを寄越せ。子どもを殺せ』って迫ってくるんだって。もう被害者は十人以上いて、今も襲われた人達は病院で魘されてるんだってさ」

 わたしが真剣な顔をしていたからだろう。井月は楽しそうな顔で、

「何でも〝流産さん〟は昔に子どもを亡くしてて、妊婦に相当強い恨みを抱いているらしいよ。自分と同じ目に遭わせて愉しんでるんだって。怖いよね。男女ってことは、〝流産さん〟は夫婦なのかな。〝流産〟って苗字だったらどうしようね」

 井月は、緊張の糸が張りつづける教室で、唯一愉快そうだった。

 自分の憶測を交えながら〝流産さん〟について熱心に語った。数ある都市伝説がそうであるように〝流産さん〟にもまた特異な設定――百メートルを三秒で走るとか、家の中まで逃げても背後を取られているとか、特定の言葉を三回唱えると追い払えるとか――がふんだんに盛り込まれていた。

「誰も〝流産さん〟からは逃げられないんだよ」

 心霊番組のナレーター風に話を締めくくった。私は怯える素振りを見せてから、

「でも警察の見回りもあるのに捕まらないものなの?」

 と訊ねた。

 千摘さんの安否が気になったのはもちろん、それ以上に不思議だった。どうして何人も襲っているのにあの人は捕まらないのだろう。

「今日も校門の前に警察がいたし、それにPTAでも見回りしてるって……」

「なに言ってるの? 都市伝説が捕まるわけないじゃん」

 井月は冗談めかした。

「でも、確かに気になるよね。捕まらない理由か……」

 井月は顎に手を当てた。

 妊婦暴行事件の被害者は今のところ二人だが、千摘さんの被害者という換算をするのなら、暴行事件と通り魔事件を合わせて、もう六人にのぼる。もしかしたら、もっといるのかもしれない。

