第3話 君がシャーロック・ホームズですか?
***
ふいに既視感のあるメロディが聞こえてきて、深い眠りからたたき起こされた。
くぐもって響く喧騒の隙間から、おもちゃの鉄筋を叩くような鐘の音が連続四回、鼓膜を揺らす。
どこかで聞いたことがあると思ったら学校のチャイムで、しかし思い出したころにはゴーンという重低音に変わっている。
一、二、三、
時を刻むように機械的に回数を重ねる。
七、八、九、
ゴーン、と最後の一回が鳴り響く。
この鐘の音は知っている。
ロンドンのウェストミンスター寺院の
日本からロンドンへの瞬間移動なんてありえないので、
(……ああ、僕は死んだのか)
想像していた天国の白っぽい空気とは程遠い、スモッグのけぶたい匂いを吸い込むと妙に納得した。
きっと憐れんだ神様が天国をロンドンそっくりにしてくれたに違いない。
瞬間、ばさばさっと紙の擦れる音が響き、びっくりして目を開けた。
ぼやけた視界の向こうから「痛ぁ……」という見知らぬ声がする。
(三途の川の案内人か?)
一瞬そんなことを考え、しかし鮮明過ぎる意識と声音に急に違和感を覚えた。
死んでいるにしては、あまりにも現実的すぎる。
もしかして……死んでない?
三度目の瞬きでようやくピントが合い、視界が一気に鮮明になった。
だがそこに映ったのは降りかかる本棚でも、ましてや天国のお花畑でもなかった。
一人の青年が、尻もちをついた僕に覆いかぶるようにして立っている。
顔は……手で覆われていてよく見えない。
彼の片手は傾いた本棚を支えていて、頭や肩にはハードカバーの本が乗っていた。
僕をかばったのか?
「だ、誰っ……!?」
声に気づいた青年がぱっと顔をあげた。
瞬間、息をのむ。
そこにいたのは雑誌のモデルを彷彿とさせるような長身痩躯の外国人だった。
向こうも向こうできょとんとした顔をしてこちらをじっと覗き込んでいる。
この町内に、こんな綺麗な外国人いたか?
はっきり言って、同じ人間なのかと疑いたくなる容姿をしていた。
少し猫っ毛の亜麻色の髪に、ヘーゼルナッツを連想させる榛色の瞳。
光の差し込み加減で虹彩がくすんだ赤銅色とも黄色とも見える不思議な色。
白い肌は外の冷気に当てられたのか、ほんのり赤く火照っていた。
「誰って」
その人は犬みたいにぶるぶると頭を振って本を落としてから、うろんに目を細めて顎先を撫でた。
至近距離で顔を覗き込まれてたまらず肩越しに視線を逃がすと、ふと見えた室内がしっくりこない気がして首をひねってあたりを見回す。
赤い壁紙に赤い絨毯。
色は変わらない。
けれども、その柄が微妙に違う。
本棚も、ソファも、丸テーブルも……何もかもがわずかに変わっている、というよりも。
(これ、本物じゃないか……?)
日本生まれ日本育ちなのでロンドンのホームズ事務所に行ったことはないけれど、なぜだかここにあるものはすべて〝本物〟だという気がした。
周囲に散在している本も全てが洋書になっていて、紙の質感までもが変わっている。
真っ白な近代的印刷用紙という雰囲気ではなく、どちらかというと油紙や羊皮紙のようにざらついている
何かが変だ。
混乱する僕に、目の前の青年がとどめともいえる言葉をかけた。
「君がシャーロック・ホームズですか?」
えっ。
喉の奥に指を突っ込まれたような衝撃が走り、息も出来なかった。
青年はここに〝彼〟が現れると思っているようだ。
どういうこと?
何かのイベント?
誰かがコスプレでもしてくれるのだろうか。
それとも慈悲深い神様が幻影をプレゼントしてくれるとか?
「シャーロック・ホームズが、ここに……いる、の?」
動揺で言葉がぶつ切りになる。
生唾を飲んでカサカサの喉を気休めに潤し、期待に胸を膨らませて次の言葉を待ち、
「いえ、だからあなたがそのシャーロック・ホームズなのでは?」
「はい……?」
意味が分からず部屋中を見回したとき、暖炉の上に大きな鏡が見えた。
映っている人物は二人。
亜麻色の髪をした青年と、見慣れないくしゃくしゃの黒髪をした男。
黒髪の男が立っている位置は、今現在僕が立っている位置だ。
「……もしかして、この男が僕なのか?」
信じがたい事実だが、鏡越しに見つめ合っている黒髪の男は自分と全く同じ動きをして見せた。
青灰色の瞳をぱちくりと開閉し、唇を戦慄かせている。
不健康極まりない長身痩躯は青年よりもやや高いか?
