第七章

1 圭祐

 深夜二時三〇分。圭祐は痛む左頬を気に掛けながら、兄、尚人と向かい合っていた。

 三〇分前、尚人に話を持ちかけると、思った以上に簡単に扉を開けた。もしかしたら圭祐が声をかけなくても、今日澄香に会いに行くつもりだったのかもしれない。

「この場所に行けば、あの人に会えるよ」

 圭祐は昨日――正確には一昨日、澄香から渡された紙を差し出した。事情を知らない人間が尚人のことを見たら、きっと好青年だと評するだろう。ただ一点、淀みきった瞳を除いて。

 部屋から出てきたときの尚人は、みすぼらしかった。伸ばしっぱなしの髪やひげからは異臭が漂い、声はガサガサに掠れていた。

「元婚約者に会うんだから、身だしなみくらいは整えておかないとな」

 尚人は冗談めかして言うと、二〇分ほどで小綺麗になって戻ってきた。

 そこには確かに在りし日の面影があった。頬骨が突き出し、落ち窪んだ瞳に危なげな輝きが灯っていようと、それはかつて圭祐の尊敬していた兄だった。

「悪いな、圭祐。助かるよ」

 尚人はすっかり調子の戻った声で、圭祐の差し出した紙を受け取った。

「兄貴はどうするの?」

「殺すよ」

「そっか」

 対した驚きもなかった。なんとなくそんな気はしていた。

「ごめんな」

 不意にそう言われた。

「ずっと謝りたかったんだ。あのとき突き飛ばしたこと。痛かったよな」

 尚人は泣く直前の子どものような顔をしていた。圭祐は動揺してしまい、

「なんだよそれ」

 と誤魔化すので精一杯だった。

「いや、覚えてないならいいんだ。ただ俺が、お前に対して申し訳ないと思ってたことだけ分かってくれれば」

 尚人は涙をやり過ごすように深い息をつくと、

「それで、わざわざ俺にこれを渡してきたって事は、なんか頼みがあるんだろ?」

 圭祐は頷いた。

「兄貴にしか頼めないんだ」

「やっぱりな。昔はよく俺のこと頼ってくれたもんな。小さい頃はよく兄ちゃん兄ちゃんって言ってさ、悪戯も全部俺が手伝って、お咎めもよく受けたんだ……」

 その目に浮かぶ涙に気がつき、圭祐は目を伏せた。

「……あの日も、お前は俺に助けを求めてくれたのに、俺、何にも出来なくてさ……」

 あの日というのが澄香に犯された日だと気づいて、圭祐は首を振った。

「やめてくれよ。あのとき兄貴が出てきたとしても結果は同じだったよ。責任を感じる必要はないんだ」

「それは、そうかもしれないけど……」

 兄は鼻をすすって、目を擦った。

「まあ、だから償いってわけでもないけど、何でも言ってくれ」

「じゃあさ――」

 圭祐は事情を掻い摘まんで説明し、宮下から取り上げた刃物を全て差し出した。

「――やってくれる?」

 もしこれで断られたら、いよいよ自分が計画の一部になるしかなくなる。計画の破綻を防ぐため、自分の破滅すら計算に入れなくてはならない。

 本当ならこの役は、珠希に引き受けさせようと思っていたのだが、それももう難しいだろう。

「分かった。それくらいならやるよ」

 尚人はあっさりと承諾した。圭祐は面食らった。

「本当に、良いのか」

 兄に損な役回りを押しつけることに、抵抗がないわけではなかった。

「引き受けるにしても、理由とか聞かなくても……」

「いいよ。理由なんて何でも良い。どうせ最期なんだ。何だってやってやる」

「最期?」

「ああ、澄香のことを殺したら、俺も死ぬよ。生きている意味なんてないしな」

 圭祐は止めようとは思わなかった。無責任に生きていてくれというには、あまりにも遅すぎた。

「昨日、澄香が俺に言ったこと。あれ全部本当なんだ。俺は澄香が憎いはずなのに、未だに好きなんだ。帰れって言った時なんて、膝が震えてたんだぜ」

