第二章 名探偵、始動?

第7話 ロンドンは今、空前の〝心中〟ブーム

 仕事それ自体、すなわち自分の特殊な能力を発揮する場を得る喜びこそが、最高の報酬だ。


 シャーロック・ホームズが『四つの署名』の中で言う台詞であり、世間の労働者に大きな衝撃を与えた言葉だが、僕の場合はつまり、死ななければその〝能力を発揮する場を得る喜び〟すら手に入らないと言うことなのだろうか――。


 と、髪の先からぽたぽたと滴る水滴を目で追いながら漠然と思った。


「帰ってください!」


 中年女性が金切り声をあげ、招かれざる客を(すなわち僕を)玄関から追い出そうと力任せに押してくる。


 数秒前にはコップ一杯の水をぶっかけられたのでびしゃびしゃなのだが、それすら構わずに肩を入れたタックルで押し出すので、女性の服の袖もどんどんと湿っていく。


「あのっ……、少しだけでもお話を」

「お話しできることなんてありません!」

「ちょ、待――ぶっ」


 眼前で勢いよくドアが閉められ、もともとそこまで高くない鼻が押しつぶされた。

 静まりかえった集合住宅の廊下には、ばぁんというドアの打ちつけられた音が木霊して反響している。


「あーあ。レディにああいう物言いはだめですよ」


 いつの間にか逃げていたワトソンが廊下の角からひょっこりと顔を出した。


「ならやってみたらどうだっ」

「そういうのは探偵の仕事ですからね。ホームズにお譲りします」


 殊勝なことを言っているようで実際はただの厄介事の押しつけだ。


 ワトソンは首にかけていたストールを外して僕の頭をすっぽりと覆うと、まるで犬でも拭くようにぐしゃぐしゃと拭い始めた。

 振り払う気力も残っていないのでされるがまま歩き出す。


 きんきんに冷えた十二月の冷気が髪の毛を鋭利な氷柱に変えようとしていて、そのうち凍死するんじゃないかと思えてきた。

 そうなったらワトソンにぶっさして一矢報いてから死んでやる。


「それにしても、今ので二十一件目ですね。被害者遺族に断られるの」

「ああ。これで新聞記事になった被害者は全てあたっちゃったな……」


 手帳に二十一個目のバツ印を刻むと、さすがにため息をついて項垂れた。


 僕たちはストランドという名の通りを東に抜け、シティエリアに建つ共同住宅街に来ていた。


 このあたりは新聞社や出版社が軒を連ねることで有名なのだが、一歩細道に入れば安ホテルがこれでもかというほど建ち並んでいる。

 夜には春を売る女たちまで闊歩するという、お世辞にも治安がいいとは言えない通りだ。


 何故こんなことを知っているかと言えば、前述したストランドという通りは雑誌の名前にもなっており、初めて『シャーロック・ホームズ』が掲載されたことで有名だからだ。


 そして何故こんなところで水浸しになっているかと言えば、ワトソンから「捜査の手始めにまずは聞き込みをしてみませんか」と提案されたからだ。


「ホームズがいけないと思いますよ。だって〝娘さんは高級娼婦デミモンドだったと聞きましたが心中相手は上流階級でしたか〟なんて聞くから」


「じゃあなんて聞けばいいんだよ。迂遠に聞いて相手を言うと思うか?」

「まあ話さないでしょうけど」


 現在、手がかりらしい手がかりもなく、あるのは二十一件の新聞記事のみ。

 ありがたいといっていいものか、この時代には個人情報保護というものがないらしく、記事には被害者の身元がはっきりと書かれていた。


 軽く調べた限りでは被害者どうしに接点はないものの、いずれも労働者階級ということは一致している。

 おかげで会うのに苦労はなかったが親族のガードが予想以上に堅く、こうして追い返されるのが二十一件連続で続いている。


「そもそもどこの馬の骨とも知れない男と」


 〝馬〟という単語のせいで思わず一瞬、死んだときの激痛と真っ赤な血飛沫がフラッシュバックした。


(うわっ……)


 ストールを思いっきり引っ張って視界を覆い、目の前の映像を掻き消して、


「心中したなんて、恥ずかしくって言えないですよ」

「そういうものか……」


 なんとか相槌を打つと、気を紛らわすために改めて新聞記事に視線を落とした。


「というか、どうしてこの新聞には被害女性の事しか書いてないんだ? 心中っていうからには男もいるはずなんだけど」

「さあ。記事として映えないからじゃないですか? 男の事を書いたって面白くもなんともないですからね」

「偏向報道……」


 呆れ返ったおかげで気分はすっかり戻っていた。


 記事には二十一件の心中の概要と、が書かれている。


 男性については死体で見つかったという情報だけで、その容姿も状態も(まあ死体がどうなっているかなんて知りたくもないが)書かれていない。


 一方の女性に関しては〝心中相手以外に婚約中の男性がいた〟とか〝高級娼婦をしていて痴情のもつれもよくあった〟というゴシップや、〝頭が割れて中身が飛び出していた〟などというありがたくもない情報が書き連ねてある。


 この頃のロンドンでは犯罪がエンタメ化しており、おどろおどろしい殺人事件の記事は庶民にとって格好の暇つぶしだった。

 記事を読み漁っては殺人現場に押し寄せて、幽霊や血飛沫を探して盛りあがる。

 そんな野次馬の欲求を満たすために新聞も過激になっていったのは事実だが、だからといって女性にしかスポットを当てないのは如何なものか。

 単純にこちらが困る。


「あーくそ。手がかりなしかあっ」

「あ、ひとついい考えを思いつきましたよ」

「えっ!?」


 身をよじって振り返ったせいでストールが首に巻きついて危うく窒息死しそうになった。


「この計画が上手くいけば、事件の糸口をつかめるかも知れませんねぇ」


 という声にはどこか毒っ気が含まれている気がしたが、聞き込みも失敗に終わった今、背に腹は代えられない。


「教えてくれ!」

「た・だ・し」


 詰め寄る僕の鼻をワトソンの人差し指がふにっと押した。

 やめてくれ、先ほどドアに潰されたばかりなんだぞ。


「何が起こっても、文句は言いっこなし。それを約束してくれるんだったら、僕のとっておきを教えますよ」


 文句は言いっこなし?

 嫌な予感しかしない。

 しかし、現状何も手掛かりがないのも事実だ。


 このまま八方ふさがりで終わるくらいなら――


 僕はワトソンの申し出を受けた。

 心なしか、その眼光の奥が怪しく光った気がした。

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