第9話 レストレード警部補

 ***


 ……という経緯でこのクラブハウスに来たはいいものの。


 大人しくしていれば大変見た目のいいワトソンは参加するなり女性客を虜にし、お得意の口八丁手八丁で会場中を意のままに操った。

 まさに孫悟空を手のひらで転がす釈迦如来だ。


「それでみなさんにお伺いしたいことがあるんですけど……」

「なあに? お姉さんたちで良かったらなんでも聞いて」

「最近話題の〝連続心中事件〟について何か知らないかなぁと思いまして」

「ああ、〝本物〟のほうね」


 本物、という言い方に何となく違和感を覚えたが、ワトソンと女性たちの間に生じている言い知れぬ雰囲気に口を挟む勇気がもてなかった。


 ワトソンはソファの真ん中に据えられていて、その両脇を複数の女性が囲っている。

 僕はそんな姿を、ソファの向かい側で膝を抱えて見つめていた。


「そうねぇ……一件目の事件は身投げだったそうよ。目撃者の話では男が女性を抱きかかえるようにしてロンドン橋から飛び降りたって。男の髪は目の覚めるような赤毛で、夜明けの空と同化して息を呑む美しさだったと聞いたわ」


 空気に徹してメモを取る。

 ロンドン橋に赤毛ね。

 大した情報じゃなさそうだけど。


「私は二件目のエピソードが好きよ」


 今度は別の女性が口を開いた。


「リージェント・パークでの服毒自殺のやつ! 二人は手を取り合って噴水のほとりで死んでいたって。その男の人がまた素敵でね。彼の赤毛が朝日を反射して、得も言われぬ美しさだったそうよ」


 今度はリージェント・パークでの毒殺ときた。

 心中方法に共通点はないけ、れ、ど。

 はっとしてメモ帳から顔をあげた。

 また赤毛の男だ。


「若い子はダメねぇ」


 と恰幅のいい中年女性が割って入る。


「真に尊いのは三件目でしょう?」

「……といいますと?」


「三件目の男は、ジゴロの中のジゴロって言われているのよ。未亡人となった伯爵夫人の家に住み込んでヒモ生活活していたんだけど、その男がある日言ったんですって。『僕を真に愛しているのなら、君の最も大切なものをください』って」


