第一章 ゲームオーバー?

第2話 一度くらい、ホームズのようにかっこよく

 同級生がまだサンタクロースを信じていたので本当はいないと告げたところ、反撃にシャーロック・ホームズは実在しないといわれた。


 しかしおじいちゃんの家にはホームズが日本を拠点にしていたときの探偵事務所があるので実在していることは明白なのだが、その事務所を学校まで持っていくことが出来なくて、どうすれば証明できるか一週間くらい悩んだ。


 結論としてはホームズの偉業が証明できれば実在も納得してもらえるだろうと、服についたシミが血痕かどうかを判定する〈シャーロック・ホームズ検査法〉を再現することにした。


 おじいちゃんちの探偵事務所で血痕を得るために自分の手首をカッターナイフで切ろうとした矢先、母親がすっ飛んできて未遂に終わる。


 それ以来、母親はおじいちゃんちに行くことを頑なに嫌がった。

 小学校三年の夏のことだ。

 

「一ヶ月ぶりだし、まずは掃除から始めるかな」


 指先がかじかむ十二月。

 木枯らしを受けてばらばらと震えるプレハブ造りのガレージに向い「あれ、鍵どこやったっけ」と体のあちこちをぱたぱたと叩く。


 胸ポケットから出てきた鍵で解錠し立てつけの悪くなったシャッターをつま先で蹴りあげると、眼前に広がるのはだ。

 入り口に吊り下げられたはたきを武器に、埃を薙ぎ払って進む。


 シャーロック・ホームズの事務所といっても、もちろん本物ではない。

 小さい頃はホームズがモリアーティ教授を追って来日したときの拠点と信じていたが、中学に上がる頃にはおじいちゃんが揶揄っていたのだと理解した。

 

