第10話 二十一人のニック
昼間っから酔っ払っている男達が肩を組んで陽気な歌を歌っていたので、左右に分散してやり過ごしつつベイカーストリートを北上する。
今日は散々な一日だ。
本棚に押しつぶされて死に、馬に蹴られて死に、理不尽に水をぶっかけられ(コートは今なお生乾きだ)、アヘン窟で手錠をはめられて、昼食も食べ損ねた。
一度お祓いにでも行きたい気分だが、ロンドンにはまずそんな施設がない。
「とりあえずよかったじゃないですか」
「何が!」
僕の半歩後ろから呑気な声がする。
そうか、お祓いじゃなくて悪魔払いならヨーロッパでも引き受けてくれる施設があるはずだと結構本気で考えながら振り返ると、眉間に深い皺が刻まれていたらしく「どうしたんですか、怖い顔をして」と悪魔当人の全く怖がっていない声。
「はあ」
その一言で完全に気力を奪われてしまい、反論する気にもなれずにうなだれた。
「まあまあ。手がかりを手に入れたことは収穫でしょう?」
「二十一件の心中男がみーんなニックで赤毛ってことがか? 謎が深まっただけじゃないか」
「やはり組織がらみの事件でしょうか。赤毛の男を集めてニックと名乗らせ、心中させて……」
「それのどこにメリットがあるんだよ」
「たとえば何かの魔術的儀式の生贄とか?」
「それは
「そうやって揚げ足をとるのは卑怯ですよ。サンドイッチ分けてあげませんからね」
むすっとした顔で紙袋に包まれたサンドイッチをコートに隠す。
先ほど露店で買った物だ。
「とってないし、いらないし……」
僕は再びうなだれた。
未だにワトソンがどういう人物なのかわからない。
鋭い洞察力があることは確かだが、どうにも僕をおちょくっているように見えて花を持たせてみたり、時折ぞっとするほど無機質で完璧な機械のように笑ってみたり。
ワトソンから推理以外を取ったらただの自分本位、胡散臭い、こずるいという人格破綻なところしか残らない。
でも、相棒がワトソンでよかったとも、不本意ながら思っている。
「よし、情報を整理しよう」
気持ちを切り替え手帳を開くと、
「そこに新しい情報はないですよ。名前がニックで、赤毛のイケメンってこと以外は」
興味なさそうに最後の一口を頬張って指先についたピーナッツバターを舐めながら、士気を下げるようなことを平然と言う。
「うるさいなあ」
と言いつつワトソンから見えなようにページをめくると『死に戻り』という文字が目に飛び込んできた。
僕の能力についてわかっていることは、死ねば時間が戻るということだけだ。
いつ、どのタイミングに戻るのかはわからないし(何十年経とうがワトソンとの出会いからやり直すというのだけは勘弁して欲しい)、そもそも死に戻りできる回数だって不明なので安易に死ぬことは避けた方がいいだろう。
思ったより使い勝手の悪い能力だなと独りごちてから、事件に関するメモを読み返した。
『二十一件の被害者男性は全員ニックという名前だった』
『被害者は全員赤毛の男だった』
『巷では二十一人の兄弟説が浮上している』
『ニックの墓で赤毛の男の目撃情報あり ←蘇り? ←非科学的、あり得ない』
「うーん……やっぱり兄弟説は無理があるような。だったらまだ蘇りのほうがしっくりくる」
自分で警部に対して非科学を否定したくせに、本当に魔術などの超常現象は存在しないのかと急に不安になってきた。
現に僕には『死に戻り』という特殊能力があるわけだし、生まれてこの方凡人として生きてきたのに、今になって僕だけがこの世界の理から外れた特別だと言い切っていいものか。
「そうだ、ここまで来たなら気分転換にハイドパークでも散歩しませんか?」
昼食を一人終え満足げに頷いたワトソンがパン屑を払い落としながら前に出た。
「ハイドパークってこの近くなのか?」
「あれ、知りませんか? すぐそこに見えていますよ」
ワトソンが指差した方向に目を凝らすと建物の隙間から木々が顔を覗かせている。
「ロンドンシーズンのハイドパークは昼時になるとみんなピクニックをしていて露店も出ているんです。だからそこでお昼でも食べましょう。お腹がすいているからピリピリしているんでしょうし」
ピリピリしているのは誰のせいだと思っているんだか。
身を乗り出してさも楽しそうに誘ってくるのでこちらは逆にたじろぎつつ「そんな時間はない」と突っぱねた。
レストレード警部と約束した手前、早く解決させたいという気持ちのほうが大きくなっている。
すっぱりと切って捨てるとワトソンは「脳の栄養は糖分だけだっていう論文もあるんですよ」と食い下がる。どうにか断る理由をこじつけようと口を開いて、
ぎゅるるるるるるるるる――……。
腹の虫が先んじて返事をしてしまった。
「ほら」とどこか勝ち誇ったようなワトソン。
「そうだな」
ワトソンの笑みが濃くなったのを目の端に捉えたが気づかないふりをして。
「腹が減っては戦はできぬ!」
と一つ意気込んでハイドパークへ向かった。
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