第七章 僕がシャーロック・ホームズで

第26話 ワトソンは完璧な相棒

「あれ、なんでっ……なんでだよっ!?」


 意識が戻って最初に聞いたのはそんな情けない絶叫だった。

 爆弾入り木箱の上でぎくしゃくと瞼を押しあげると、赤毛の男がちゃんと服を着て暴れ回っている。


 当然ながら首もちゃんと繋がっているし、胸に真一文字の切開跡もない。

 元気よく、作動しない起爆装置に向かって叫んでいた。


 周囲を見れば無傷の温室と一面の芝生が見える。

 昼間でも薄暗いブルーグレーの空には背の高いチャリング・クロス駅の駅舎が顔をのぞかせていた。

 自分がへたり込んでいる側には石造りの外壁があり、ニックの向こうでは白磁のマリア像が粉々に砕けていた。


 戻った……。

 こんな状況でほっとしている自分が嫌になって奥歯を噛みしめたとき、


「スコットランドヤードだ! 動くなあ――っ!」


 という声が僕の真横から響き、しばらくして舌打ちも聞こえた。

 目線を向ければレストレード警部が立ちあがりこちらに近づいてくる。


「どうして」


 未だ脳内で鳴り続けるその四文字が口をついて出ると、


「あ? 導火線をはさみで切ったんだよ」


 と何かを勘違いしているレストレード警部がいつぞやと同じ説明を繰り返す。


 訊いてもいないのに「そこの食えねえ男が新聞配達のガキを使って」という口上も始まり、ぎくりと肩が飛び上がった。

 そのせいで身体を支えていた手が爆弾入り木箱の上で滑り「わっ」という短い声をあげて潰れた蛙みたいに突っ伏した。


 木箱の上で脱力していると、視界にぬっと手が伸びてきた。

 細く華奢な指先だけで誰が手を差し出してきたかは一目瞭然で、顔をあげかねて瞬きを一つする。


 目を開けた瞬間、その手を覆うどろっ……とした赤黒い血液が飛び込んできて「わっ」と二度目の声をあげた。

 ぺたんと尻もちをつき、目をこする。

 再び目を開けたときには白く綺麗な手に戻っていた。


「大丈夫ですか、名探偵」


 呑気な口調が頭上から降ってきて「だい、じょ、ぶ」とぶつ切りに答える。

 それが精一杯で、ワトソンの顔を見ることができない。


 改めて見た手は綺麗すぎてマネキンのように無機質で、解剖室での眼差しがどうしても脳裏によぎった。

 そう思ったら吐き気がこみあげてきて手を掴むことができず、無視して自力で立ちあがる。


 ワトソンは一瞬うろんげに視線を投げてきたが、そのことに関しては何も言わず、ただ、


「帰りましょう、ベイカーストリートへ」


 と短く言った。


 たぶん、その顔は笑っていた。

 見られなかったけれど。








 だいぶ見慣れてきた探偵事務所に着くなり、自室へ籠城を決め込んだ。

 ドアの向こうからワトソンのくぐもった声が聞こえてきたが、それが言語としてどうしても頭に入ってこない。


 声音からして心配しているのだろうということはわかるのだが、言葉として認識できない。

 結果曖昧な返答だけをしてぴしゃりとドアを閉め切った。


 ずるりと背中でドアをこすってへたり込む。

 膝を抱えて俯いていると、隣室から人の気配が消えてほっとした。


 体育座りした膝に顔を埋めてみると、視覚がなくなって少しだけ気が休まる心地がした。

 半開きの窓越しに雑踏のごみごみした音が響く。


 呼売の声は今日もやかましいし、馬は甲高く嘶いて馬車の振動が足もとを伝わる。  

 街行く人の声音はスモッグまみれの薄暗い街には似つかわしくないくらいはつらつとしていた。


 産業革命のたまものか、この街の人たちは蒸気機関並みに熱気溢れていて、明日を渇望して生きている。

 同じ時間に取り残されているのは自分くらいのもので、このまま霧が飲み込んでその中に隠してくれたらいいのに。


 ワトソンは……完璧な相棒だった。

 想像していたものとはかけ離れていたけれど。


 意地悪で、僕を揶揄って遊ぶ嫌な奴で、ときどきすごく子供っぽくって、すぐに不機嫌になる。

 しかしここぞというときは信じられないくらい有能なやつで。

 だめなところを差し引いてみても、十分、完璧な相棒だった。


 間違っても、金に目がくらんで裏切るような人間ではない。

 それが………………どうして。


 もう何度したかわからない自問自答を繰り返したとき、ふと、僕は死んだって死ねないのだと唐突に理解した。


 今までもわかっているつもりだったけれど、それをどこか好意的に捉えている自分がいた。

 しかしもう、そうは思えない。


 と、ふいにこんなことを思い出した。


 四度目のときのことなのでワトソンはもはや知るよしもないのだが、空腹も忘れてチャリング・クロス教会へ向かい犯人逮捕をしたあとのことだ。

 事務所に戻るなり空腹に見舞われた僕に、ジャムがヘドロのように沈殿した紅茶を差し出してきた。

 匂いからしてむせ返る甘さなのに「全部飲み干してください。約束しましたよね」なんて笑顔で言う。


 あれはきっと、思考停止で爆弾に突っ込んでいった僕を責め立てるために、糖分ごり押しメニューを用意したのだろう。

 「脳の栄養が足りないからあんな脳筋なことをするんです」って余計な一言を言いながら、追加のジャムを紅茶に落とし込んでいたもの。


 ……ってなんで今こんなことを思い出すのか。


 もう僕しか覚えていない日常が辛かった。

 しかも、裏切られることを知った今では、どうあがいても手に入らない日常だった。


 このときのワトソンは、どっちだったのだろう。

 もうすでに、僕のことを殺そうと決意していたのだろうか――


 それからしばらくの間、茫然と天井の染みを見つめていた。


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