2 わたし
ニュース番組から井月の名前が聞こえてきて、わたしは食パンを落とした。
テレビに映し出されたのは、間違いなく、井月唯花の写真だった。わたしは驚くより、悲しむより、やっぱりな、と思う気持ちが強かった。昨日千摘さんに追い返された時点で、どこかこうなると思っていた。
写真は母親と肩を並べて写っているものが使われていた。どうやら母親も殺されたらしい。
画面はスタジオに切り替わり、スーツを着込んだコメンテーターが、それぞれの見解を述べていた。どの出演者も一様に悲しさを表現する言葉を使って、井月の死を悼んでいた。中には涙ぐむ女性の姿もあった。
「こんな、将来が希望で満たされた子どもがね、ナイフで滅多刺しにされて……しかも妊婦さんまで……、こんな凄惨な事件、本当に……」
そこで一呼吸置いた。
「私は、この犯人は絶対に許せません。どんな気持ちでこんな事件を起こしたのか、本当に分からないですし、何より怖いです。私は犯人が一刻も早く捕まって、井月さん親子が浮かばれる日が来ることを心から祈ってます」
画面の向こう側に漂うお通夜ムードにわたしは気後れしていた。神林に黙祷を捧げる教室に引き戻されたようだった。
井月が死んでしまったことを上手く飲み込めていないのだ。
妙に冷静な頭でそう思い、床に落ちたパンを口に押し込むと家を出た。
小学校を通りかかったとき、神林のときの何倍ものカメラが校門前を埋め尽くしていた。罵声とも悲鳴ともつかぬ声が、こちらまで聞こえてきた。
「井月唯花さんが亡くなった件に関してどのように思われますか」
「井月さんは担任教師の目から見てどのような子でしたか」
「この学校での被害者は二人目ですが、犯人に心当たりは?」
「井月唯花さんのお母さんも亡くなっていますが、家庭に問題はありませんでしたか」
「担任教師として何か一言!」
校長先生は固い愛想笑いを浮かべ応答している。といっても、「詳しいことは言えません」の一点張りだ。その隣の正義先生は蒼白になり、一文字に口を引き結んでいた。
二人は近いうちにこの学校を去るだろうと思う。
わたしを追い詰めていた人間は、少しずつ減っていく。千摘さんはこれを見越した上で、井月をターゲットにしたのだろうか。
*
「井月ちゃんはちょうど良かったんだよ」
千摘さんは、わたしの質問にあっけらかんと答えた。
「妊婦のお母さんがいて、本人はいじめっ子で、しかも神林ちゃんと同じクラスだったからね。殺すにはもってこいだったんだ」
露悪的な言い方だったが、気にならなかった。わたしを欺くためだと分かっているせいかもしれない。
「それで? 恨み言ならいくらでも聞くよ」
吸っていた煙草を消し、
「友達が殺されたんだ。言いたいことの一つや二つあるでしょ? そのためにここに来た。違う?」
「……半分はそうです」
「半分?」
「はい。今日は確かに、言いたいことがあってここに来ました。でも、恨み言じゃありません。……その前に一つ確認をしてもいいですか」
「確認? なんだろう」
千摘さんまた煙草を銜えた。それからハッとして仕舞おうとしていたが、「吸ってもいいですよ」とわたしは勧めた。
「煙たかったらごめんね」
一筋の煙を吐き出した。甘ったるい、不快ではない匂い。
わたしは一息に言った。
「本当に、千摘さんが井月のことを殺したんですか?」
千摘さんは片眉を上げた。
「……どういう意味かな?」
「そのままです。わたしは犯人は千摘さんではないと思っています」
「へえ。どうして?」
「理由は色々ありますが……一つはスーツです。そのスーツ、昨日と同じものですよね」
「え? ああ、まあそうだね。スーツを洗いに出すのは面倒だし、基本的に変えることは無いよ。これももう八月頃から変えてないかも」
千摘さんは自身の腕の辺りに鼻を寄せ、
「もしかしてにおう? これでも消臭剤はちゃんと使ってるんだけどな」
