第6話 初歩的なことですよ
それから釈然としない顔のワトソンを引き連れて、依頼人を迎えに行った。
慎重に慎重を期して馬を避けると、無事に生きて事務所へと戻ってくることが出来た。
ホームズ愛好家としての教養、つまり常識だから知っていることを簡潔に述べると、ロンドンの中心地、メリルボーン地区は北にロンドン動物園を有するリージェントパーク、南に上流階級御用達のハイドパークを臨む位置にある。
十二月から八月まではロンドン・シーズンと呼ばれ、上流階級が社交のためにロンドンへと集まってくる。
この季節になると、早朝のハイドパークは馬で散歩する上流階級で埋め尽くされるらしい。
そんな二つの公園を結ぶように南北に走るのがベイカーストリートであり、探偵事務所があるのもこの通りだ。
ヴィクトリア女王即位前は高級住宅街として名を馳せたらしいが、鉄道のターミナル駅ができてからは小規模な中流家庭向けのベッドタウンとなっている。
探偵事務所の一階には大家であるハドソン夫人が住んでいるはずだが、どうやら今は長期旅行中で不在だった。
探偵事務所とホームズ――つまり僕の部屋は二階に設けられており、今日からはワトソンが三階の空き部屋に住むことになっている。
「改めまして、僕はジョン・H・ワトソン。ロンドン大学の医学部に通う十九歳で、ホームズの助手です」
探偵事務所の肘掛け椅子に腰掛け、ワトソンが依頼人に会釈をした。
十九歳ということは僕より二つ年上だ。
実際のホームズは二十四歳のときに探偵稼業を始め二十六歳でワトソンと出会っているはずだから、史実とは少し時系列が違うらしい。
そんなことを考えながら続けて名乗った。
「僕がこの探偵事務所を営む名探偵シャーロック・ホームズでひゅ」
噛んだ。
調子に乗って名探偵と自分で名乗っておきながら。
穴があったら入りたい……と、嫌な気配を感じて視線を向けると、ワトソンが肩をふるわせて笑っている。
そんなに笑うところか。
かちんときて睨みつけたがワトソンはまるで相手にしないという態度で笑いきったあと、依頼人に視線を向けた。
「依頼を受けていただき、ありがとうございます探偵様」
視線に促された依頼人が会釈をしながら言った。
緊張しているのか、それとも冷え性なのか、血色の悪い手をしきりにこすり合わせている。
僕はホームズがそうするように、まずは依頼人を注意深く観察してみることにした。
歳は三十歳をいかないくらい。
フェルト製の中折れ帽子を被り、少しよれて色あせたスーツを着ている。
しかしシャツにはピシッとアイロンが掛けられていた。
その身なりから中流階級の人だと推測する。
「それで、依頼というのは?」
ワトソンが問う。
「へえ。私の妹、イライザの事なんですが……探偵さん方は、最近話題の連続心中事件についてご存じでしょうか」
いや知るわけないだろうっ。
数時間前まで令和を生きていたというのに、最近の十九世紀ロンドン事情を知るわけがない。
しかしホームズならば知っていて当然だということも理解している。
次の台詞を探すために必死に思考を巡らせる。
ここで知らないというのはホームズらしくない、かっこ悪い。
「ええ、もちろん知っています。知っていますが、ここはワトソンに説明してほしい」
「え、僕がですか? ここは名探偵直々に話を進めていった方が」
即座にワトソンの口から脳天をたたき割るような一言。
それ、わかっていてわざと煽ってないかっ。
陸にあがった魚のように口をぱくぱくさせながら、もう一度思考をフル稼働して。
「ワトソン……き、みは僕の助手に志願している。そうだね?」
「そうですけど……」
「だからここで、君の助手としての適性を見極めておきたいんだよ」
絞り出した渾身の言い訳。
ワトソンは顎先に手を当てて少し考えた後、「そういうことなら」といって事件のあらましを話し出した(僕はほっと胸を撫で下ろした)。
ロンドンは今、空前の〝心中ブーム〟なのだとか。