「警察官の夫婦が犯人とか? そういうドラマありそうだよ。あとは……やっぱり警察関係者なのかな。それか、本当の都市伝説。〝流産さん〟は本当にいたんだ!」

 井月はわざとらしく声を張り上げた。教室にはいつも以上に大きく響いた。

「佐藤ちゃんはどう思う? 犯人ってどんな人なんだろうね」

 既に答えの分かっている問題を知らない振りで解くのは難しい。わたしは焦って、反射的に、

「警察関係者じゃない? ドラマみたいだけど」

 と井月の言葉をオウム返しにした。それだけではまずいと思い、

「あとは学生とか……」

 と。苦し紛れだった。でも井月は、やっぱりそうだよねー、と生返事になっていた。視線はいつの間にか教室の後方を向いた。

 ちょうど沈鬱な表情を浮かべる一人の少女が教室に入ってくるところだった。

 花瓶の水を飲まされていた子で、二週間前、わたしに突っかかってきた子でもあった。他の突っかかってきた子達も、教室の端々で同じ顔をしている。

 教室は井月の声だけが響いている。

「ねえ、井月ちゃん」

「唯花でいいってば」

 一瞬の間があって、

「どうしたの、佐藤ちゃん」

「もう、いじめてないよね。あの子達のこと。いじめたり、してないよね……」

 また少し間を置いてから、にこりと笑った。

「うん。もうやってないよ」

 温度のない瞳だった。

「それとも、信用できない?」

「ううん、それならいいの。変なこと聞いてごめんね」

「別にいいよ、佐藤ちゃんだもん」

 井月は取りなすように笑ってから、また後方に目を向けた。冷ややかな目だった。

 教室を満たす緊張の針が、肌を痛いくらいに刺していた。


 千摘さんに頼まれ事をした翌日、わたしが最初にしたことは井月のいじめを止めることだった。このままだと井月も同じ目に遭うのではないかと恐ろしかった。

 帰りのホームルームが終わってすぐ、正義先生が教室を出て行く前から、井月とその取り巻きは動き出した。その目は復帰した神林の友人達に向けられていた。

 井月が立ち上がるの同時に、わたしはその腕をとった。

 瞬間、冷たい緊張の糸が教室に張り詰めた。一瞬だけ怯んだが神林の死を支えに、

「わたしはこんなこと望んでない。もう、やめて」

 図らずも責めるような口調になった。井月がわたしを見下ろしたまま黙っていた。

 教室に沈黙が落ちた。

 誰も身じろぎひとつしない。時間が止まってしまったように感じられた。

 程なく、井月はわたしの手をやんわりと解いた。鋭い視線でわたしのことを見ている。人を救うというのは重たいことだ。千摘さんの言葉が一瞬過った。

「分かった。もうやめるよ」

 その言葉が発せられ、教室の空気が弛緩した。傍観していた何人かが動いたのを引き金に、神林の友人達も出て行った。

「ごめんね。佐藤ちゃんにそんなこと言わせて。……でも、あんな人達のことも助けるなんて、やっぱり佐藤ちゃんはかっこいいよ。本物の救世主みたい!」

 だが、それで終わらなかった。

 日直を終わらせ、教室でひとり帰りの準備をしていると、扉の開く音がした。神林の友人達だった。忘れ物だろうかと思っているうち、わたしは囲まれた。

「さっきのあれ、なんだよ。お前何様だよ」

 神林と一番仲の良かった少女、堂島が舌打ちをした。神林は足癖が悪かったが、堂島は口が悪かった。

「調子のってんじゃねえぞ。自分で戦えない卑怯者が」

 堂島は口をへの字に曲げると、

「佐藤汚い、清めの塩」

 その言葉に懐かしささえ感じた。わたしが何も言えずいると、堂島は髪を引っ張った。

「トイレ行こっか。そうしたら自分の立場思い出すだろ」

 耳元で囁かれ、ぞっとした。抵抗するが、両脇から別の二人に腕を掴まれ、さらに後ろからにもつかれた。声を出そうとするが、喉はひくひくとふるえるだけだった。

 そして、教室の外へ押し出されたところ、井月と鉢合わせた。

 堂島や、両腕を押される二人、背中を押す少女と、わたしを確認すると、井月は眉を吊り上げた。

「離しなよ」

 温度のない声だった。しばらく睨み合いが続いたが、やがて堂島はわたしの髪から手を離すと、大きく舌打ちをしてどこかへ行ってしまった。そのあとを三人が追う。すれ違いざま、背中を押していた子に、

「やっぱりあんたは汚いよ」

 と肩を押され尻餅をついた。井月は素早くその子の足をひっかけると、思い切り転ばせた。

「佐藤ちゃんは汚くなんかない!」

 怯えた顔で立ち上がると、その子は、小走りでわたしたちの前から消えた。井月は四人が消えたあとも怖い目をしていた。

「……井月ちゃん。いじめはダメだよ」

 宥めるように言った。千摘さんの手が血で汚れているのを想像してしまう。足下には動かなくなった井月。これでさっちゃんは――。それだけは何としても避けたかった。

「……佐藤ちゃんは、本当に優しいね」

 思い出したような笑顔で、

「大丈夫、そんなこと絶対にしないから。安心して」

 わたしを立たせてくれた。

「聞いてよ。さっき校門出たところで忘れ物に気づいてさ、でも今見たらランドセルの中に入ってて――」

 笑顔のまま、明るい声を出す井月を見て、安堵した。簡単に信じたのがそもそもの間違いだったのかもしれない。


 ホームルームが終わると、男女別の教室に移動するよう指示された。

 一時間目は保健体育だった。大教室には他クラスの女子が大勢いた。好きな席に座っていいというので、わたしは一番前の窓際に座った。自然と井月がその隣に来た。

「はい、みんな席についてね」

 教室にいたのは、溌剌とした保健室の先生だった。手には教科書と、A2サイズの大きなコピー用紙を持っていた。

「今日は皆さんに、妊娠についてお勉強をしてもらいます」

 黒板にプリントが貼られる。カラフルな彩色で女性の子宮や卵巣、生理の仕組みが書かれている。授業で一度やった内容だ。井月はわたしに目配せをして片眉を上げた。退屈だね。わたしは軽く頷いた。

