第5話 行こう、謎解きの時間だ
***
ふいに既視感のあるメロディが聞こえてきて、深い眠りからたたき起こされた。
くぐもって響く喧騒の隙間から、おもちゃの鉄筋を叩くような鐘の音が連続四回、鼓膜を揺らす。
どこかで聞いたことがあると思ったらロンドンのウェストミンスター寺院の鐘の音で、しかし思い出したころにはゴーンという重低音に変わっている。
一、二、三、
時を刻むように機械的に回数を重ねる。
七、八、九、
ゴーン、と最後の一回が鳴り響く。
この鐘の音も知っている。ウェストミンスター寺院の
先ほどロンドンで聞いたとおりの音色が響いて、
(ああ、僕は死ななかったのか)
想像していた天国の白っぽい空気とは程遠い、スモッグのけぶたい匂いを吸い込んだ瞬間、
お か し く な い か。
はっとして背筋が凍り付いた。
既視感の中の違和感。
既視感のまますぎるのだ。
ウェストミンスター寺院の大時鐘は鳴った回数で時刻を表し、チャイムの回数が分を表す。
チャイム四回は時刻ぴったりということ。
ということはつまり、今は十時ちょうど。
なぜまだ十時ちょうどなのか。
瞬間、ばさばさっと紙の擦れる音が響き、びっくりして目を開けた。
ぼやけた視界の向こうから「痛ぁ……」という見知った声がする。
三度目の瞬きでようやくピントが合い、視界が一気に鮮明になった。
だがそこに映ったのはけぶたい街並みでも、ましてや馬の蹄でもなかった。
榛色の瞳を悪戯っぽく細めて、僕の顔を覗き込む長身痩躯の青年。
こちらが黙っているとみるや肩に乗っている本を犬のように振り落とし、
「君がシャーロック・ホームズですか?」
とどめともいえる言葉を吐いた。
またふざけているのだろうか。
ワトソンが揶揄っている可能性が真っ先に浮かび、しかし周囲を見回してすぐに否定した。
先ほどまでは路上にいたのに、今尻餅をついているのは探偵事務所の中だ。
意識を失って事務所に運び込まれたとか?
恐る恐る額に触れるが痛くない。
傷もない。
刹那、最もあり得ない選択肢が脳裏に浮かんだ。
でも、そんな、馬鹿な。
「聞いてます? 君がシャーロック――」
しびれを切らしたワトソンが続けざまに言う。
頭に浮かんだ選択肢を振り払うようにその声に重ねて、
「僕は助かったのか?」
「助かったって、何のことですか?」
「だって、今、馬に蹴られて……死、んで……」
自分で言っておきながら、白々しい気がしてきて尻すぼみになった。
ワトソンの第一声を聞いたときから、たぶん心の中では気づいている。
「それが本当なら一大事ですが、見る限りどこにも怪我はないですよ」
ころころと笑いながらワトソンが額にデコピンをかます。
それはちゃんと痛かった。
夢ではないようだ。
もし仮に馬に蹴られて生還したのだとしたら、いくらワトソンでも病みあがりの人間にデコピンなんぞしないだろうから。
(……時間が、戻っている?)
いやあり得ないだろ、と僕の理性が笑う。
しかしふとホームズの名言が浮かんだ。
《不可能な事柄を消去していくと、よしんばいかにあり得そうになくても、残ったものこそが真実である》
不可能な事柄――十時に目が覚めて依頼人のところに向かったのに、まだ十時なんてありえない。
一晩経った?
だとしても馬に蹴られて無傷でいるのは不可能だ。
でももし馬に蹴られた拍子に十時まで時間が戻ったのだとしたら――頭の中が急速にぐるぐると回り出す。
かちりとピースがはまった気がした。
いかにありえなくても、残ったものこそが真実ならば。
(これは死をきっかけに発動する時間遡行。俗に言う死に戻り……?)