そんな奇っ怪なブームがあってたまるかと眉根を寄せたが、依頼人が取り出した新聞記事でその疑いは一蹴された。
出てきた記事は全部で二十一枚。
その全てがここ一ヶ月以内のものだ。
見出しには〝心中〟の文字が軒並み躍っている。
「二日に一回以上のペースで、心中事件が起こっているんでさ」
「偶々、というには多すぎる数字だ」
僕が正直な感想を述べると、依頼人もこくりと頷いた。
「世間じゃあ魔術結社の差し金だとか、解剖実験用の死体を売買する
「でもそれは
「へえ。でも……でも……」
そこまで言って、依頼人が肩を小刻みにふるわせ始めた。
「でも?」
続きを促すように、ワトソンが問いを重ねる。
「そうでなかったら、うちの妹がこんな書き置きを残していなくなるわけがねぇんだ……っ!」
ばしーん、とくたびれたメモ用紙をテーブルに叩きつけると、依頼人は突っ伏しておいおいと泣き出してしまった。
「どれ」
ワトソンがそれを拾いあげて読み始めた。
「『お兄ちゃんへ。道ならぬ男性と恋に落ちました。結婚できないならいっそのこと、一緒に死のうと思います。探さないでください――イライザ』ですって」
見ます? とメモを差し出してきたので受け取ってみる。
やたらと綺麗な文字で、迷いなく書かれたように見えた。
あらかじめ用意されていた文章を脅されて書いたのか?
「脅されて書いたわけではなさそうですね」
と、ワトソン。
そうなの?
虚をつかれて言葉に詰まると、
「なんでそう思うんで?」
僕の代わりに依頼人が訊いてくれた。
「脅されて書いたのならば、もっと線が振るえるでしょう?」
なるほど。
改めて見るとそんな気もしてくる。
「それから」
ワトソンの手がぬっと伸びてきて、僕の手からメモをひったくった。
一度視線を落として黙考する。
と、待ちきれなくなった依頼人が「それから?」と食い気味に訊いた。
するとワトソンは僕らにも見えるようにメモを掲げ、
「これは羽ペンで書いたようです。もしお手本を見ながら書いたとしたら、どうしても一瞬、自分の手元から視線がそれる。羽ペンはペン先にインクを含ませていますから、手を止めた瞬間に余剰インクが紙に染み込んでしまってにじみます。しかしこのメモには、そういった痕跡が見当たらない。自分の言葉で一気に書ききったんでしょう」
このワトソン、優秀過ぎないか?
ぱっと浮かんだ感想はシンプルで、それ故にぐさっと心に突き刺さった。
そこにいたのは、まさしく理想の名探偵である。
一つ問題なのは、それが探偵の助手ということであり、探偵のほうはというとその隣で呆然と口を開けているということだ。
「どうです、ホームズ」
白っぽい意識の中にワトソンの声が浸食する。
「合格ですか?」
合格ってなんだと思って首を捻ると、自分が助手としての敵性を見るとかなんとか言ってけしかけたことを思い出した。
合格も何も、こちらを軽々と凌駕してきたくせに。
「もちろん合格だよ、ワトソン。僕の推理と全く同じだ。優秀な助手を持てて嬉しいよ」
「それほどでも」
負け惜しみ半分、羨ましさ半分、残り少々の賛辞を加えて言葉を返すと、ワトソンのほうは言葉とは裏腹に自信満々、尊大な態度で。
くそう、今に見てろよと負け犬じみた台詞を内心で吐き捨てたとき、
「じゃあ探偵さん方はうちの妹が自ら出て行ったとでも言いたいんですか!? あの子は男にそそのかさて死ぬようなアバズレじゃあねぇんですよ!?」
依頼人がローテーブルを叩きつけた。
建物全体が揺れ動いたのではと思える衝撃が目前で巻きあがり、びっくりして舌を噛みそうになった。
「いや女の人って二面性があるから――」
勢いにつられてつい本音が出てしまう。
自分もついさっき母親に謀られたばかりだったので。
言ってから口が滑ったことを後悔し、罵られる覚悟で首をすくめる。
しかし依頼人の目に浮かんだのは怒りではなく涙だった。
「絶対に妹は騙されているだけなんでさ! きっとあいつはまだ生きていて、どこかで助けを待ってるに違いねぇ!! だからどうか、妹を見つけ出してくだせぇ……っ!」