 先生は指示棒で黒板のプリントを指しながら、

「女の子の体には、男の子と違って子宮があります。この子宮の両端には卵巣というものがあって、周期的に卵子を排卵します。この仕組みを生理と言います。そして生理が来た母体はもう子どもを作ることができます。これが妊娠ですね。そして今日は妊娠がなぜ起こるのか。それを説明していきます」

 咳払いを一つした。

「ではどうやったら妊娠するのか、分かる人?」

 パラパラと手が上がった。井月も上げていた。

「じゃあそこの子」

 先生は教室の後方にいた、いつもおちゃらけている子を当てた。

「はい。コウノトリさんが運んできてくれるからです」

 笑いを誘うような舌っ足らずな声だった。その子の友人が笑い、教室にも伝播した。

 先生もくすくすと笑って、

「可愛らしい回答をありがとう。でも違うんだよね。コウノトリも人間も、実は同じことをして子どもを作ります」

 さっきよりも多く手が上がった。今度は井月が当てられた。

「セックスをして、卵子に精子が入ることで受精卵ができ、着床すると妊娠します」

 堂々とした声だった。あけすけな言い方に教室は少しだけざわついたが、先生がお礼を言って拍手をすると収まった。

「あたしのお母さんも今妊娠してるから調べたんだ」

 井月は小声で言った。わたしは拍手の音を大きくした。

「よくできました。男性とセックスをして、男性の排出した精子が卵管内で卵子に受精すると、受精卵ができます。そして受精卵が細胞分裂を繰り返しながら子宮に到達し、子宮内膜に付着すると胎盤が作られます。これが着床です。……先生の説明するところほとんどなくなっちゃったな」

 先生はそう言って笑いを誘った。井月もクスクスと笑った。

 その後も、所々に冗談を挟みながら、授業は進んでいった。妊娠中に食べてはいけないものや、避妊の仕方、学生のうちに妊娠することのリスクなどが解説された。

 授業の最後、先生はこんなことを言った。

「今日は妊娠について学んでもらいましたが、先生は、子どもはお母さんを選んで産まれてくると思っています」

 そこで、一人ひとりの顔を見回すようにした。目が合った瞬間、責められているような気がして、顔を下げた。

「……ときどき『産んでくれなんて頼んでない』と言う子もいますが、それはまったく違います。皆さんが望んで生まれてきたのです。そして親を選んだのもあなたです。お母さんを大事に、自分を大事にしてください」

 言い切るのと同時に、誂えられたようにチャイムが鳴った。

 その瞬間、拍手が巻き起こった。みんな先生の授業に満足しているのだろう、まさに喝采の嵐だった。

 打ちのめされているのは、わたしだけだった。

 わたしは、虐待をするような親のもとに、〝望んで〟生まれてきたのだろうか。それなら選び直させてほしい。本気でそう思った。

 井月に肩を叩かれハッとする。周りを見るとみんな教室から出て行くところだった。

「ごめん、ぼーっとしてた」

 わたしは保健の教科書と筆箱を持つと、慌てて席を立った。

「最後の言葉ひどいよね」

 井月は眉根を寄せ、

「あの先生、何考えてるんだろ。佐藤ちゃんみたいな子がいるの、分かってるはずなのに。……あたし、あの人嫌いだな」

 その言葉で少しだけ心が軽くなった。

「ありがとう、でも大丈夫だよ。きっと先生は、『親を大事にしましょう』って言いたかっただけだと思う。わたしもそれには賛成だよ。親は大事に。井月ちゃんみたいに、大事に。当たり前のことでしょ」

 井月はそれでも不服そうだったが、

「佐藤ちゃんがいいならいいけどさ」

 と、優しさと怒りの混じった目をやわらげた。それから思い出したように、

「そうだ。佐藤ちゃん、カウンセリング行った? 前に名刺あげたでしょ」

 わたしは首を振った。

「ごめん、まだ行けてない。最近親が家にいて……」

 とっさに嘘をついた。最近、母の帰りは前にも増して遅い。しかし、紹介してもらったクリニックは、夏休み明けすぐ、スクールカウンセラーとして来ていた人が在籍しているところだった。クリニックの名前に感じた既視感はそれだったのだ。

