3 礼子
志奥に裏切られたことを知ったのは、志奥が退職した翌日、昨日のことだった。
馬場と榎下が、ある音声を聞かせてきたのだ。清香が死んで二週間が経ち、脅してくる志奥も職場を去り、ようやく平穏が訪れたと思っていただけに。ひどく狼狽した。
礼子は二人に悟られないよう、絡まった唾を飲み込んで、
「なんですか、これ?」
と、取りなすように口端を上げた。
榎下は下品な笑い声を立てながら、
「志奥さんからもらったんですよ。礼子さんって、こんな人だったんですね」
馬場も同じ顔をした。
「これ、本当に言っていたことなんですか? 志奥さんの捏造じゃなくて?」
礼子は何も言い返せず、室内を見回した。しかし誰も礼子の味方はいなかった。
「息子さんも引きこもりみたいで……正直失望しましたよ。息子を引きこもりにするなんて、一恵さんのこと言えないじゃないですか」
「どうりで、子どものことを話したがらないなと思ったんですよ。ずっと私たちを騙していたって事ですよね」
二人は口々に喚く。礼子は鞄を持ち、二人に背を向けた。
「逃げるんですか?」
こんな挑発に乗ってはいけない。
だが馬場のひと言にカッと血が上った。
「もしかして、息子さんが引きこもりになったの、礼子さんのせいなんじゃないですか?」
「あんたに、私の何が分かるのよっ!」
唾を飛ばしながら叫ぶと、水を打ったように静まりかえった。
「あの子が引きこもりになったのは、私のせいじゃない! あの子が、落ちこぼれで、どうしようもない愚図で……そのせいじゃない!」
礼子は職場を飛び出した。
息子はすでに帰ってきていた。ほっとしたのも束の間、礼子はなにか違和感を覚えた。隠しごとをしていることを隠そうとしているような、余所余所しさがあった。
「ご飯、兄貴の部屋に持ってくよ」
夕飯ができると、息子はそう言って、礼子の返事も待たぬまま二階へ向かった。その背にようやく気がついた。
香水の匂いがしたのだ。いや、家の空気に匂いが混じっている。しかも以前付け帰ってきたのと同じ匂いだった。
ただの勘違いだろうとも思ったが、あんな匂い、間違えるはずもない。礼子は香水が苦手だからこそ、その差には敏感だった。あの香水を使った誰かがこの家に来たのだ。さらに極めつけは、床に長い髪の毛が落ちていることだ。息子はもちろん、礼子もここまでは長くない。
礼子は明日仕事を休むことに決めて、息子が一階に下りてくる前に、その旨を連絡した。
電話に応じた事務員は、電話越しに失笑を浴びせてきたが、もはやどうでも良いことだった。
翌日。息子が学校に行ったのを見届けてから、礼子は息子の部屋に入った。
部屋のなかは前回と変わりないように見えた。整理整頓は行き届いており、大学のパンフレットや問題集も本棚に収まったままだ。その背表紙を見て、息子の態度に対する違和感など、自分の思い違いではないかと、礼子は半ば祈るように思った。
しかし抽斗を開けた瞬間、その祈りは立ち消えた。
抽斗の中には、カッターナイフが入っていた。それだけではない。サバイバルナイフや、折りたたみナイフ、果物ナイフなど、刃物という刃物がぎっしりと詰まっている。
礼子はわななく手で、カッターナイフを掴んだ。刃には赤黒い物が点々と、まるでほくろのように付着しており、触れるとかさぶたが剥がれるようにして床に落ちた。
心の闇、という言葉が頭に浮かぶ。呼吸が乱れて、抽斗を閉める手は大袈裟なほど震えていた。
自分を落ち着かせるように礼子は部屋を歩き回った。全ての抽斗を開け、本棚に収まった一冊一冊のページの間に隈なく目を通し、マットレスや机の下、果てはクローゼットに掛けられた服の、ポケットの中身まで調べた。
そうしてゴミ箱のなかを覗き、小さく悲鳴を上げた。
妊娠検査薬が入っていたのだ。小窓には陽性を示す線が、くっきりとついている。一体いつのものなのだろう。礼子の脳裏に、まだよちよち歩きしか出来ない頃の息子と、昨日のどこか余所余所しい表情の息子とが、交互に浮かんだ。呼吸が自然と浅くなり、心臓は手首や耳の裏でも跳ね回っていた。
これが誰のものかはすぐに分かった。
プリクラに写っていたあの少女だ。加工のしすぎで元の顔は分からないが、見たところ利発な子ではなさそうだった。しかし息子のあの幸せそうな表情は嘘ではないだろう。他の誰かとの子だと言われるよりは納得が出来た。だが、まさかあの息子が、よりによってあんな少女と……
礼子は、暴れる心臓を押さえつけながら部屋を出た。あのまま部屋にいれば狂ってしまうという予感があった。
一階に下りたところで、自分が未だに検査キットと、カッターナイフを持っていることに気がつき、キッチンのゴミ箱に放った。
その後、七時頃に帰ってきた息子に事情を聞くことも出来ず、礼子は夕飯を食べ終えると逃げるように寝室に籠もった。眠れるはずもなくベッドの中で輾転としているうちに夜が更けていった。
扉の開く音が聞こえたのはそのときだ。
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