第8話 心中クラブ

 パチパチと暖炉の燃える音が響く空間は照明が極力減らされていて、うすぼんやりとしたまどろみに支配されていた。


 豪華絢爛な調度品がろうそくの明かりに照らされてまるで夢の中にいるようだ。


 周囲では昼間にもかかわらず背中の大きくあいたイブニングドレスの女性が恍惚とした表情を浮かべ、フォーマルスーツの男性にしなだれかかている。


 寒さのせいか換気をするつもりはないらしく、もわっとした熱気と二酸化炭素のけぶたい空気、吐き気を催すほどの甘ったるい香り(頭から香水でも被ったのか)が充満していて息が詰まった。


 僕は一人肘掛け椅子に腰掛け、ホームズが思考するときにいつもそうするように、足を前へと投げ出して両手の指を合わせ、


「なあ、ワトソン」


 げんなりした顔で天井を見あげる。


「なんです、ホームズ」


 紅茶を優雅にすすり、ワトソンが答えた。


「ここは……どこだ?」

「どこってクラブハウスですよ。ホームズはクラブに入っていないんですか?」


 そう、ここは十九世紀に盛んになったクラブハウス。


 娯楽の少ないこの時代では、共通の趣味を持つ人たちが寄り集まって、こうした会合を開いていた。

 基本的には上流階級の集まりで、このように専用の施設を持っているクラブも少なくないらしい。


「……」


 自分の姿を見下ろした。

 よれたグレーのスーツは先ほどずぶぬれになったせいでさらにみすぼらしさを増していて、遠目に見ればドブネズミに似ている気がする。


 向かいに座るワトソンはチャコールグレーのスリーピーススーツを着ていて、懐中時計につながった金の鎖を手慰みに指で弾いている。


 それがスタンダードな装いであり、浮いているのは僕のほうだ。


 気づいた途端に居心地が悪くなり、肘掛椅子の上で膝を抱えて丸くなると、両の指を合わせて俯いた。

 うん、僕にはこっちの方がしっくりくる。


 そもそも、と僕は独りごちる。


 人は話すことでストレス発散になるというけれど、それしか娯楽のない環境では会話だけで恍惚となるものなのか? 


 いや、もしかすると……現実と向き合うために顔をあげた。

 恍惚とした気分にさせているのは、隣にいるこの男なのかもしれない。


「私はワトソンさんみたいな人と一緒に逝きたいのよぉ、おねがぁい」


 色っぽいドレスを着た妙齢の女性が、頬を紅潮させて身をくねらせる。

 さらりと物騒な言葉が飛び出したが、周囲にいる人はもちろん、ワトソンの表情も笑顔のままで。


「それは光栄ですね。僕もあなたとともに〝天国〟へ行けるなら本望ですよ」


 とかなんとかキザったらしい台詞を吐いたかと思うと、女性の手を取ってその甲にキスをした(こんなことを現実でする奴が本当にいるなんて!)。


「きゃああっ……」


 との絶叫はもちろんネガティブなものではなくて、文末にハートマークが百個は連なりそうな黄色い嬌声だ。


「まあ、気絶してしまったわ! 誰か、お医者様を!」

「〝心中クラブ〟に来てくれる医者なんかいるもんか!」

「あ、僕は医学生ですよ」


 ワトソンが手を挙げる。


「お医者様……素敵っ……」

「おい、こっちでも被害者が!!」

「その男をつまみ出せ!!」


 ……僕はいったい全体、何を見せられているのだろう。


 抗議するつもりで膝小僧から顔をあげると、女性の手首を掴んで脈を測っていたワトソンと目が合った。

 途端に不敵な笑みを浮かべ、その手を持ちあげるとすがるように頬ずりをする。


 正気を取り戻しかけていた女性は再びノックダウン。

 スリーカウント。


 ……別に負けたなんて思わないぞ僕は。


 表向きは読書クラブと銘打っているこのクラブだが、その実情は心中したい男女が寄り集まって理想のお相手を見つけるためのクラブらしい。


 通称〝心中お見合い〟と彼らが勝手に呼んでいる、イケナイ大人の社交場だ。


 なぜこんな場所に来たかと言えば、数十分前にさかのぼる。


 ***


「心中お見合い? そんなものがあるのか」


 人と馬車でごった返したピカデリーサーカスをメイフェアに向けて進む。

 ここはロンドンでも最も往来が頻繁な道の一つで、隣にいるワトソンに話しかけるだけでも声を張りあげなければ届かない。


「閑かに」


 向かいから走ってきた辻馬車を避けるついでにあえて人混みの中へ割って入り、忙しなく周囲へ目を走らせる。


「誰かに聞かれたら困ります」


 という顔は珍しく真剣そのものだ。


「あっと、悪い」


 確かにいくら喧騒のど真ん中であっても大声でしていい話ではなかった。

 ちょいちょいと手招きをするワトソンに従って顔を寄せる。


「心中お見合いは月に一度、読書クラブという名目で開催されているんです。ここで理想の心中相手を探し出し、いい仲になると事に及ぶんだとか」


「それはまた見過ごせないイベントだな。逃せば心中を待たないといけない」


 皮肉まじりに嘲るが、ワトソンは至極真面目な顔を崩さない。

 え、マジでいってんの?


 僕の知る限りクラブというのは共通の趣味を持つ人間がコーヒーハウスや専用のクラブハウスに集まって楽しむ集会のはずだが、まさか共通の趣味が〝心中〟だなんていう人がロンドンにはたくさんいるというのか。

 しかも月に一度の頻度で相手を探して死んでるだって?


「それ本当なのか?」

「ほら、ここを見て下さい」


 ワトソンがコートの内ポケットから新聞の切り抜きを取り出した。


「読書クラブのお知らせ記事に月に一度だけ、暗号で心中クラブの開催日が記されています」

「これが、暗号……?」


 〝読書愛好家の紳士諸君へ〟から始まる記事は学級新聞並みに内容のない活動報告がつらつらと記載されているだけで、どうみてもそんな怪しげな会のお知らせには見えなかった。


「詳しく説明している時間はないので省きますけど、これには確かに、今日メイフェア地区のクラブハウスで心中お見合いが開催されると書いてあります」

「……つまりそこに行けば?」

「これから心中しようって人たちの集まりですからね。最近話題の〝連続心中事件〟なんて格好の話題でしょう。詳しい人間がいるかもしれません」

「それだ!」


 とは言ったものの半ばやけくそである。


「目的地はもうすぐです。急ぎましょう、ホームズ」

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