2 わたし

 翌日。

 わたしは姉とその彼氏を連れて、千摘さんの元へ行くことになった。家を出る前に見たニュースでは、通り魔事件の七人目の被害者が出たと報じられていた。被害者は堂島だった。

「志緒も彼氏とか、好きな人くらい作りなよ。いつまでもお姉ちゃんにべったりなのはよくないよ」

 彼氏の家へ向かう途中、姉はそう言ってきた。わたしは聞こえない振りをして歩調を速めた。〝佐藤志緒〟なんて、まるで言葉遊びか悪ふざけのようで気に食わない。

 しばらく歩いたところで、一軒家の前に立つ人影を見た。彼はこちらに気づくと笑顔で手を振った。姉は普段見せることのないような、とろけた表情を見せた。

「やあ。こんにちは」

 姉の彼氏は無駄に愛想を振りまきながら、わたしに目線を合わせてきた。

「そういえば、前に自己紹介しそびれちゃったね」

 手を差し出して、

「僕の名前は宮下啓太。少し前から、君のお姉ちゃんと交際させてもらってます。よろしくね」

「……佐藤志緒です」

 わたしはおずおずとその手を取った。啓太はわたしの名前に、これといった反応を見せることもなく左右対称の笑みを浮かべた。

「それで、今日はどこに連れて行ってもらえるのかな」

 わたしは先導するように、二人の前に立つと、

「こっちです」

 と廃ビルの方へ足を向けた。今日姉がデートに行くことは、日記を見て知っていた。わたしはそのデートに混ぜてもらえるよう頼んだ。千摘さんからそうするように指示を出されていたから。

 初めはもちろん断られたが、何度か食い下がると姉は諦めたように承諾した。わたしが姉の秘密の一端を握っていたからだろう。啓太が断らなかったのも大きいかもしれない。

 廃ビルまで来ると、姉は「道間違ってない?」と不安そうに聞いてきて、啓太は「まあ、小学生なんだからそういうこともあるよ」と肩を竦めた。

「ここで、合ってますよ」

 わたしはぶっきらぼうに言う。子ども扱いされたのが気に入らなかった。姉が何をふざけているのだという顔で何か言いかけたところで、

「そう。さっちゃんは間違ってない」

 涼やかな声が聞こえた。姉も啓太も、驚いた顔でそちらを見た。正面入り口から、悠然とした足取りで千摘さんが現れた。

「こんにちは。私は志奥千摘。二人に少しだけ用があってね。さっちゃんにここまで連れてきてもらったんだ」

 おいで、と千摘さんが手を伸ばした。私はその背に隠れた。

「君たちの名前は何だったかな」

 千摘さんが笑顔で問いかけると、啓太と姉はそれぞれ名乗った。

「莉緒ちゃんとは、一度会ったことあるよね」

 姉の名前に反応して千摘さんは言った。姉は訝しげに眉を寄せた。

「え、そうでしたか?」

「悲しいなあ。もう忘れちゃった?」

 本当に悲しい顔をしたからか、姉は居心地が悪そうに顔を俯けた。

「まあいいや。ちょっとお話ししたいことがあるから、時間をもらうよ」

 有無を言わさぬ口調だった。その目はわたしにも向けられていた。

「少しだけ、場所を移そうか」

 千摘さんはわたしの手を取って、おもむろに歩き出した。二人はしばらく固まっていたが、やがて導かれるようにして、後をついてきた。姉は正体不明の女性に見るからに怯えていたが、啓太に宥められるとすぐに落ち着いた。

 千摘さんはその様子を見て、一人ほくそ笑んでいた。

 その表情は本当に楽しげで残酷だった。


 場所は斜向かいにある古びた倉庫だった。元々は白かったであろうトタン屋根は錆色に変わり、横開きの扉は半端に開けられたまま動かなくなっていた。照明は自然光だけで、夜になれば真っ暗な闇に飲まれてしまうだろう。

 千摘さんはだだっ広い倉庫の奥へと歩きながら、

「最近、通り魔事件が起きているのは知ってるかな。それと、〝流産さん〟だっけ? そういう都市伝説も流行ってるんだ。聞いたことはある?」

 まるで教師のように、姉に発言を促す。

「通り魔事件は知ってるけど、都市伝説は知らない。……興味ないから」

 姉が不安げに腹をさすって、啓太がその肩を抱いた。興味がないのではなく、ただ怖いだけなのだろう。それに気がつくと、姉がひどく脆弱な生き物に見えた。

「そうだね。通り魔事件は大きく報道されてるけど、都市伝説の方は、なあなあになってるから知らなくて当たり前だ。暴行事件って言えば伝わるかな」

「それなら知ってます」

 姉の代わりに啓太が答えた。

「妊婦ばかりが襲われてるやつですよね」

 千摘さんは満足そうに頷いた。いつの間にか手を離されていて、わたしは入り口から少し離れた位置に突っ立っていた。姉と啓太は入り口のすぐ近くにいるので、ちょうど挟まれた形になった。

「じゃあ昔もこの辺りで、似た事件があったのは知ってるかな」

 二人は首を振ったのを見ると、千摘さんは小さく嘆息した。

「まあ、そうだよね。君たちが生まれるずっと前のことだったし……」

 取りなすように笑い、

「少しだけ、昔話をしてあげるよ。もう、二十年くらい前のことかな」

 朗々と語り出した。

「私が高校二年生の頃、夏休み半ば、一件の通り魔事件が起こった。被害者は当時私と同じ高校に通っていた一年生。ナイフで滅多刺しにされて殺されたんだ。これが一件目」

 人差し指を指揮棒のように振りながら近づいてきた。

「その後も、夏休み中に、何件かの通り魔事件が起きた。被害者は全員幼く、小中学生がほとんどだった。しかも女性ばかり。どの子もナイフで刺されて死亡。性的暴行の痕はなし。今起きてる事件とこの辺りも一緒だね。犯人は捕まらず、夏休み中に三人の被害者が出た。