 自嘲するような声だった。

「多分俺は生きてる限り、あいつの影に囚われることになると思う。もうまともには生きられない。だから、いいんだ。澄香と心中するよ」

「兄貴は何かして欲しいこととかある? 何でもとは言わないけど……」

 尚人は少し考える様子を見せると、

「じゃあ、いつか母親を殺してくれよ。俺の人生を狂わせたのは、澄香と母親だ。澄香は俺が殺すから、母親は頼む」

 圭祐は一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに了承した。

「分かった。いつか絶対に殺すよ。だから、兄貴は安心して死んでいい」

「ありがとう」

 尚人はホッと肩を落とした。

「最期までこんな兄貴でごめんな」

「……僕は、兄貴の弟で良かったと思ってるよ」

 本心だった。尚人は面映ゆそうに笑った。

 それから思い出したように圭祐に視線を向け、

「さっきから気になってたんだけど、それどうしたんだ? 腫れてるけど。誰かに殴られたか? ……まさか、澄香じゃないよな」

「違うよ。ちょっと一悶着あってね」

 圭祐は腫れた左頬を押さえて、つい数時間前のことを話した。


 今日の夕方、圭祐はいつものように廃ビルで珠希と会い、次のターゲットを澄香にするように打診していた。

「あいつこそ子どもを産む価値のない人間だろ。兄貴を弄んで、中学生をレイプして、そのうえ昔のことは忘れて赤の他人との子どもを作ったんだ。許されるわけない。そうだろ」

 しかし珠希の反応は悪かった。ふてくされた表情で煙草をくゆらせながら、

「それってさ、要するに圭祐のお兄さんが他の男に負けただけの話じゃん。甲斐性のある人間を選ぶのは自然でしょ。今のところその澄香さんを襲う気にはなれないな」

 彼女なら一も二もなく乗ってくると思っていたのに。圭祐の計画はそもそも、珠希が澄香を襲うことが絶対条件だった。

 圭祐は何とか説得しようと言葉を重ねた。

「でも、お前は言ってたよな。犯罪者は子どもを産むべきじゃないって。あいつに中学生のときレイプされたのは本当だよ。あいつの子どももきっと、中学生を襲うような子どもになるに決まってる。それにうわ期すようなやつ、家庭を築けるわけないだろ? あそこに生まれる子どもは不幸になる。それを防ぐのがお前の役割じゃないのかよ」

 言い終わるのを待って、珠希はこう言った。

「圭祐はその澄香って人のこと好きなんだね」

 圭祐の口が止まる。珠希はしたり顔で笑った。

「やっぱりね。だから澄香さんが、誰かと結婚して子どもを作ったのが許せないんだ。裏切られたと思ってるんでしょ。本当は自分が澄香さんの隣にいたはずなのにって。もともと澄香さんは圭祐のことなんて好きじゃないのに」

 子どもに言い聞かせるような声だった。

「違う! 僕は……」

「違わないよ。圭祐は澄香さんに対して、歪んだコンプレックスを抱いている。そして、お兄さんを盾に、澄香さんを逆恨みで殺そうとしているんだ。しかも自分の手は汚さず、私に肩代わりさせようとしている」

 珠希はふと表情をなくすと、灰皿に煙草を押しつけた。

「私は君の恋人じゃなくて共犯者だから、圭祐が誰にどんなコンプレックスを抱いていようと、どうでも良い。でも、そんなくだらない恋愛感情で、環さんから受け継いだこの犯罪を使われたくはない」

 灰皿に残った火種から煙がしつこく立ち上っている。

「感情で使われたくない?」

 圭祐は食ってかかった。

「よく言うよ。そもそも珠希の行為自体、感情レベルの話じゃないか。知ってるぞ。環さんはもう死んでるんだってな。自殺だって? お前は環さんの幻に縋って、こんなこと続けてるだけなんだろ」