 ここはおじいちゃんが自宅のガレージを改装して作ったホームズ記念館。

 十四畳ほどの空間に無理してホームズの事務所を再現したので少々ごたついている。

 左に見える暖炉は建築基準法に逆らえず見せかけだが、右の実験机は神経質なほどとしている。

 本物そっくりを目指したおじいちゃん力作のディスプレイで、綺麗好きな母親が整頓した日には三日三晩寝込んでいた。

 日本では滅多に見ない幾何学模様の赤い壁紙と赤い絨毯も、テーブルやソファに至るまで、すべてイギリスから取り寄せたこだわりの品だ。


 僕の週末はこの家に始まり、この家に終わるといっても過言ではない。

 金曜日になると学校から直接この家に来て、月曜日の朝までここで過ごす。

 そして電車で二時間をかけて、ここから学校に通っていた。


 しばらく掃除をしなかった間にかなり埃っぽくなっていた。

 咳き込みながらもはたきがけをして、ホームズの関連書籍で埋めつくされた本棚へと移動する。


 大枚叩いて手に入れた初版本であったり、解説本であったり。

 一冊一冊丁寧に埃を落として、とある一冊を前にしてぴたりと動きが止まった。


 冊数が多すぎるためほとんどの本は棚差しになっているが、一冊だけ、表紙が見えるように飾られている本がある。

 文庫本サイズの表紙には《Sherlock Holmes ~シャーロック・ホームズ大全~》と金の箔押しで印字されていた。


「まさかこんな立派な本まで作っちゃうなんてな」


 それはおじいちゃんが町内会の読書コンクール用に執筆したシャーロック・ホームズのである。

 しかし感想文と呼ぶにはあまりにも分厚い。

 総ページ数は三百ページを優に超え、もはやシャーロック・ホームズに関する同人誌と言ったほうが適切だろう。

 ホームズの華麗なる推理から、時代考証、科学捜査、その洞察――それらが一冊にまとまった、おじいちゃん肝いりの一冊である。


 こんな立派な装丁だが、一般流通しているものではない。

 気合いの入りすぎたおじいちゃんが印刷所を経営していた同級生に頼み込んで刷って貰った、世界でたった一冊の本だ。

 おかげで町内会長にもシャーロック・ホームズへの熱意が伝わり、コンクールでは最優秀賞を受賞した。

 あのときは二人して、盛大なお祝いをしたものだっけ。


 葬式以来、再び目頭に熱を感じてぐるりと周囲を見渡した。

 今際の際でおじいちゃんとした約束が繰り返し脳内で再生される。


 ――〝ホームズ記念館を頼んだ〟


「もちろんだ。この記念館は、僕にとっても大切な場所だから」


 ここを管理するのはこれからは自分の役目だ。

 おじいちゃんお手製のホームズ大全を手に取り、その埃を払おうとしたとき、


「あら、手伝ってくれるの? 助かるわ~」


「!?」


 背後からかかった声に、思わず肩が跳ねた。


 ぎくしゃくと振り返ると、逆光を背に仁王立ちする母がガレージの戸口に立っていた。

 片方の口角をつりあげ、らんらんとした目で笑っている。

 母親がこういう顔をしているときは、大抵良からぬ事を考えている。


「いつからそこにいたの!?」


 ぎょっとして訊ねると、母親がけろっとした顔で答えた。


「『まずは掃除から始めるかな』あたりからよ?」


 序盤じゃないか。

 どうやら洞察力というものが完全に欠如しているらしい。

 シャーロック・ホームズにはなれないな、なんて寂しく独りごちる……と、母親の言葉に違和感を覚えた。


「手伝うって、どういうこと?」


 きょとんと立ちつくすのを横目に、母親がガレージに入ってくる。

 無造作に実験机に並べられたホームズグッズをつまみあげると、眉間に皺を寄せた。


「遺品整理よ。ここを開けて、車を入れるの。今日が納車だから急がないと!」


 女王様のように母親が顎をしゃくる。

 見計らったように作業着姿の男が戸口からひょこっと顔をだし、おざなりな会釈とともに近づいてきた。


 手には小汚い、使い古した段ボールを抱えている。

 大事な物を入れるようには到底見えない。

 あれに入れるとするならば、廃棄品が妥当だろう。

 だとすれば、遺品整理って、もしかして。


「これ、処分するの……!?」

「そうだけど?」

「な……」


 この瞬間、母親が悪魔に見えた。


「仕方ないじゃない。仕事でどうしても車が必要だったのよ」


 こちらが向けた批難の目を逆に批難するように一方的に捲したてると、作業着男に指示を出す。

 瞬く間に一つめの段ボールが埋まって、男の手が二つめに伸びたところではっとなった。


「勝手に決めるなよ!!」


 ほとんど無意識のうちに母親の前へと躍りでて、ホームズグッズを庇うように立ちはだかっていた。


「ここにあるものは何一つだってもって行かせない!」


 自分から出た大声に自分自身で驚いてしまい、腰が引けそうになるのを必死に堪える。

 もとよりあまり弁が立つほうではなく、感情をむき出しにするのも苦手(だからこそホームズに憧れるわけだが)な息子が出した大声に、母親のほうも若干怯んだように無言を返していたが、