「最も大切な物ってなんだ? 土地の権利書とか、資産とか?」


 つい独り言を呟くと、ワトソンと向かい合っていた女性がこちらを向いた。

 ソーセージのように丸々とした指で細長いパイプを挟んでいる。

 彼女は品定めするように僕を見たあと勢いよく煙を吹きかけた。


「うわっ」


 甘ったるい香りに思わずむせ込む。


「これだから恋愛経験のないお子ちゃまはダメなのよねぇ」

「な……っ!?」


 煙を払いのけていた手が止まって、もう一度真正面から吸い込んだ。

 けほけほと咳き込みながらも半眼を切る。

 確かにないけどそれとこれに何の因果関係がっ。


「ワトソンさんはおわかりになって?」

「…………命、でしょうか?」

「その通りよ」


 女性の肉厚な手がワトソンの頬へと伸びて耳先からくすぐるように撫でまわす。

 当人は笑顔を崩さなかったが見ているこっちが吐きそうだったし、あとで八つ当たりされないかひやひやした。

 ワトソンがあれを本心から受け入れるとは思えない。


「そうして二人は入水自殺をしたってわけ。水面に浮かぶ伯爵夫人とその男はオフィーリアとイフリートのようだったそうよ」


「オフィーリアというのは戯曲ハムレットの中で溺れて死んでしまった美しい女性のことですね。対するイフリートは炎の精霊……もしかして、その男性も赤毛だったのでは?」


 ワトソンが問うと、女性はそこではじめて気づいたというようにきょとんとして。


「ああ、言われてみればそうね」

「へ……?」


 肘掛椅子の座面から両足がずり落ちて前のめりに落っこちた。


「三件とも、男は赤毛だっていうんですか!?」

「たまたまでしょ。英国人には赤毛が多いから」


たまたま? そんな馬鹿な。


「なあ! その三件の心中で死んだ男の名前をしらないか?」


 一時いつときこの無礼な青年はなんだという目で見降ろしていたが、「なあ!」と追随すると諦めたようなため息をついた。


「ニコラス……夫人はニックと呼んでいたわ」


 と、それを聞いた残りの二人はびっくりした顔をして、


「一件目もニックよ」

「あら、二件目もニックだと聞いたわ」


 と口々に続く。


 全身に鳥肌が広がった。

 唾を飲み込んで、乾いた唇を押し開く。


「ちょっと待ってくれ。そんなのおかしいだろう?」


 誰にともなく問いかける。


「三件の心中すべてで、相手の名前がニックだって言うのかよ」


 自分で言ったくせにあまりにも現実味がなくて笑うのを必死にこらえると口の端がつりそうだった。

 だからすぐに否定の言葉が聞けると思っていた。

 なのに、


「あら、そういえば四件目もニックだったような」

「うそぉ、五件目もニックよ」


 という声が次々にあがり、僕は思わずペンを落とした。


 ここで話を聞けただったのだ。


 つまり、心中事件の半分以上が同じ名前の人間によって起こされたということになる。


「嘘、だろ? その話が本当なら、ニックは十二回も死んでいることになるじゃないか!」

「名前と赤毛が一致したからと言って同一人物とは限りませんが……確かに奇妙ですね」


 奇妙なんてレベルの話ではない。

 呼吸が苦しくなってきて、襟ぐりに指を突っ込むと乱暴にこじ開けた。

 こうなると残りの九件だって怪しくなってくる。


「あのう」


 一人の女性が恐る恐る手をあげた。


「実は私、見たんです」

「見た? 何を?」

「ニックが、蘇るのを……」


 えっ。


 声も出せずに硬直した。

 蘇りというのはつまり死んだ人間が生き返るということで、確かにそれなら全ての心中事件でニックが関わっていてもおかしくはない。


 しかしおかしくないというのは矛盾がないという意味であって、あり得るかどうかで言えば限りなくゼロに近いわけで……。


 いや、なんであり得ないと思うんだ。

 僕だって一種の蘇りじゃないか。


 がちゃん、


 と乱暴な音を立ててワトソンがティーカップをソーサーに置いた。

 というより、手が滑った?


 それまで聞こえていた会話が急に途切れて周囲の視線がワトソンに集まり、僕の思考も完全に飛んだ。


 動揺?

 あのワトソンが?

 まさかあ……。


 なんてことを考えているうちに、それを肯定するような笑みをワトソンが浮かべて、周囲の視線に応えることなく女性をまっすぐに見つめたので、次第にワトソンへ集まった視線も同じように女性へと流れた。


「あ、いえ! 死体が動き出したとかではないんですけど!」


 期せずして会場中の視線を集めてしまった女性は顔を真っ赤にして否定しつつも〝蘇り〟を目撃した日について話し始める。


「私も三件目の話を聞いてからすっかりファンになってしまって、共同墓地にある彼のお墓に花を添えに行ったんです」


「身元不明だから、共同墓地に埋葬されたんですね」


「ええ。私の兄がそこの管理人で、たまたまニックの埋葬にも立ち会ったので場所を知っていたんです。でも一応心中された方でしょう? 昼に行って色々噂されるのも嫌なので夜に出かけていったところ……」