こちらの肩口を掴んでがくんがくんと揺さぶる依頼人。
「あ、相手の……目星はついているん……すか?」
「それがわからねぇから秘密結社に誘拐されたんじゃねぇかとこうして……!!」
息も絶え絶えに訊ねるが、尚も揺さぶりが激しくなる。
脳震盪で……死ぬ……。
再び犬死にを覚悟した瞬間、
「ある程度は絞られそうですけどね」
「え?」
「なっ」
ぴたりと揺さぶる手が止まり、僕と依頼人が同時にワトソンを振り返った。
「失礼ですが……貴方は労働者階級の方ですね?」
「えっ」
と、驚きそうになった声を必死に呑み込み、今しがた中流階級だと推察した依頼人のほうを向けば、
「どうしてそれを!? これでも一張羅を着てきたんですが」
当人もびっくりした様子できょろきょろと自分の服装を調べている。
取り繕ったつもりが僕の顔にも驚きが浮かんでいたようで、
「
ワトソンが閑かにそう言って、はっと息を飲まされた。
それはシャーロック・ホームズで、いつもホームズがワトソンに言う台詞だ。
「まずはあなたの話し方。気をつけてはいらっしゃるようですが
失礼、と一声掛けて顔を近づけ匂いを嗅いだあと、依頼人の手を取った。
「アイロンがけはしっかりとされていますが、紳士が着るにはややくたびれすぎです。オイルの匂いも付着していますし、爪はコールタールが染みこんで黒くなっている。工場勤務でしょうか。第一、貴方は手袋をしていない」
「手袋?」
依頼人が自分の手をまじまじと見た。
「紳士は雑用を一切しないという意思表示の為に手袋を付けます。素手で過ごすのは雑用をする側の人間ということです」
依頼人の手を離しながらワトソンが手を掲げた。
白い手袋をしている。
そこで視線を落とすと自分も白い手袋をしていてびっくりした。
たぶんロンドンに来てからずっとしていたのだろうが、自分が防寒以外で手袋をするなんて考えたこともなかったので気づかなかったし、なんだか酷く奇妙に思えた。
手袋がないほうが何かと作業しやすいと思うが。
目線をあげれば依頼人も自分と全く同じ顔をして、奇妙だと言わんばかりに首を傾げながら「そんなとこでばれるなんてなぁ」と呟いた。
「まあ当然ホームズもわかっていたとは思いますが」
と、嫌みか本心かわからないことを言うのでつい渋面を浮かべてしまい、隠すようにそっぽを向いた。
依頼人は
「た、確かに俺は労働者階級だが、騙そうと思ったわけじゃねえんだ!」
「わかっていますよ。階級によっては依頼を受けない探偵もいると聞きます。だから頑張って身なりを整えてきたのでしょう? 依頼料さえ払えば、ホームズは気にしないと思いますよ。ねえ、ホームズ?」
またもやワトソンの推理は完璧だった。
悔しくなるくらいに。
「ホームズ?」という怪訝そうな声がかかるまでたぶん奥歯を噛みしめていた。
ぴりぴりと痺れる顎をはめ直すように口を開閉してから「身分なんか気にしないよ」と乾いた笑みを浮かべる。
「た、助かります探偵様……。でもどうして、俺っちの階級が妹の相手を絞ることになるんで?」
もう取り繕う必要がないと思ったのか、なまりを一切隠さずに依頼人が問う。
ワトソンは嫌な顔一つせずに、といってもどこか尊大な態度のまま、メモ用紙をぴんっと弾いた。
「妹さんはメモ用紙に〝道ならぬ恋〟と書いている。これは恐らく、身分違いの恋でしょう」
「言い切っていいのか? 道ならぬ恋と言ってもいっぱいあるだろ」
と口を挟んだ刹那、間髪入れずに「構いません」という自信満々な声が上書きする。
だからといってそれ以上の説明を続けるつもりはないらしく、(自分の推理力のなさが発端であることを棚にあげて)思わせぶりに口をつぐんだワトソンを睨みあげると、視線に気づいたワトソンがあくまでも柔和な笑みで、
「理由が必要ですか?」
「……できれば」
負けん気と謎を知りたい気持ちが競り合って、後者が勝った。