だが痩せ具合で言えば僕のほうが上だ――ここまで考えれば認めざるを得なかった。
典型的日本人だったはずの僕の顔が、明らかに外国人に変わっている。
つまり、僕が僕ではなくなっている。
「……えーっと」
百歩譲って、ホームズ記念館で本棚に押しつぶされて死に、ロンドンに転生したとしよう。
漫画や小説でよく見るお決まり展開を受け入れて、四角い頭を丸くして、死んだ拍子に別人に乗り移って新しい人生がスタートしたんだ、と信じがたい事実を受け入れたとする。
だとしても、だ。
どう見ても本物のホームズの探偵事務所にしか見えない場所で、見知らぬ青年に〝シャーロック・ホームズですか?〟と呼びかけられる現象はなんだ?
これではまるで……。
刹那、一抹の可能性に思い至って呼吸が荒くなる。
ホームズの事務所にいるホームズ以外の〝誰か〟なんて、たった一人しか思いつかない。
「失礼ですが、あなたのお名前は……?」
「ジョン・H・ワトソンです。友人から、あなたがルームシェアの相手兼、これから探偵事務所を開設するにあたっての助手を探しているとお伺いしまして。立候補しに参りました」
期待が現実になった。この人があの、ジョン・H・ワトソン――
「本物だ……!!」
興奮のまま跳ね起きて、ワトソンの顔や身体をべたべたと触りまくった。
死んだ拍子に見た幻覚なのかと思ったが、手はすり抜けることなく身体に触れ、ちゃんと人肌に暖かい。
いきなり現れた憧れの人物を前にしてオタク全開で観察していると、突如右手に激痛が走り、
「ちょっ……痛い痛い痛いっ」
右手があらぬ方向に捻りあげられていた。
身体をくの字に折って痛みを逃しつつ顔をあげれば、頭一つ分高い位置でワトソンがにこやかに微笑んでいる。
もちろん僕の手を捻ったまま。
「スタンフォードから聞いていた通り、君はずいぶんと変わり者のようですね。助けたのにお礼も言わないなんて」
「あっ」
そうだった、本棚から救ってくれたのはワトソンだった。
慌てて頭を下げ「ごめん、ありがとう!」と告げると、ふうん、と訝しむ声が後頭部に落ちたきり数秒間の無言があって、
「……まあいいでしょう」
やや物足りなさそうに呟いて手を離した。
捻りあげる前、中、後、全ての過程で寸分変わらない笑顔が浮かんでいて逆に気味が悪い。
完璧な笑みの仮面の下では感情のない目がぎょろついていて、相手の腹の底を検分しているんじゃなかろうか。
ワトソンってもっと朗らかで裏表のない、実直な人ではなかったか。
こんな人物像はどの文献を当たっても知らないぞ。
と、そんなことを考えている内に、
「……というか、本当に僕がシャーロック・ホームズなのか?」
後回しにしていた最大の命題を思い出した。
「そうですよ。スタンフォードから君の写真を預かってますが、まさに君じゃありませんか」
そう言って、ワトソンがメモと一緒に一枚の写真を手渡した。
メモには何やらごちゃごちゃとした英文が書かれている。
う、英語苦手なんだよな。
しかし渡されてしまったものはしょうがない。
一応受け取って読んでみると、
「嘘だろ……読める!?」
そこに書かれていた英文がすっと頭に入ってきて内容が理解できた。
まるで日本語を読んでいる感覚と変わらないのに、手元にある文章はちゃんと英語のままだ。
「ホームズ?」
ぼけっとしているとワトソンの催促する声が聞こえてきた。
誤魔化しがてらに咳払いを一つしてメモを読む。
そこには『ベイカーストリート221B』と書かれていた。
ベイカーストリート221Bというのはホームズが営む探偵事務所の住所(すなわちここ)だ。
その隣には走り書きで『一八七一年十二月五日にここへ向かうように』という指示もある。
写真のほうには一人の青年が映っていた。
事務所の暖炉を背景に、見るからに無理やり立たされたっぽく仏頂面を浮かべている。
それはまさに鏡で確認した僕の顔で、端には『シャーロック・ホームズ』と書かれていた。
「どういうことだ? 僕は、夢でも見ているのか?」
頬をつねってみる。