「そういう意味じゃありません。千摘さんは今まで、妊婦を襲う日は必ず、動きやすくて目立たない服に着替えていましたよね。でも井月が死んだ日、千摘さんはスーツを着ていたんです」
「ああ、そういうこと」
納得した顔になった。
「だから私が井月ちゃんを殺してないって言いたいんだね」
わたしは頷く。千摘さんは煙草を深く吸い込んだ。
「でも、もしかしたらその日はたまたまスーツで殺しに行ったのかもしれないよ。今のスーツって結構動きやすいしね」
ストレッチパンツっていうんだけどね、と千摘さんは足を回した。たしかに可動域は広く、動き回ることもできそうだ。
でも――
「スーツが動きやすいか動きにくいか、それはどっちでもいいんです。重要なのは、もし千摘さんがスーツを着たまま井月を殺したなら、今そのスーツを着ていられるわけがないということです」
千摘さんは小首を傾けた。わたしはつづけた。
「井月と井月のお母さんはナイフで滅多刺しにされて殺されたんです。それなのに、今日千摘さんが着ているスーツには汚れが全くない。さっき昨日と同じだと言いましたよね。これはおかしいです」
千摘さんの表情に変化はない。
「本当は神林が殺されたときに気づくべきでした。神林の死因も刺殺だそうですし、千摘さんが殺してないのは明白ですよ」
「……もしかしたら、レインコートとかを着て、血飛沫を防いだのかもしれない」
千摘さんがなぜそこまで犯人の座に固執するのかは分かっていた。
わたしが与えてしまった称号のせいだ。千摘さんはそれに責任を感じているのだろう。それを否定し、剥奪するところから、この救済が始まるのだと思った。
「たしかに可能ですが、千摘さんは絶対に二人を殺していません。千摘さんが前に自分で言っていたんですよ。二週間くらい前のことです。わたしが井月を殺すのかを聞いたとき、『それはあの子が決めることだから』って」
表情にはやはり変化がない。しかし煙草を頻りに口に運んでいるのは、分が悪いと分かっているからではないだろうか。
わたしは畳みかける。
「千摘さん、通り魔事件の犯人は別にいるんですね。わたしの救世主であるために嘘を吐いているだけで。違いますか。〝あの子〟こそ真犯人で、千摘さんはその罪を被っているんじゃないですか」
わたしは一歩進み出て、
「もうこんなことはやめてください。これ以上、救世主の称号も、〝流産さん〟の汚名も、被ることはないんです。このままだったら本当に捕まっちゃいますよ。世界がどれだけわたしに優しくなっても、それが千摘さんの犠牲の上に成り立つなら、そんなもの――」
千摘さんは落ち着いた様子で煙草の火を消し、わたしに近づいてくると、
「そっか」
とわたしの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「さっちゃんは優しいね。私のこと心配してくれてるんだ」
「恩人ですから」
そうだ。この人はわたしを救ってくれた。フェンスから引き剥がしてくれた。神林を殺していなくても、彼女が救世主であることには変わりない。だからもう嘘なんて吐いて欲しくなかった。
千摘さんの唇がふっと笑みを形づくった。これで救えると本気で思った。
「……半分くらいは正解、かな」
だから、その言葉は衝撃だった。
「さっちゃんは凄いね。小学生でここまで考えられる子はなかなかいないよ。それに、結構説得力があったし。いやあスーツは盲点だったなあ」
楽しそうに笑って、
「でも、ちょっと人の善性に期待しすぎだよ。この期に及んで私が無罪なんてことは有り得ない。どれも私の起こした事件だ。初めて会ったとき言ったよね? 私は善人じゃないって」
喉が引き攣るのを感じた。
「じゃあ、千摘さんは……」
「そうだよ。この犯罪の大部分はわたしの意志だ。実行役が私にしろ、そうでないにしろね。主導権を誰かに取られるのって好きじゃないんだ」
「どうして……」
