第4話 僕は、推理力がゼロだ

「さむぅ……」


 木製の重たいドアを押し開けてベイカーストリートに出た途端痺れるような冷気が頬を突き刺した。

 上着が要らないと言ったのはどの口だ。

 当の本人はちゃっかりコートを着ていることに気づいてその背中を睨みつけると、


「ええっと、あっちですね」


 ふいっと右へ移動して、それまで遮られていた世界がどん、と姿を現した。


「おお……」


 小雨に霞んだ濃灰色の空は、両脇から迫るのっぽな芥子色のビルに圧迫されて頭上で細長く切り取られている。

 黒い霧のせいで視界は常に曇った眼鏡越しのようにあいまいで、煤煙特有の腐った卵の匂いが胃液を押しあげる。


「何をきょろきょろしているんですか。自分の家でしょう?」

「いや、そうというか違うというか」

「はぐれないでくださいよ。このあたりは人が多いんですから」


 このときばかりはワトソンの忠告に素直に頷いた。


 いったいこの街のどこにこれだけの人を収容するスペースがあるのか、ベイカーストリートは人であふれかえり、お祭りのような喧噪が飛び交っていた。


 ドレスを着た貴婦人が顰めっ面を向けた先には、これでもかと重ね着をした浮浪者がジンを呷ってケタケタと笑っている。


 スリをしたのかストリートチルドレンが恰幅のいい紳士に追いかけられて露天に突っ込み、威勢のよかった呼び売りの口上が絶叫に変わる。


 そんな大混乱の街道を一頭引きの辻馬車が悠々と闊歩していた。

 街中で馬を見るとは思わなかった。


「人が多いな」


「産業革命以降、ロンドンの人口は爆発的に増加してますからね。今や北京に変わり世界最大の都市です。家を建てる土地もないので、仕方なく上に伸びたせいで日当たりは最悪ですよ」


 先ほどのウェストミンスター寺院の鐘を聞くに、現在は十時ちょうど(大時鐘の鳴った回数が時刻、チャイムの音が分を表す。

 チャイム四回は時刻ぴったりということ)のはずだが、建物と霧のせいで陰険に薄暗い。

 ワトソンは辟易したようにぼやいたが、


「本当に、十九世紀のロンドンに来たんだ……」


 感極まった声は喉に張りついてちゃんと言葉にはならなかった。

 くすんだ世界が僕の目にはきらきらと輝いて見える。


 憧れの街、憧れの相棒、そして今は僕自身がホームズなのだ。


「なんか威厳が足りませんね」


 振り返ったワトソンが持っていたステッキを押しつけた。

 少し後ずさりして全身を眺めると今度は懐から何かを取り出して、


「それから、これで寝癖を隠してください」


 ぼすんと頭に被せたかと思うとワトソンはもう前に向き直っている。

 ぱっと頭に手をやると慣れ親しんだ感覚。

 あの鹿狩り帽だ。

 通り過ぎる窓ガラスに自分の姿が映って思わず足が止まった。

 ガラスの中の自分は確かにシャーロック・ホームズのイメージ通りで、


(シャーロック・ホームズかあ……)


 心がむずむずしてなんとなく探偵っぽいポーズをつけてみた。

 ステッキをついて片手は帽子の鍔をもち、顎を引いて流し目を送る。


(……何やってるんだろう)


 頭から冷水をぶっかけられたように目が覚めた。

 ワトソンは依頼人探しに夢中でこちらに気づいていない。

 見られてなくてよかった。

 自分がホームズになれるわけないのに何やってるんだろう、ほんと。


 


 確かにホームズ愛好家でありその知識は自負するところだが、推理が出来るかというのはまた別の話で。

 母親の思惑に気づけないうえ大切な物を護ろうとして死んでしまった間抜けに、名探偵という大役が務まるはずがない。

 この世界からホームズの偉業が消えるのは死ぬほど嫌だが、その名を貶めるくらいならなかったことにしたほうがはるかにマシだ。


 ……マシだ、けど。


(せっかくホームズになったなら、一度くらいかっこよく事件を解決してみたかったなー……)


 と思ってから、ワトソンのほうへと歩き出した。

 なんか特別な能力でもあれば頑張ってみたかも知れないが。

 類い希なる推理力とか、超人的な身体能力とか。


「なあ、ワトソン。悪いんだけどその依頼」

「ああ、どうやらあの辻馬車のようですね」


 ワトソンが指差した先には一台の辻馬車が止まっていた。

 男性が一人乗っていて、向こうもこちらに気づき慌てたように会釈をしてから降りる準備を始めた。


 魔が差したとしか言いようがない。

 依頼人を見た瞬間それまでの考えが全て吹っ飛び、気づいたら足が駆けだしていた。


「ホームズ、周りをよく見ないと危ないですよ」

「わかってる」


 と返事をしながらも視界に映っているのは依頼人の乗った辻馬車だけ。

 御者が降車の気配を察し、馬車後方に設置されている御者席から飛び降りた。


 駆ける速度があがる。

 ぬかるんだ道に足がめり込んだが力任せに引っこ抜いた。


「ホームズ、前を行く馬車がありますので近づきすぎないように」

「わかってる」


 生返事を返した視線の先では御者が馬車の扉を開けた。

 依頼人がぺこぺこと頭を下げて降りてくる。


 話を聞くだけ。

 依頼内容によっては推理力ゼロでもなんとかなるかもしれないし。


 周囲を埋めつくす人が邪魔だった。

 しかし馬車の背後には人がいない。

 進みは断然馬車のほうが早いし、この真後ろにいれば人の波をかき分けて早く進める。

 距離を詰めてぴたりと張りつき、


「馬の背後に立ってはダメです、ホームズ!」

「え?」


 ワトソンの声と、悲鳴によく似た馬の嘶きが前方から響いた。

 はっとしたときには高々と蹴りあげた馬の後ろ足が眼前に迫っている。

 湿った土が大きく跳ねて周囲を飛び跳ね、


「………………………………あ、」


 蹄が額を撃ち抜いた瞬間、そうか馬の後ろに立つのはこの時代における禁忌タブーなんだと理解した。

 なぜ禁忌かと言えば、からだ。


 せっかくシャーロック・ホームズになれたのにっ……。


 一度目よりも遙かに間抜けで格好悪い。

 何の成果も得られないまま、吹きだす鮮血の向こうで青ざめた視線と交錯した。


 ワ ト ソ ン


 相棒の名を呼ぶ自分の声は、恐らく喉に張りついて声にはならなかった。


 そこでぶつんと意識が途切れ、僕は

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