「ところ?」


 息を呑んで訊くと女性のほうも息を呑んで、


「ちょうど墓地から出てくる赤毛の方を見かけたんです」


 と声を潜めた。


「赤毛……!」


「そのときはなんとも思わなかったんですけど、お墓の前に行ったら土が掘り返されたような跡があって、それで……」


「ニックが墓から出てきたのではと思ったんですね?」


 ワトソンの問いに、


「はい……って何言ってるんでしょうね、私」


 女性が恥ずかしそうに頬を赤らめる。


「バカねぇ」


 と、中年女性がいきなり大声をあげて笑い出した。

 もくもくと煙の吹き出すパイプの先を女性に向かって突きつけて、


「さすがに生き返るわけないじゃない。神の子でもあるまいし」

「そうですよね、何考えてたのかしら」

「ちなみに私はニックが藩王国の王子って聞いたわよ?」


 ちょうど側を通りかかった人が何気なく会話に入ってきた。


「王様が赤毛だから何十人といる異母兄弟もみんな赤毛で、王位継承順位の低い王子たちは腹いせに心中しているとか」


「兄弟かぁ。そっちのほうがまだ納得できるかも」

「えーインド人で赤毛なんてそれこそ嘘よぉ」


 女性達はくすくす笑っていたが、僕からすれば百歩譲ってインド人の赤毛は認められても二十一人の異母兄弟というのは蘇りと同じくらい信じられない話だ。

 さすが非科学オカルトの国。


「まあ、難しい話はこれくらいにして……あなたも吸ってみる? 頭が冴えること請け合いよ」


 ふいに中年女性がパイプを差し出した。

 筒状部分はやけに太く、煙の噴出口付近に小箱がついている。

 そこで煙草の葉を燃やしているらしい。


 周囲に漂っていた甘い香りはどうやらこの煙草から発せられているらしく、目の前に突き出されたことで肺の空気が煙で置換された。

 全身から力が抜けるような重だるい、けれども幸福感のある甘さ。

 熱々のホットケーキにシロップとバターを落とした時みたいな。


(ホームズも思考中はよくパイプを燻らせていたっけ)


 ということは頭が冴えるというのもあながち嘘ではないのかも。

 行き詰まってもいたし、なにより好奇心がむくむくと芽生え、自然とキセルに手が伸びて。


「いやいやいや、ちょっと待って僕、未成年でっ……」


 すんでの所で思いとどまるも中年女性は不敵に笑い。


「大丈夫よ。これに年齢制限なんかないわ。そもそもね」


 などと言いながらキセルを押しつけてくる。言葉尻が気になったものの、ホームズも吸っていた煙草への興味のほうが若干勝り、


「じゃあちょっとだけ……」


 掴もうとした矢先、キセルが綺麗さっぱり消え失せた。

 行き場を失った指先を眺めてからなんとなく嫌な予感がして視線をあげると、ワトソンが奪い取ったキセルを指揮棒のように振って作り物のように完璧な顔で笑っている。


 ぷつん。

 何かの糸が弾けた。


「ちょ、なんでいつも邪魔ばかりっ……」


 我慢の限界だった。


 いつもそうやって余裕綽々に笑って、なんでも見透かしているような顔をして、そのくせ無機質な目はただ僕を写しているだけで視てはいなくて、だったらほっといてくれればいいのにこっちが何かをするときだけ自分勝手に邪魔をして!