 珠希は目を剥いて唇を震わせた。

「どうしてそれを……」

「知ってるよ。わざわざ調べたんだからな」

 圭祐は鞄から図書館でとってきた新聞のコピーを取り出した。

「この七年前の一家惨殺事件っていうのが、環さんが起こした事件だろ。記事には唯一生き残った少女がいると書いてあるけど、これはお前だな」

 否定か肯定か珠希が口を開いた。それを制すように続けた。

「お前は環さんを救世主とか呼んでたな。いじめっ子と罪者の家族を殺してもらったんだっけ? お前におかしな思想を植え付けて、逃げるように自殺した女のどこが救世主なんだか……」

 珠希が殺気立った視線を向けてくる。圭祐は怯まず詰め寄った。

「お前、本当は思想も信条も持ってないんだろ? ただ妊婦を襲うことで快楽を得て、環さんの幻想に酔ってるだけ。お前にとっては妊婦を襲うのも、セックスも、同じなんだろ。いやオナニーか?」

 露悪的にせせら笑う。

「どちらにせよ、お前は環さんに囚われて、快楽を貪ってるだけのガキだよ。……でも、ここで僕に協力すれば、」

 そうではないと証明できる。そう言おうとして勢い込んだところに、珠希の平手打ちが飛んできた。続けざまに灰皿で頭を殴られる。アルミでできていたおかげで頭から灰を被るだけで済んだ。だがもしこれがガラス製だったとしても同じように振り下ろしてきただろう。

「なにすんだよ!」

 圭祐は珠希を睨みつけた。

「……帰って」

 低く小さい声だった。

「落ち着けよ。まだ話は終わって……」

「いいから! もう帰れよ!」

 凄まじい剣幕で叫ぶと、今度は拳で左頬を殴られた。


 話し終えると尚人は楽しそうに笑った。

「そりゃあ圭祐が悪い」

「分かってるよ。流石に言い過ぎたとは思ってる。でも、元々は向こうからふっかけてきたんだ。殴ることはないだろ……」

「その珠希ちゃんにとっては、環さんがよっぽど大切だったんだろ」

 揶揄うように目を細めて、

「圭祐には女心が分かってないな」

「それはお互い様だろ」

「違いないね」

 圭祐と尚人は同時に笑って、同時に嘆息し、また同時に噴き出した。

「じゃあ、そろそろ行くわ」

 三時を少し過ぎたところだった。

「ああ。気をつけてな」

 仕事に送り出すように手を振る。

 尚人は階段に足を掛けたところで、思い出したように振り返った。

「そういえば前に、生きててよかったと思うかって聞いたことあったよな」

「ああ、聞いたけど」

「あれの答えな。生きててよかったと思ったことはない」

「じゃあ兄貴も、少しでも不幸になる可能性のある人間は……いや、人間は生まれてこない方が良いと思う?」

「どうかな。一概には言えないけど……」

 自嘲気味に笑い、

「少なくとも俺は、生まれない方が良かったと思ってた。でも誰かを救うために死ねるんだから、今は生まれてきて良かったと思うよ」

 圭祐はどんな表情をして良いのか分からず、曖昧に笑った。

 途中まで階段を下り、尚人は一度だけ振り向きかけ、堪えるように足音を大きくして階下に消えた。裏口の扉が閉まる音が静寂に波紋を立てた。

 その後、圭祐は兄の後を追って家を出た。どうせなら自分の罪も被ってもらおうと思ったのだ。きっと兄は許してくれるだろう。もし許してくれなかったら、地獄で謝ればいい。そう思った。

 追いついたときにはすでに、二人はもつれあうようにして死んでいた。

 それを横目にしながら、圭祐は行動に移った。悲しみを感じる暇もなかった。急いでいたせいで、最後まで自分を見ている影には気づかず、事を終えると家に帰った。

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