第六章
1 圭祐
圭祐は珠希の肉体に溺れる日々を送っていた。計画に必要だと言い訳をしながら、その実、ぬかるみに嵌まっていたのだ。
事件に何の進展もないまま、二週間が経った日のことだった。
ベッドの上で、珠希は煙草をくゆらせながら、
「私がこうなるのは、昔から決まってたんだ」
シーツの上には、チューハイの缶が置かれている。酔いながらするのが珠希の好みだった。その隣でまどろみながら、圭祐は耳を傾けた。
「圭祐は覚えてるかな。前に犯罪者は生まれてくるべきじゃないって言ったこと。圭祐は納得してなかったみたいだけどさ」
そんなこと、あっただろうか。もうよく覚えていなかった。返事はしなくとも、珠希は話を続けた。
「私の母親、犯罪者だったんだ。私が生まれるより前に、自分の友達の赤ちゃんを殺したことがあるんだって。母と姉と、その友達の親子の四人でプールに行って、そこで事件は起きた。母が、誤って友達の子どもを溺死させたんだ」
口を開くたび、甘い香水に煙草の臭いが混じって香った。いや、そもそも珠希が吸っている煙草はバニラの香りだったか。
「本当に不幸な事故だったとしか言い様がなかった。と、警察は判断した。でも、あとから聞いた話だと、母はその友達に嫉妬していたみたい。夫がイケメンで、稼ぎも多くて、その友達も美人だったから、むしゃくしゃしてやったんだって、酔っ払いながら教えてくれたよ」
珠希はギリギリまで短くした煙草を消すと、また新たな一本を銜え、しかしすぐには火をつけず、口先でぷらぷらと揺らした。
「分かるでしょ、圭祐。私には犯罪者の血が流れてる。私は、生まれてくるべきじゃなかったんだ」
声を上げて笑う。ライターの擦る音が聞こえる。
「犯罪者の子どもは犯罪者に決まってる。宿命なんだよ。でもね、そんな私に意味を与えてくれた人がいたの」
珠希は深く息を吐いた。部屋中には甘い紫煙がただよっている。
「環さんって言うんだけどね。その人が教えてくれたんだ。私みたいな子どもを増やさないために何をすれば良いのか、そして、私がやるべきことを。あの人は私のために全部殺してくれたんだ。……比喩じゃなく、本当にね」
語尾には哄笑が交じる。〝環さん〟は、妊婦を襲うとき、珠希がよく口にしていた名前だ。
「環さんのおかげで今の私があるんだ。あの人のためだったら、私は全てを捨てられる」
「宗教みたいだな、それ」
「そうだね。環さんは私の救世主なんだ。あの人だけが私の全てで、生きる意味だ」
幸せを凝縮したようなその表情に、圭祐は胸の奥を擽られたようなもどかしさを覚えた。彼女の惜しげもなく晒された乳房や、腰の滑らかな曲線を見て、自分すらその幸せの只中にいるような気分になった。
圭祐は軽く首を振ると、彼女をうつ伏せに組み伏せた。珠希の指から離れた煙草がシーツを焦がし、その上に缶の中身がぶちまけられた。
*
放課後、市営図書館に寄ってから、帰宅すると、家の前に一人の女が立っていた。
年の頃は二十代半ばから三十代前半。背がすらりと高く、やや吊り目がちの双眸から勝気な印象を受けた。
「うちに何か用ですか?」
女はゆっくりと振り返ると、圭祐を認めて一瞬だけほくそ笑んだ。それからわざとらしく口許を手で覆い、
「もしかして、圭祐君?」
と声を高くした。その薬指には指輪が輝いている。女は甘い香水の匂いを振りまきながら近づいてきた。
「やっぱり圭祐君でしょ。もう高校生になったんだ?」
「なんで僕の名前を……」
女は答えず、悪戯っぽく目を細めた。
「制服、似合ってるよ」
その声には聞き覚えがあった。誰だろうとしばらく考え、人を弄ぶような態度と、深い瞳の色でようやく思い出した。
「今更何の用ですか……澄香さん」
目の前の女は兄の元婚約者――澄香だった。
「あ、やっと気づいた? 綺麗になったでしょ」
その顔に三年前の面影はなかった。澄香はもっと、穏やかな顔立ちをしていたはずだ。
「でも、悲しいな。ちょっと顔を弄ったくらいで、私のこと分からなくなっちゃうなんて。教育が足りてなかったのかな」
その言葉でかつての記憶が一斉に掘り返された。最悪な地獄のような時間。たった一度きりだと思ったのが間違いだった。
「それに首にキスマークまで付けてるし。イヤらしい子に育っちゃったね」
咄嗟に首筋を隠したが、澄香が意地悪そうに笑ったのを見て、かまをかけられたのだと気づいた。
「ああ、本当にイヤらしい子になっちゃったんだ。私が送った写真も一回くらいは使ったのかな?」
圭祐は反射的に拳を固めるが、澄香の瞳に気勢は削がれてしまった。整形されていても、その瞳だけは変わりなかった。
「とりあえず入れてくれない? お母さんが帰ってくる前に、終わらせたいんだ」
圭祐は言われるがまま、強張った身体をギクシャクと動かし、澄香を家に上げた。
その全てが三年前の繰り返しを行っているようだった。
三年前の話には少しだけ続きがある。
澄香の本性が暴かれて数ヶ月が経ったある日のことだった。澄香が訪ねてきたのだ。
母は仕事に出ていて、家には圭祐と兄の二人しかいなかった。
「突然ごめんね。どうしても、なお君に謝りたくて……」
インターフォン越しに聞く澄香の声は、涙で震えていた。圭祐はその声に惹かれるようにドアを開けてしまった。兄の元婚約者が訪ねてきたときどうすれば良いかなど、中学二年生には分からなかったのだ。