 一発殴ってやろう。

 拳をきつく握りしめ、飛びかかったときだった。


ロンドン警視庁スコツトランド・ヤードだ!」


 突如、複数の男たちがクラブハウスに乗り込んで来た。

 揃いの黒い詰め襟を着ていて、頭にはどんぐりのような丸っこいフォルムのヘルメットを被っている。

 ホームズに「もし牛の群れが通ってもこれほどめちゃくちゃにはできない」と言わしめたロンドン市警察の巡査たちだ。


「警察!?」

「どうしてばれたの!?」


 蜘蛛の子を散らすように、それまで談笑していた人々が駆けだした……のだが、何かがおかしい。


 とある貴婦人は壁を叩き「なんでこのドア開かないのよ!」と叫び、とある紳士は肖像画に向かって「僕は無実なんですよ、信じて下さい!」と捲したてている。


 「もう終わりだわ!」と何故か嬉しそうに叫んだ女性は箒とダンスを踊り始めるし、中年女性は部屋中のクッションをかき集めると暖炉に投げ入れ始めた。


 慌てた巡査がそれを取り押さえたときだった。


「レストレード警部補」


 暴れる女性を押さえつけながら入り口のほうへ声をかけた。

 記憶の底がざわつくような単語に反応して巡査の肩越しに見ると、一人の男が手で扇ぎながら入ってくるところだった。


「なんだここ、メープル・ファッジの鍋の中かっ」


 舌打ち交じりに言う男はよれたスーツを着た四十歳前後の背が高い男で、パニックを起こしている参加者へ辟易とした視線を送っている。


 今、確かにレストレード警部って……。


「レストレード警部、会いたかった!」


 気づけば駆けだしていた。

 ホームズにとってワトソンの次に相棒と言っていい存在だ。


 警察ならば心中事件の死体検分もしているだろうし、警部ならきっと捜査に協力してくれる。


 ようやく光明が差した気がした。

 握手を求めて駆け寄ると、こちらに気づいた警部が向き直るなり渋面を浮かべ、


「はい、逮捕」


 差し出した右手に手錠が掛けられた。


「…………え?」

「十四時四十二分、違法薬物不正使用の現行犯で逮捕な」

「いや、待って下さいそんなはずは!」

「ぷ」


 身に覚えのある声に振り向くと、ワトソンが肩を小刻みにふるわせて身体をくの字に折っている。


 嫌な予感しかしない。

 説明を求めるように睨みつけると、ワトソンは息苦しそうに喘ぎながら「ここ、実はアヘン窟なんですよ」と白状した。


「アヘン窟!? 心中クラブじゃないのか!?」

「はあ? あんた頭がおかしいんじゃないのか。そんなクラブがあるわけねぇだろ」


 突き刺すような警部の言葉で現実を理解した。

 またワトソンにはめられたのだ。


「心中って言うのはアヘンでトリップすることの隠語なんですよ」


 目尻に浮いた涙を指で払いながらワトソンが近づいてくる。


「時折ホームズのように勘違いして参加する人がいるらしいので、何か情報がないかなぁと足を運んだんです」

「なら初めからそう言えよ!」

「そもそもクラブは女人禁制ですよ。その時点で気づくかなと」


 気づくか馬鹿。

 やはり一発殴ってやろうと右手を握るが、じゃらんという金属質の鈍い音がしてあえなく撃沈。

 手錠をかけられているんだった。


「あの、レストレード警部! 僕は探偵で、調査依頼のために潜入していただけなんです!」

「みんなそういう。見てみろあそこ」


 忌ま忌ましそうに指差した先では「私は女王陛下なのよ、無礼ではなくって!?」と抵抗している女性がいる。

 完全にアヘンの幻覚症状でおかしくなっている。


「僕はああいうのじゃなくて本物なんですよ!」

「みんなそういう」

「妄想じゃなくて」

「じゃあ何の事件を担当しているんだか言ってみろ」


 言外に言えるものならな、という意味を乗せて笑う鼻先に、依頼人から渡されたイライザの写真を突きつけた。


「連続心中事件について調べているんです、何か知りませんか!」

「何……?」


 一瞬空気が固まった。

 警部の顔もわずかに強張ったように見えたがすぐにやる気なさそうな欠伸をして。


「あれは兄弟だって噂だ。連続でもなんでもねぇ。とにかく、関与が疑われる以上お前もしょっ引かなきゃならん。そっちのあんちゃんにも手錠を掛けろ」


 おかしい。

 レストレード警部はこんな人間じゃない。

 退屈そうに後頭部をかき、シガレットを咥えてぼーっとしている横顔に違和感を覚えた。


 世間では捜査に行き詰まるとホームズを頼る情けない刑事の印象があるが、実際の人物像は違う。


 レストレード警部は正義感の強い男だ。

 そうでなければ未解決事件をホームズに持ち込んだりはしない。


 悪を逮捕するためならば他人の手を借りる屈辱さえ厭わず、捜査への執念はロンドン警視庁随一で。

 だからこそ名物刑事にまで成り上がった男が、今はその影すら見当たらない。


「あの、レストレード警部。本当に僕とワトソンは」


 潔白で、と言おうとした矢先、


「え?」

「俺は警部補だ。警部じゃねぇ」


 鋭い舌打ちとともにシガレットを砕いた(どうやらチョコレートだったらしい。紛らわしい)。


 もしかして、何らかの原因で出世が出来ずに腐っているのか。

 原因って?


 首を捻った視線の先で巡査がワトソンにも手錠をはめようとした瞬間、


「警察上層部は、本気で兄弟説を信じているんですか。メンデルが発表した『植物雑種に関する実験』という論文はお読みになりました? とても面白い交配実験なんですけどね」


 突然ワトソンが変なことを言い出し、がり、と警部が残りのシガレットを粉々にした。


 と、ふいにワトソンとの会話が蘇った。


『知ってます? この間なんて殺人事件の犯人として、吸血鬼と噂のある瀉血しやけつ好きな内科医が逮捕されていましたよ』


 レストレード警部は科学的手法を重んじる刑事だ。

 〈ノースウッドの建築士〉では指紋を捜査に適用させている。


 もしかすると、そのせいで?