 そして、夏休みが明けてすぐにも、ある女性が夜道で襲われるという事件が起こった。この子は高校一年生で、彼氏との子どもを妊娠していた。幸い命に別状はなかったけど、胎児は死んじゃったんだ。その子の名前はまたあとで教えてあげる」

 悪戯っぽく笑った。

「初めはこの暴行事件も通り魔の仕業だと見られていた。でも、その少し後、立て続けに妊婦ばかりが襲われるという事件が多発した。今でいうところの、〝流産さん〟だね。これを受けて警察は、暴行事件は暴行事件で、通り魔事件は通り魔事件で捜査をするようになった。それぞれターゲットが違うわけだからね。

 その直後に、一つおかしなことが起こった」

 香水の芳しい香りが鼻腔を擽る。千摘さんがいつの間にかわたしの隣に立っていた。

「暴行事件が起きた日を同じくして、ある妊婦とその小学生の娘が殺されたんだ。当然警察は困惑した。せっかく犯人像も固まりつつあったのに、バラバラの事件のターゲットが同じ人間の手で殺されたんだから。

 だけどその後、事件は急展開を迎えるんだ。暴行事件も通り魔事件も起こらなくなった頃、ある男性が元婚約者の女性を殺したあと自殺する事件が起きた」

 千摘さんはもう、姉と啓太に触れられる距離まで迫っていた。

「初めは痴情のもつれだと思われたんだけど、なんとその男性のポケットから、暴行事件と通り魔事件の関与を示唆する証拠が出てきたんだ。警察は大慌てで捜査検証を行った。その結果どうなったと思う? その男性がすべての事件の犯人だとされて、事件は幕を閉じたんだ。その後、妊婦が襲われることも、小中学生が刺殺されることもなかったから再捜査がされることもなかった。犯人死亡ですっきりはしないけど事件は解決したんだよ。これが二十年――正確には十九年前の事件の全貌だ」

「でも、その事件がまた起こっている……」

 啓太がぼそりと呟いた。千摘さんは出来のいい生徒を前にしたように、嬉しそうに笑った。

「その通り。おかしいよね。当時の犯人はもう死んだはずなのに、どうして今更、十九年も昔の事件が起こってるんだろう? 模倣犯にしては時間が経ちすぎだ。……もう、ここまでいえば分かるかな。

 犯人はまだ生きてるんだよ」

 二人の顔が青ざめた。

「そもそも『犯人と思われる男性』が死んで、それから事件が起こらなくなったから解決なんて杜撰だと思わない? それに通り魔事件と暴行事件、両方の特性を持った事件が起きたなら、同一犯ではなく共犯を疑うべきだった。冷静になればこれくらい分かるはずなのに……人間、想定外の事態に弱いんだよ」

 千摘さんは人差し指を啓太に向けた。

「もし連続殺人事件の犯人が、突然犯行をやめた場合、どんな理由が考えられるかな」

 啓太は狼狽を露わにして、少し間を置いてから答えた。

「警察にバレそうになったとき、ですか?」

「そうだね。それもある」

 千摘さんは右足を一歩だけ引いた。

「あとは、次のターゲットを探しているとき、かな」

 瞬間、千摘さんの足が姉の腹にめり込んだ。姉は喉の奥から潰れた呻き声を洩らし、地面を転がった。啓太は目を丸くするだけで身じろぎ一つしなかった。さっき千摘さんの言った「人間は想定外の事態に弱い」ということの証左を見せられているようだった。

「ねえ、産めるつもりでいた? 育てられると思った?」

 倒れ伏した姉の腹に、何度も蹴りが放たれる。無駄のない、洗練された動きだった。鋭い音が倉庫に響いた。

 生の暴力を見せつけられたからだろうか。それとも啓太が中々動かないからだろうか。わたしは、千摘さんの方へ一歩踏み出していた。止めようと思ったわけではなく、ただ無意識だった。

 しかし千摘さんはそう解釈したのだろう。

「止めないでよ、さっちゃん」

 睨むような視線を向け、

「さっちゃんだって分かってるでしょ? 何が正しくて、何が間違っているか。前にも言ったよね。たとえさっちゃんでも、私から救世主の座を奪うことは許さないって」

 姉の腹の上で、まるで煙草でも踏み消すようにつま先を動かした。

「今までずっと、私はさっちゃんのために手を汚せなかった。でもこれでようやく本当の意味で救世主になれるんだ」

 その声はすこぶる優しかった。だが、その顔はこれ以上ない愉悦で歪んでいた。

 わたしはそれを見て、ようやく認識を改めた。なぜ忘れていたのだろう。彼女は救世主である以前に、冷徹な死神だった。

「莉緒から離れろ!」

 ようやく事態を飲み込めたのか、啓太は顔を赤くしながら、千摘さんに突進していった。

 千摘さんは悠然と構え、全てを受け入れるような笑みを浮かべた。

 ぶつかる直前、啓太の体は宙を浮いた。横から突き飛ばされたのだ。

「やあ、待ってたよ」

 旧友に会ったときのような軽やかさで千摘さんは入り口を見た。今まで一度も見せたことのない、親愛の籠もった表情。わたしもそちらに目を向ける。

 そこには一人の男が立っていた。

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