「ごめんね。せっかくもらったのに」

 井月は首を振った。わたしの長袖を指さして、

「暑かったらあたしの前では捲っててもいいからね」

 と言ってくれた。

「あたしのお母さん今日で産休に入っちゃうから、行ってもいないかも。でも他の人が相談くらいは乗ってくれるから、安心して」

「ありがとう」

 心からの言葉だった。

「それからお母さんの妊娠おめでとう。井月ちゃん、お姉ちゃんになるんだね。きっといいお姉ちゃんになるよ」

 これも本心だった。きっと彼女は少し怖い、頼れるいい姉になるに違いない。

「唯花でいいってば」

 井月は下手な誤魔化し方をした。それからわたしの名前を呼ぶと、

「いい名前だよね。可愛くてさ、佐藤ちゃんにあってると思う」

 今度はわたしが顔を赤くする番だった。名前を揶揄わず褒めてくれたのは、千摘さんに次いで二人目だ。

「ねえ、これからはお互い名前で呼び合おう? いいでしょ?」

 わたしはが頷くと、井月は嬉しそうに、また何度かわたしの名前を呼んだ。

 弾んだ声を聞きながら、千摘さんに会おうと決めた。


    *


 廃ビルの外階段を駆け上がる。屋上にはやはり千摘さんがいた。煙草をふかしていたが、わたしに気がつくとすぐに火を消し、漂う紫煙を手で払った。

「や、さっちゃん。そんなに急いでどうしたの」

 朗らかな声だった。わたしはすぐに用件を伝えた。

「唯花……井月のことは襲わないでください」

「どうしたの、突然」

「お願いです。あの子のことは殺さないで欲しいんです」

 千摘さんの目に困惑の色がはしる。

「あの子は、わたしの、初めてできた友達なんです」

「ちょっと落ち着きなよ」

 わたしの呼吸が整うのを待ってから、

「井月ちゃんって、クラスの誰かをいじめてた子だよね。さっちゃん嫌ってなかった?」

「嫌いじゃないです。苦手だっただけで……」

「そっか、でも友達になったんだね。なにかきっかけでもあったのかな」

 その顔は傷ついているように見えた。

 わたしはとにかく井月を擁護する言葉を並べた。母親思いで頼りになる。美人で、いつも堂々としている。頭もいい。虐待のことも気にかけてくれた。何度も助けてくれた。――何より、井月はわたしを馬鹿にしない。

「唯花は、わたしの大切な友達です」

 千摘さんは何も言わなかった。ただじっと、わたしの動きを縫い付けるように見つめてくる。

 しばらく沈黙が続いた。

「名前」

 千摘さんは絞り出すように言った。

「褒めてもらえたんだ。よかったね」

 感情のまるで籠もらない声だった。

「いつの間にか名前呼びになってるし。あっちにも名前で呼ばせてるのかな」

 わたしは頷く。千摘さんはふうっと溜め息を吐いた。

「……名前を褒められて、名前で呼び合うようになって、それで、何回も助けてくれたんだっけ? だから殺してほしくないんだ?」

 千摘さんは笑っている。なのに、その裏には煮え立つような怒りが感じられた。

「それってさ、全部私が先にやったよね。いじめから救うのも、名前を褒めるのも、井月ちゃんは二番目だ。さっちゃんに救世主は二人もいるの?」

 背中に冷や汗が伝った。

「それに、井月ちゃんは学校の中では強いかもしれない。でも、外ではどうだろう。ただの小学生だよ。さっちゃんの問題すべてを解決できるとは思えない」

 千摘さんはわたしの肩に手を置いた。

「ねえ。私と井月ちゃん、どっちが大事かな?」

 返答に窮していると、千摘さんは不意に破顔した。さっきまでのような固い笑顔ではなく、わたしを許すような、慈しむような、包み込むような、優しい、おそろしい笑顔だった。