 上層部に居座る年寄り連中はきっと従来の〝身代わりさえいればいい〟論者だろう。

 彼らからの圧力に苦しんで、絶対に兄弟説なんて嘘だと思いながらも十分に捜査できていないとしたら。


「僕が絶対に謎を解き明かして見せます」

「あ?」


「連続心中事件の犯人は断じて兄弟なんかじゃない。その謎を絶対に解き明かして見せますから、だから協力して下さい!」


 レストレード警部が本物の刑事である可能性に賭けてみようと思った。


「……それはお前を、今ここで、見逃せって事か? しかも捜査情報を流せと?」

「そうです。十二件の被害者はニックという赤毛の男だと聞きました。残りの九件についても情報が欲しい」


「それで俺にメリットは」

「真相がわかる。身代わりではない、本当の犯人が」

「お前……」


 胸ポケットからシガレットケースを取り出して、真新しいチョコレートを一本咥え、


「警察、おちょくってんのか」


 がり、

 一口で粉々に砕き、ばらばらと残骸が床に散った。


 泥で汚れた革底で踏みにじりながら、獰猛な顔で至近距離から覗き込んでくる相手の目を見つめ返した。


 朽葉色に濁った瞳には何も映っていない。

 ぞっとするほど冷たく冥い目をしていた。

 言葉が出ない。


「第一、アヘン窟で情報収集したあげく、成果も得られずパクられる〝自称探偵〟のどこを信じろってんだよ」


 ふいにどす黒い雰囲気がかき消えて、レストレード警部が(僕は何が何でも〝警部〟と呼ぶ)嘲るように身を引いた。


「それは……」


「警部補、どうやらブツはクッションに隠していたらしく、あの女が焼いてしまいました」


 と、巡査の一人が割って入った。

 途端にレストレード警部は頭をぐしゃぐしゃに掻きむしり、


「だあーくそっ! ブツがなけりゃ検挙できねぇだろ! 死ぬ気で探せこの間抜け!」


 巡査の尻を蹴りあげ発破をかける。


「見ろ、俺は忙しいんだ。現行犯逮捕すら満足にできねぇできの悪い部下のせいでな! このヤマをテメェが解決してくれるってんなら話は別だが」


 さも小馬鹿にしたような物言いでしっしと手を払いのけ、連行するように促してくる。

 万事休すとはこのことかっ。


「解決すればいいのでしょう?」

「あ、ちょっと!」


 がしゃがしゃと金属のこすれる音を響かせながらワトソンがこちらに歩いてきた。

 手錠に繋がった鎖を巡査が引き寄せるが、ワトソンの腕力(脚力?)のほうが圧倒的に強く大型犬に引きずられる飼い主みたいになっている。


「ほう、できるっていうのか」

「もちろん。初歩的なことですよ、レストレード警部エレメンタリィ・マイ・ディア・インスペクター


 余裕綽々な笑みを浮かべ、これ見よがしにキセルを指揮棒のように振っている。

 あれは女性から(というよりも、女性から受け取ろうとしていた僕から)奪い取ったもの……。


 あれ?

 ということは、もしかして?


「うちの探偵は優秀なので」


 どの口が言う、と睨んでみたが当然のように無視された。


「ホームズがここの異変をいち早く察して、主催者が使用していたキセルを押収しています。これにアヘンが入っていますから、とりあえず所持と使用の罪には問えますね」

「ほう、このガキがねぇ」


 疑いの目を僕に残したままレストレード警部がキセルを受け取り(その視線は正しい)小箱を開けて水に溶けた生アヘンを確認した。

 続いてワトソンがコートの内ポケットから小冊子を取り出して、


「こっちが主催者の女性が管理している裏名簿です。読書クラブ用の表名簿と違って、このアヘン窟に出入りしている人間だけが記載されていますね。会を運営するための〝寄付〟も募ってたようで帳簿に記されています」


 ぱらぱらと捲ると、参加者と思しき名前の横に金額が書いてある。

 一、十、百、千、万……!?