……痛い。
「夢じゃ……ない」
「ねえ、ホームズ。さっきから何をぶつぶつ言っているんです?」
「いや、うん、その」
こみあげてくるいろいろな感情のせいで言葉に詰まる。
何とも言えない気持ちのまま視線をあげるとワトソンと目が合った。
榛色の瞳が綺麗だった。
そこでようやく実感が沸いた。
本当に僕が、シャーロック・ホームズになったなんて――
「……ん? これは君の本ですね?」
「本?」
身をかがめたワトソンが床から何かを拾いあげ、ぱたぱたと埃を払ってからこちらに差し向けた。
白っぽい思考で覗き見て、いきなり後頭部を殴られたように絶句した。
「タイトル以外の文字は読めませんけれど……その歳で自伝ですか? 気の早い人ですね」
床に散らばった本の中でも、とりわけ立派な一冊がワトソンの手の中に納まっている。
すぐにワトソンが言った『君の本』という言葉の意味を理解する。
本の表紙には金の箔押しで《Sherlock Holmes ~シャーロック・ホームズ大全~》と印字されていた。
横文字ばかりの世界にあって、この本にだけは日本語が書かれている。
「あ……」
おじいちゃんの同人誌……。
ついあたりを見回すが、この本以外に見覚えのある物はなかった。
どうやらホームズ大全だけが一緒にこちらへ来てしまったようだ。
どうやったら帰れる?
というか、死んだのなら戻っても墓の中?
まさかとは思うけれど、このまま名探偵シャーロック・ホームズとしてこちらで暮らすの?
いやそれだけは無理だろっ。
「……ありがとう」
自分で自分に突っ込みをいれつつ、現代と唯一の繋がりであるホームズ大全に手を伸ばし、
「……?」
指先が空を切った。硬直した視線をゆっくりともたげれば、ワトソンがホームズ大全をひょいっとつまみあげている。
向けられている笑顔は先ほどと寸分変わらない。
距離感を見誤ったか。
気を取り直して改めて手を伸ばし、
ひょいっと。
今度は右にずらされた。
「…………」
むかっときた。
非難の気持ちを込めて睨みあげたがワトソンはまるで相手にしないという態度で変わらず本をつまみあげている。
ちくちくした反抗心が盛りあがり、一泡吹かせるつもりで怒涛の攻撃を試みた。
右、左、上、上、左、上―
しかしそのすべてが華麗に躱され、単純に僕の息があがっただけだった。
「なんなんですか!」
「別に」
きょとんとした顔で、ワトソンが首をかしげた。
「意味はないですけど」
……本当になんなんだよ、もう。
地団太を踏んだ僕を見るなり、ワトソンは口元に手を当てて押し殺すようにくくくと笑った。
完全に面白がっている。
やはりどう考えても、史実のワトソンとは似ても似つかない。
あの人が良すぎてすぐホームズに騙されてしまうワトソンはどこへ消えたのか。
これでは完全に立場逆転だ。
「ん」
この遊びがよほど気に入ったのか、ワトソンが悪戯に嗤って再び本を差し出した。
どうせまた、手を伸ばしたら避けるくせに。
無視を決め込みそっぽを向くと、
「……それにしても探偵事務所の開設とは、いいところの目を付けましたねぇ」
こちらが乗らないと見るや、ワトソンは面白くもなさそうに本の表紙を指先で叩きながら事務所の中を歩き始めた。
興味を持ったのは実験机に無造作に置かれている何かの標本で(小瓶に詰められているのは干からびた人間の指のように見える。違うことを願いたい)、それをつまみあげてしげしげと眺める。
「一八一一年のラトクリフ街道殺人事件以降、わが国にも
「あー……」
侮蔑を含んだ声音からはワトソンが吸血鬼の存在を信じていないのは明白で、皮肉たっぷりに肩をすくめて見せた。
十九世紀の英国は産業革命によって急速に近代化していったが、市民はその速度についていけず、
その最たる例が〝ラトクリフ街道殺人事件〟である。
目撃証言や凶器が残されていたにもかかわらず捜査は難航。
結果、さしたる証拠もないままとある船員が逮捕されたが、自白もないまま四日後に自殺。