「ここの〝死のうと思います〟の文章をよく見て下さい。死という単語を〝Die〟で表していますが、これはオックスブリッジで使われる表現です」
オックスブリッジとは英国の二大名門大学であるオックスフォードとケンブリッジを掛け合わせた言葉で、日本でいうところの早慶である。
オックスブリッジを占めるのはほぼ上流階級(すなわち王侯貴族)であり、使われる英語すら中産階級とは異なる。
ちなみにワトソンが話す英語もオックスブリッジ・アクセントなので、上流階級に交じって名門パブリックスクールにでも通っていたのだろう(これくらいの推理は僕でも出来る)。
「上流階級以外では〝Pass on〟を使用します。先ほど依頼人さんも〝死ぬようなアバズレではない〟と言うときに〝pass on〟と言っていた。ではなぜ妹さんは〝Die〟を使ったのか」
「……心中相手である上流階級の男性が〝Die〟と使っていたのを真似たから?」
と僕。
「その通り」
嬉しそうにワトソンは言ったが、ここまでヒントを出されてからわかったところでこっちは微塵も嬉しくない。
しかし純粋な依頼人が一切の邪気も含めずに「さすが探偵様だ!」とシンバルを叩く猿のおもちゃみたいに喝采を送るので、自分の器の小ささまで突きつけられた気がしてなんだかなあとため息をつく。
すごいのはどうせワトソンだろというひねくれが消えない。
「つまり妹さんのお相手は上流階級に類する人ということになる。ロンドンの上流階級と上層中産階級は合わせてもたったの四パーセントですし、そのうち男性に絞れば単純計算で半分ほど。彼らが出入りするところなんて限られますから、そのあたりを聞き込めば道は開けるかと」
ちっちっちっ。
時計の刻む忙しない音が嫌に大きく聞こえる。
ワトソンの声は淡々と淀みがなく、まるで初めからすべてを見通していたといわんばかりの流暢さで。
だからこそ背筋にぞっとする冷たさを覚えた。
横目に捉えた榛色の瞳が一瞬、ひやりと光ったように見えた。
「……とまあこんな感じでしょうか? 見よう見まねの割にはそれっぽかったでしょう?」
視線をあげる。
〝降参〟というようにぱっと手をあげてワトソンがくつくつと笑っていた。
「いやぁ探偵って難しいですね。僕にはちっとも務まりそうにありません」
そんなわけないだろうと思っていたのに声には出せなかった。
目の前のワトソンは疑う余地もなく善人で、一瞬感じた冷たさとは無縁に思えたからだ。
「でも安心して下さいね。ホームズの推理は僕の比ではありませんから」
「はあっ?」
「妹さんの失踪についても、たちどころに解決してくれますよ!」
「いやだから、勝手に決めるなって」
しかもハードルをあげた状態で。
さっきは確かにコンティニュー一択とか思ったけれど、こうも実力の差を見せつけられてはさすがにちょっと迷うっていうか――。
「探偵様!」
堂々巡りの思考に鋭い声が割って入った。
がっしりとした手が僕の両手を包み込む。
ワトソンに向けていた視線を、握る手の延長上、真剣な眼差しをしている依頼人へと変更した。
「もう頼れるのはあんたしかいねぇ! どうか、妹を助けてやってくだせぇっ」
お願いだ、お願いだと、何度も頭を下げる依頼人。
ふとスーツの懐を見れば、リストアップされた探偵事務所の名前が見えた。
その全てにバツ印がついており、〈シャーロック・ホームズ探偵事務所〉だけが無傷で残っている。
ここに来るまで、どれだけの人に断られたんだか。
その姿を見ながら、僕はぼんやりと考えていた。
自らの意志で失踪した場合、その捜索は二十一世紀の技術を持ってしても難航するという。
ましてや、科学捜査が発展途上の十九世紀。無理も承知な依頼である。
でも、だからこそ、ホームズは必要とされたわけで。
「任せて下さい」
気づいたときには、言葉が勝手に口を突いて出てきていた。
「必ず妹さんを見つけ出して、この不可解な事件の謎を解いて見せましょう」
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