「前に言ったでしょ。不幸な子どもを増やさないためって。さっちゃんを救うのだって同じだよ。そのためなら、称号も汚名も、全て甘んじて受け入れる」
「そんな……」
膝から力が抜けた。倒れそうなったところを、千摘さんが支えてくれる。彼女のスーツからは、確かに煙草の匂いに交じって、消臭剤がかおった。果物のような甘い匂いがするのは、香水を振っているからだろうか。
「善人じゃなくてごめんね。本当はさっちゃんのお友達になってあげられたら良かったんだけど。私はあなたの救世主にしかなれないの。血生臭くて手が汚れた、罪深い救世主。それが私だよ」
千摘さんの声はどこまでも優しかった。
今更のように実感が湧いた。この人は、自らの意志で、わたしの懇願を振り切って、よろこんで井月を殺した。
わたしのたった一人の友人を。
「わたしが……」
気を抜くと泣いてしまいそうだった。
「わたしが、もし、警察に通報するって言ったらどうしますか?」
「それは困るな」
千摘さんは余裕たっぷりに笑った。
「でも、どうだろう。小学生が言うこと、警察が信じると思う? さっちゃんは親から虐待を受けてるし。興味を引きたくて口にした妄言だと思われるのが関の山だよ。嘘つきのレッテルを貼られて終わりだ」
脅すように言ってから、少し機嫌を損ねたのだろう、千摘さんはわたしの腕の痣を強く掴んだ。
「これ、まだ痛いでしょ?」
鈍痛が頭を貫く。わたしは声を殺しながら頷く。
「こういう傷を持つ子を減らすために、わたしはやってるんだ」
さらに力が込もる。
「それなのに警察に行くなんて、ひどいなあ。そんなこと言わないでよ」
「千摘さん……、痛い……!」
絞り出すように言うとすぐに手が離れた。
「ごめんね。痛かったね」
千摘さんはわたしの腕を優しくさすった。井月や神林にも同じような気持ちを抱いているのかもしれない。そう思うと恐ろしかった。
「これで残ったのは、お母さんとお姉ちゃんだけだね」
救世主は慈しむような目で笑った。
確かに、あとはその二人だけだ。神林も井月もその取り巻きも正義先生も、それぞれ程度は違えど決して生涯消えることがないだろう傷が残った。私の周りから消えていった。
でもこれで世界が優しくなったとは言いたくなかった。
それとも完遂されればわたしは幸せになれるのだろうか。
「どう? お母さんもお姉ちゃんも相変わらず?」
母が不在がちなこと、姉が最近夜に家を空けることは既に話してあった。
「二人とも、わたしに何か隠しているんです」
「そっか」
千摘さんは鷹揚に頷き、
「じゃあ、もう妊婦の調査は良いからさ、ふたりがなにを隠しているか、探ってきてほしいな。それが終わったら、いよいよ、さっちゃんを本当に救ってあげられるから。それまで、もう少しだけ我慢して欲しい」
わたしはもうなにも言わず廃ビルを出た。
帰る道すがら、昨日会った若い警察官とまたすれ違った。なぜ学区外を歩いているのか聞かれた。助けを求めることも考えたが、口は勝手に無難な答えを言っていた。
なぜ庇うのか、簡単なことだった。
家で身支度をしていた母は、わたしを見るなり何も言わず殴りかかってきた。表情の抜け落ちた顔からはまるで生気が感じられないのに、ふるわれる拳は力強かった。
わたしは自分の頭と腹を庇いながら身を縮み込ませた。
この地獄から救ってくれるなら、それが悪魔だろうと死神だろうと構わなかった。
心の中で千摘さんを呼ぶ。当然助けはこない。
でも、近いうちきっと。
この期待こそわたしが千摘さんを庇う理由だった。
殴られながらふと、全体的に母の肉付きが良くなっていることに気がついた。やがて母は時計を見ると、家を出て行った。持っている鞄や履いている靴が、以前よりも上等なものに見えたのは気のせいだろうか。
わたしは一人取り残された部屋で、血塗られた救いの手を夢想しつづけた。
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