被疑者死亡で真相は闇の中に葬られた――はずだったのだが。
当局は一件落着とばかりにその死体をさらし者にして、心臓に杭を打って葬った。
しかし市民はこの結果に納得しなかった。
容疑者は自白前に死んだうえ、犯行現場には複数人の足跡が残されていたからだ。
単独犯でないことは誰の目にも明らかだったのに、犯人は船員ただ一人として捜査は打ち切り。
市民は真犯人がさらなる事件を起こすのではと恐怖した。
当時パリには近代警察組織がすでに設立されていたこともあり、この事件をきっかけにロンドンでもその機運が高まった。
そして一八二九年、ついにロンドン警視庁が設立したのだが、
「一八六〇年のロード・ヒル・ハウス事件以降、警察も及び腰ですからね。結局労働者階級の刑事は
ため息交じりにワトソンが言った。
そうなのだ、この事件は上流階級の屋敷で起こった殺人事件で、容疑者はわずか十六歳の被害者の姉だった。
警察は姉を逮捕したものの、労働者階級の刑事風情が上流階級の令嬢を犯人と断定するなど世間が許すはずもなく、彼女は裁判を待たずに釈放された。
ところが、
「……確か、数年後に姉が自白したんだよな。自分が殺したって」
「その通り。警察は間違っていなかった。でも権力に屈したんですよ」
警察組織は権力に勝てない。
そしていくら証拠があがっていても、ならず者とか、外国人労働者とか、近所で噂の魔女や吸血鬼とか……非科学的な心象が犯人を決める。
英国を支配する上流階級にとって真犯人を暴くことはさほど重要ではなく、大衆が抱く事件への不満や不安を解消できるそれっぽい
「そこで君ですよ、シャーロック・ホームズ」
真面目に名前を呼ばれて少しどきっとした。
「警察も無能だと判明した今、ゴシップ好きの市民は
そこでいったん言葉を切り、標本を戻すとワトソンが振り向いた。
机のふちに浅く腰掛け、小悪魔的にころころと笑って挑発的な視線を向け、
「僕はそんな先見の明を持つ君に興味があるんです」
言いながらホームズ大全を差し出した。
挑戦状に見えた。
ワトソンからの、というよりはロンドン市民からの。
それはまさしく歴史が名探偵を欲した理由であって、シャーロック・ホームズが誕生した理由でもあった。
〝君は
声には出ていなかったが、挑戦状にはきっとそう書いてある。
この本を受け取ったら、僕が、シャーロック・ホームズとして事件を解決する?
ぱくぱく口を開閉していると、にっこりと笑ったワトソンが反動をつけて立ちあがり、その勢いのまま僕の胸にホームズ大全を押しつけた。
とん、という軽い圧が今ばかりは重く感じる。
「是非とも君と暮らして、このロンドンに新しい英雄が生まれるところを見てみたい……というわけで、君に依頼人を連れてきました」
「依頼人!?」
横をすり抜けて出口に向かうワトソンの背中を慌てて追いかけた。
展開が急すぎて頭の整理が追いつかない。
そもそもまだルームシェアを許可した覚えもないし。
しかしワトソンのほうはお構いなしという感じで階段ホールに続くドアを押し開け、
「すぐ下の馬車に待たせているので上着は不要ですよ」
肩越しに振り返りありがたい助言をしたかと思うともう前に向き直っている。
「おい、僕はまだ依頼を受けるなんて言ってない」
人の話を聞かないところも史実のワトソンとはえらい違いだ。
母親の策謀にすら気づけないというのに、どの面下げて探偵ごっこができるというのか。
凍てつく十二月の冷気が階段を駆けあがってきた。
かすかに感じていたスモッグ臭さが一層強烈になり、頭の芯がくらくらと揺れる。ワトソンのコートが風にあおられて大きくはためき、
「僕と君の最初の依頼人ですよ、ホームズ」
セリフが余計に脳をくらくらさせた。
揺れる裾から視線をあげると、物語の案内人のようにドアのそばで立っている。
「さあ、
ワトソンはそれだけ言って、足もとにぽっかりと口を開けている階段へもう歩き出していた。
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