 とんでもない金額に目眩を覚えた。


「この金がどこへ流れたのかも気になるところですが、我々は残念ながら別の依頼を抱えているので、詳細な調査は警察に任せますよ。


 はっとしたレストレード警部がワトソンを見据え「ふん、小賢しい狐だ」と呟きながら帳簿を手のひらに打ちつけた。


 今のやりとりなんだ?

 次期警部?

 出世するのをなんでワトソンが知っている?


 ……いや、違う。

 そうじゃなくて。

 知っているんじゃなくて。


 ぎこちなくワトソンのほうを見るとちょうど向こうも顔をあげたところで目が合うなりにこりと微笑んで。


 ぞくりと背筋が冷たくなった。

 知っているんじゃなくて、作ったんだ。

 出世の機会を。


 君にはいったい、どこまでが見えているんだ。


「嘘よ、どうしてあんたがそれを持ってるの!? 隠しポケットに入れて肌身離さず持っていたのに!!」


 と、連行されかけていた女性がワトソンを批難したいあまりすべてを自供した。

 レストレード警部のアホかコイツという視線に気づいて慌てて口をつぐんだがもう遅い。


「あなたから拝借したんですよ。先ほど三人目のニックについて窺っているときに」


 ああなるほど、と独りごちた。

 あのとき中年女性に大人しく頬を撫でられていたのは、隠しポケットからこの帳簿を掏るためか。


「覚えてらっしゃい!」


 と悪役の定番のような捨て台詞を残して連行された彼女へ、


「聞きました、ホームズ。本当に言う人がいるんですね」


 とワトソンは上機嫌に笑っている。


「で、ここからが本題ですが、その裏名簿に僕たちの名前……ジョン・H・ワトソンとシャーロック・ホームズの名は載っていないはずです。つまり、ここに来たのは初めてで、潜入調査のためだったというわけです。ご理解いただけましたか?」


「あー……」


 レストレード警部が呻くような声をあげながら名簿をめくり、


「確かにねぇな」


 今更だというふうに帳簿を放り投げて部下に渡した。


「もうお前らは行っていい。こっちはこのあとも事後処理がある。屁理屈並べ立ててごねられたらたまんねぇからな」


 あくまでも功績を認めないつもりか憎まれ口を言いながら指示を出すと、巡査が手錠の鍵を開けた。

 ようやく自由になった手首をさすっていると、


「ほら、とっとと出でけ」


 険のある声で背中をどつかれ、前のめりにたたらをふんだ。

 警部が「くそ!」と側にあった椅子を蹴飛ばし、真横に転がった椅子の縁に腰を下ろしてうなだれる。

 「俺だって、自力で」と呟く背中を見ていたら顔をあげてどす黒い眼光で睨まれたので、


「い、いこうワトソン……」

「えっ、いいんですか。もう少し粘って情報を聞き出さなくて」


 空気の読めないワトソンを無理矢理引きずって出口に向かった。


 泣きそうだった。

 おじいちゃんに笑われないよう必死に堪えるが、早くこの場から立ち去りたかった。


 理想の探偵と助手にもなれず、レストレード警部との関係も最悪で、自分が憧れたホームズの世界はここにはなかった。

 なんだか歪みの原因全てが僕がホームズになってしまったせいなのではと思えてくる。

 ワトソンにおんぶに抱っこ。

 一切、活躍できなくて。


「二十一人の被害者はファーストネームがニック、もしくは愛称がニックと言うこと以外身元は不明だ。だが全員共通して、目の覚めるような赤毛をしていた」


 足が止まった。

 振り向いた先では、未だ不安定な横向きの椅子に腰掛けたレストレード警部がシガレットチョコを咥えて床を見つめている。

 表情が一切変わっていないので幻聴かと思っていると、目の端だけをあげてこちらを睨み「借りはつくらねぇ主義なんだよ」と掠れた声。


 それってつまり、捜査情報――。


「なにいつまで突っ立ってんだよ! さっさと行かねぇと再逮捕するぞ!」

「すみません! ……そしてありがとうございます」


 頭を下げるがレストレード警部はすでに立ちあがっていて、こちらに背を向け完全に無視を決め込んで部下を怒鳴り散らしている。


 八つ当たりする鈍い音を背中で聞きながら、僕は少しだけ笑って、アヘン窟をあとにした。

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