推理ゲームでよくあるやつだ。
証拠を見つけたと思ったら犯人に殺されて、ぱっとダイアログボックスが出る。
『Game Over ! Continue ? or End ?』
コンティニューを選択すればセーブポイントまで時間が戻る。
「……ん? これは君の本ですね?」
そのとき、床に散らばった本の中からワトソンが一冊を拾いあげた。
「本?」
既視感が僕の脳を殴りつける。
表紙には金の箔押しで印字された《Sherlock Holmes ~シャーロック・ホームズ大全~》の文字がある。
それをうろんげな瞳で見つめるワトソン――馬に蹴られる前と、全く同じ展開。
「タイトル以外の文字は読めませんけれど……その歳で自伝ですか? 気の早い人ですね」
やはりというか当然というか、ワトソンに日本語は読めていなかった。
停止した思考で、それでも差し出された本を条件反射で掴もうとする。
「ありが」
瞬間、僕の指先がかすめた。
「と、う…………」
学習しろよ、僕。
ホームズ大全を高々と掲げて笑うワトソンに半眼で切り返したが、当人は全く意に返した風もなく小首をかしげた。
取らないの? と視線で訊いてくる。
「…………」
一応、もう一度手を伸ばしてみて、
ひょいっと、右にずらされた。
固まっている僕を見てワトソンの笑みが余計に濃くなる。
「…………」
むかつくことは何度やられてもむかつくもので。
ならば。
僕は本に向けて怒濤の攻撃をした。
右、左、上、上、左。
途中までは全く同じ動きをして運命が変わっていないことを確認する。
そして、
「そこだっ」
渾身の一撃を、左側に放つ。
今度はワトソンの手首が予定調和のように捻りあげられ、その手からホームズ大全が滑り落ちた。
これは想定外。
一拍遅れて手を伸ばし、なんとか指先でたぐり寄せてキャッチした。
「よっしゃあっ……!」
思わず左手をぐっと握ってワトソンの顔を覗き込む。
どうだまいったか。
すると相手は呆気にとられたように自分の手を見つめたあと、
「……なかなかやりますね」
何事もなかったように手をおろして笑顔を浮かべたが、その口角は若干引きつっている。
これも想定外。
そういう顔もするのか。
「って、そうじゃなくってっ……」
やはり時間が戻っている。
そうでなければワトソンを出し抜けるはずがない。
「えっと、その、ワトソン」
僕は一体どうしたら。
そんな情けないことを訊こうとして口をぱくつかせたとき、
「よく僕の名前が分かりましたね」
「え?」
あのワトソンが目を瞠って驚いていた。
そういえば今回はまだ名乗っていなかった。
気が動転してそんなことにも気づけないなんて。
吸血鬼のような
死に戻りましたなんて言って信じてもらえるとは思えない。
誤魔化す言葉を必死に探していると、何を勘違いしたのか「さすがは探偵ですね」と感嘆の声。
僕の脳内でそのセリフが繰り返し再生され、結果その後に続いた「まあどうせスタンフォードから訊いていたんでしょう」という皮肉めいた言葉はは全く耳に届かなかった。
出来心が顔を覗かせる。
今ならホームズのようなことが出来るかもしれないという、きらきらした出来心。
「ところで君は、ルームシェア相手を探している?」
「ええ、まあ」
ワトソンのびっくりした顔を見た瞬間、ぞくっとした。
緊張感が背中に広がってむずむずする。
しかしそれは不快な感覚ではなくて、もっとこう、気分を高揚させるわくわくとしたものだ。
もっと、もっとと欲が出る。
「しかも探偵の助手になりたいと思っている。無能な警察に代わり、世間をあっと言わせる探偵を見てみたいと思っている」
「そう、ですね」
生唾を飲む音がして、さらに大きく目が見開かれる。
それはきっと、ホームズがワトソンと出会ってすぐに、アフガニスタン帰りの医者だと見抜いたときに浮かべた表情のまんまな気がした。
この表情を引き出したのは、他でもなく僕なのだ。
推理で人を追いつめるスリルが、麻薬のように全身に染み渡って心地よい。
「だろうと思ったよ。僕は……探偵だからね」
気づいたときには、自ら探偵と名乗っていた。
絶対になれないと思っていた、探偵と。
「そうですか」
満足そうな笑みを浮かべて、ワトソンがポケットに手を突っ込んだ。
ぐしゃっと紙ずれの音がする。
引き抜かれた手には一度目の時に渡されたメモと写真が握られていた。
「見込んだとおりの人でしたよ、スタンフォード」
小さく呟いた声が聞こえた。どうやら僕は彼のお眼鏡にかなう
再びスリルが全身に広がる。
僕は推理力がゼロだ。
名探偵にはほど遠く、どちらかと言えば犯行を目撃して殺されるモブだろう。
しかし万が一、特別な力があったとしたら?
類い希なる推理力とか、超人的な身体能力とか……死に戻り能力とか。
「……あは、は」
笑わずにはいられなかった。
「あはははっ……」
途端、基本すまし顔のワトソンがぎょっとした顔になったのを見て余計に笑い、目頭に涙が浮かびあがった。
込みあげる興奮を押し殺すように指先で拭い、
「挑戦状を受けるよ、ワトソン」
しかしはっきりと口に出した。
「挑戦状? 何のことです?」
きょとんとしたワトソンだったが、僕の脳内ではとある言葉が繰り返しポップアップ表示されている。
〝君は
という、挑戦状の文字。
(死に戻り能力があれば、何度だってやり直せるんだ)
ならばもう、僕の答えは決まっている。
「選ぶのはコンティニュー一択だ。探偵を求める依頼人がいて、それが出来るだけの力がある限り。それがシャーロキアンとしての正しい姿だ」
「しゃー……ろきあん?」
とうとうワトソンが怪訝な顔を隠さなくなった。
「なんでもない。そんなことより、依頼人を待たせたら悪いから下に降りるよ、ワトソン」
「えっ、なんで依頼人がいることがわかって――」
絶句するワトソンの横をすり抜け階下に続くドアを開けると、身も凍る冷気が吹きあがってきて火照った身体を心地よく冷やした。
しかし一度灯った熱が冷め切ることはなくて。
「行こう、
僕はそれだけ言って、足もとにぽっかりと開いている階段口へもう駆けだしていた。
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