「さっちゃんは生きてて幸せだなって感じること、ある?」

 唐突だった。私が思い出したのは、井月の笑顔や千摘さんの笑顔ではなく、母の鬼気迫る顔だった。そして無関心を決め込む姉の顔と、罵声と暴力の痛みだった。

 わたしは首を横に振る。

「でも、今は少しだけ、幸せを感じることもあります」

 その言葉の白々しさといったらなかった。千摘さんは嫋やかに微笑むと、

「さっちゃんだけは、何も悪くないからね」

 それだけ言ってわたしの背を軽く押した。

「今日はもう帰りなよ」

 なにも言えなかった。諦めて階段に向かうと、

「ごめんね」

 背中にか細い声が聞こえた。わたしは振り向くことなく、階段を降りた。


    *


「君、小学生だよね。こんな時間まで学校だったのかい?」

 帰り道、若い男性警官に声をかけられた。柔和な笑みを顔中に広げていた。

「今日は、塾が少し長引いて……」

 笑顔を作った。警官は「家まで送るよ」と隣に並んだ。断れなかった。遠ざけるような真似をすると怪しまれるような気がした。

 横並びに歩きながら、あれこれと質問された。学校は楽しいか、最近は何が流行っているか、怪しい人を見たことはないか。

 わたしの心臓は暴れっぱなしだった。学校は楽しい、最近は都市伝説が流行っている、怪しい人を見たことはない。他人の口で喋っているように感じた。

 警官は都市伝説に興味を示した。わたしは井月から聞いたままを話した。男女の二人組で、百メートルを三秒で駆け抜ける、〝流産さん〟夫妻。少しでも犯人像が千摘さんから遠ざかればいいと思った。

「最近は物騒な名前がつくものなんだね」

 警官は苦笑を洩らして、

「私が学生の時も似た都市伝説はあったけど……もっと穏当な名前だったよ」

 警官は結局、わたしの家の前まで着いてきた。わたしが被害者と同じ小学校であると知ると、同情的な目を向けてきた。

「煙草の臭いがするけど、どうしたの?」

 別れ際にそう聞かれた。わたしはふっと微笑んだ。

「母が吸っているんです。その臭いが移ったのかもしれません」

 警官は咎めるべきか迷うような表情で帰って行った。


 やはり母の靴はなかった。最近はずっと不在がちだ。もしかしたら、昼間に帰ってきているだけかもしれないが。

 だが、会う頻度が減っても、母の暴力は終わらなかった。むしろ最近では顔を合わせれば問答無用で殴られるまで発展した。理由のある暴力ではない、暴力のための暴力だった。

 なぜなのか、一度姉に聞いてみたことがあった。母と数日ぶりに顔を合わせ、ひどく虐められたあとのことだ。

 姉はわたしの質問にどこか気まずそうな顔をすると、

「お母さんは色々、溜め込んでるんだよ。少しだけ我慢してあげて。もう高学年なんだから分かるでしょ?」

 どうやら、ただの憂さ晴らしで殴られているらしかった。それ以来、姉とも会話が減った。

「ただいま」

 靴を脱ぎながら家の中に声をかけた。だが返事はなかった。

 姉も帰ってきているはずの時間だ。いつもなら「おかえり」くらいは返してくれるのに。そう思いながら自分の部屋に行き、そこで言葉を失った。

 姉はわたしのノートを見ていたのだ。千摘さんに頼まれた調査を纏めたものだった。わたしに気づくと、姉は何も言わずノートを戻し、

「私、ちょっと出かけてくるから」

 ドアノブに手をかけた。わたしはその背へ声をかけた。

「……お姉ちゃんは、都市伝説とか詳しいの?」

 祈るような気持ちだった。

「なにそれ」

 姉は眉を寄せていた。

「都市伝説とか興味ないんだよね」

 部屋を出て行った。扉が閉まる音を聞いて、わたしはほっと息をついた。

 千摘さんが捕まるところは想像できない。しかしもう止めるべきではないだろうか。今回はたまたまバレなかっただけで、もしノートを見たのが姉でなく、さっきの警官だったらどうなっていただろう。バレるのも時間の問題ではないか。

 今度は、わたしが千摘さんを救う番なのかもしれない。


 そしてその日の夜。井月とその母親が何者かに殺された。

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