……いや、そんなものは言い訳で、実際は、澄香の底知れない魅力に惹かれていただけだった。尋ね人が雪女だと知っていても招き入れてしまうのと似ている。目先の誘惑には誰しも目が眩んでしまうのだ。
「ありがとう、圭祐くん……」
礼だけですべてが許されるとでも言うように、澄香は家に上がり込み、断りもなく、兄の部屋まで進んだ。そして、扉の向こうの兄に向かって、泣き言とも懺悔ともつかない言葉をいくつも吐き出した。言い方を変えれば、それはただの自己弁護だった。
やがて兄が何の反応も示さないことを知ると、澄香はおもむろに圭祐に抱きついてきた。香水の匂いが圭祐の鼻にかみついてきた。
「こんなこと……ごめんね。悪い女でごめん。私も自分が大嫌いなんだ。気がついたら男の人をそういう目で見ちゃってる。お兄さんには悪いことをしたと思ってるよ。でも、ごめん……今だけは許して……」
流れる動作でキスをされる。
圭祐はわけが分からず、しかし拒絶することもできなかった。壊れ物のような彼女を突き放す気にはなれなかった。同情したのだ。
だがその気持ちは呆気なく潰された。
澄香はそれまでの感傷的な顔が嘘のように、声を上げて笑ったのだ。興奮を露わにした目は婀娜に歪んでいた。
圭祐は裏切られた気分だった。彼女は男を発散の道具としか見ていない。それに気がついた途端、背筋の凍るような恐れと、腹の底から煮え立つような怒りが湧いた。
ようやく抵抗をしたが、澄香は暴れる圭祐をあっさり抑え込むと、動きを激しくした。男子中学生のささやかな抵抗など、全くの無意味だった。情けなく果てた圭祐を見下ろしながら、澄香は扉を一枚隔てた先にいる兄に聞かせるように笑い声を上げた。
彼女は自分で言っていたとおり悪女で悪趣味で加虐趣味も持ち合わせていた。
ようやく解放される頃には、ボロ雑巾のようになっていた。
あれは間違いなくレイプだった。誰かに打ち明けることを考えなかったわけではない。だが、兄の婚約者に襲われたなど誰が信じてくれるだろう。
そして、澄香にレイプされてから一週間が経った頃、まるで釘を刺すように一通の手紙が届いた。中には圭祐のあられもない姿が様々なアングルから収められた写真が入っていた。その手紙はすぐに燃やした。
その日以来、圭祐は様々な女と体を重ねた。外交的で人好きする性格が幸いして相手には困らなかった。時にはネットを使い、他人から受けた傷の痛みを誤魔化すため、自分で自分を傷つけた。
そうした生活を続けるうち、羽崎奈月と出会い、別れ、珠希に絡め取られて、今に至る。
すべての原因が澄香にある、と子どもじみたことを言うつもりはない。だが、もしあのとき澄香が訪ねてこなければ、闇のなかで藻掻くような高校生活を送ることはなかったはずだ。
澄香は三年前と同じように兄の部屋の前に立つと、三年前とは違った毅然とした表情でこう言った。
「なお君、私、結婚するの。もう妊娠もしてるのよ」
その瞬間、殴り倒したい衝動に襲われたが、澄香の瞳に射竦められた。
「なお君さ、いつまでも家に籠もってないで、そろそろちゃんと外に出て働きなよ。私のことが忘れられないのは分かるけど、家族にいつまでも迷惑かけてちゃダメだよ」
部屋の扉がガンガンと激しい音を立てた。兄が内側から殴っているのだ。音が何度も廊下に響き、やがてしんとなった。
澄香は声を立てて笑うと、
「なお君って、本当に可哀想だよね。私に裏切られてから人生が狂って、ついでに弟君まで犯されて。目の前に憎い私がいるのに部屋から出てこられないんだ」
扉の向こうから返事はない。
「私が怖いんでしょ? 分かるよ、理解出来ないものは怖いよね。だからなお君はいつまでも部屋で蹲ってるしかないんだ。私が好きだったんだよね。裏切られたのに、まだその気持ちが捨てられないから、それが怖いんでしょ」
邪悪な笑みには不似合いな優しい声で言った。
「ねえ、なお君。最後のチャンスをあげる。もしいまこの扉を開けたら、思い出作りくらいはさせてあげる。何だったら圭祐君を混ぜても良いよ。何だって、好きなことをさせてあげる。場合によっては、またよりを戻してもいい。……頭のいいなお君なら、何が正解か分かるよね」
しかしいくら待っても、部屋の扉が開くことはなかった。
ただ一言、
「帰れ」
兄の掠れた声が聞こえた。澄香はつまらなさそうな顔に溜め息をつくと、
「期待外れだよ」
扉に背を向けた。
「じゃあね、なお君」
そのまま階段を下りていく。圭祐はその後に続いた。兄の声を聞くのは久しぶりだった。
澄香は玄関で靴を履き、それから思い出したように振り返った。
「そうだ。もう二度と帰ってこないからさ、圭祐君だけでも思い出作っとく?」
「ふざけてるんですか……」
「別にふざけてないよ。また三年前みたいに犯してあげる。イヤらしい圭祐君には、願ってもないことでしょ」
圭祐は何も答えられなかった。恐怖で喉が細まり、舌が上手く動かなかった。
「まあ気が向いたら、明日の夜にここまで来てよ。深夜が良いかな。深夜三時、三〇分だけ待ってるから」
澄香は足下に一枚の紙を落とすと、家を出て行った。その顔には最後まで小馬鹿にするような笑みが張り付いていた。
圭祐は閉まったドアを見つめながら、計画の実行を心に決めた。
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