「我が儘を言わないでちょうだい。もう高校生なんだから」


 不機嫌そうに大きな嘆息を吐いただけだった。


「我が儘? 本気でそう思ってるのっ……」

「手伝う気がないならさっさと出て行ってくれる? 何にも出来ない子供のくせに、これ以上お母さんを困らせないで」

「そんな、こと、は」


 反論したつもりだったが、その声は途中で尻すぼみになって最後まで言えなかった。

 だってそれは事実で、言い返せるだけの言葉を持ち合わせていなかったから。


「…………わかった」


 現実は厳しい。

 僕はホームズのように知恵も回らなければ洞察力もない。

 母親が車を買おうとしていることにも気づけないし、起死回生の打開策なんか思いつかない。


 口とは裏腹に足を引きずるようにして入り口に向かうと、表通りでは作業着男が縁石にトラックを乗りあげていた。

 その側には段ボールに詰められてしまったホームズグッズが置かれていて、ティーカップが一組、太陽光に照らされて鈍く光った。

 捨てられていくカップが走馬灯を見るように、ふいにおじいちゃんとの思い出が蘇る。


 毎週末、ここに泊まり込んではおじいちゃんとホームズについて語り合った。

 夜が更け、空が白み、朝鳥が泣く頃になっても……それでも語りつくせなくて。

 眠い目をこすっていると、おじいちゃんがいつも珈琲とサンドイッチを作ってくれたっけ。

 サンドイッチの具は、決まってホームズの好物であるローストビーフ。

 珈琲は必ず、ポット二個分を二人で飲み干す。

 おじいちゃんの口癖が脳裏によぎる。


 ――『バスカヴィル家の犬』で、ホームズはポット二個分の珈琲を飲むんだ。


 高校生とか、ホームズみたいにはなれないとか、そんなのはおじいちゃんとの約束には全く関係ないはずで。


(何諦めようとしてるんだよ、僕は)


 ホームズを守りたい気持ちは誰にも負けないはずなのに、それに背を向けるなんて何を考えているんだ。


 踵を返してホームズ大全を手にしたとき、視界の端に一台の乗用車がガレージを通り過ぎるのが見えた。

 心臓が跳ねるのを感じながらもその車を指差して、


「あれ? 母さんが買った車ってあれじゃない?」

「え、嘘ぉ。もう来たの?」


 母親が振り返ったとき、車がちょうど角を曲がる。

 ここからは遠すぎてよく見えないけれど、途端に母親が血相を変えて飛びだした。


「あら本当だわ!」


 瞬間、勢いよくシャッターを引き下ろす。


「え、何――」


 慌てて戻ってきたらしい母親の声がする。

 内側から鍵をかけ、どん、とガレージの戸に背中を預けるとずるずる滑り落ちてそのまま座り込んだ。


「嘘だよ、車なんかまだ届いてない。走っていたやつを適当に指差しただけだ」

「はあ!? なんでそんな嘘をつくのよ!? 開けなさい!!」


 母親の怒りのボルテージがあがっていく。

 黒板を爪で引っ掻くような金切り声で叫ばれ、激しくシャッターが叩かれた。

 その煩わしい声に、気づけばこちらも声を張りあげている。


「勝手に処分するとか言うからだろ! やめるって言うまで、僕はここから出ないからな!」


 現実は厳しい。

 しかし、何もせずに負けを認めることはできないくらいの、ちっぽけな負けん気だけは持ち合わせていたので。


 一度くらい、ホームズのようにかっこよく、立ち向かってみてもいいんじゃないか。


「ふざけるのもいい加減にしなさい!」


 内心を見透かすような母親の声に、身がすくむような気持ちがした。

 それでもホームズグッズをむざむざ奪われることに比べれば幾分もマシで、ひ弱な心臓を守るように膝を抱えてうずくまり「ふざけてなんかないっ……」と精一杯の反論。


 実はわずかに期待していた。

 さすがに一人息子がここまで言えば諦めるのではないかと。

 しかしすぐさま、その考えが甘かったことを思い知る。


「いいわ、合い鍵を持ってくるから」


 ……え、そんなのあるの?


「シャッターが開いたら説教ですからね。覚悟しなさい」


 遠ざかっていく足音にじとりと肝が冷えていく。

 まずい。 

 絶対に意地になって、全てを捨てるに決まってる。


「何か……何かないか……」


 ホームズ大全を抱えた四つん這いでよたよたと進み、ごちんと額を打ちつけた。

 情けない格好で額をさすり、ぶつかった相手を確認する。

 古めかしいテーブルセット。

 その向こうにはソファも見えている。


「そうか……! これでバリケードを作れば――」


 こんなのは気休めだとわかっている。

 だけど、守ると約束したから。小脇にホームズ大全を挟み込み大きなソファを一気に引き寄せ、


「……っ、重――」


 しかし焦る気持ちが良くなかった。

 力任せに持ちあげたソファが何かにぶつかり、ぎし、と軋む音がした。


 ほとんど反射で振り仰いだ刹那、身の丈を超える本棚がバランスを崩して倒れ込み、頭上に大きな影を落とす。一時いつとき息が止まった。


 かしいだ本棚から書籍があふれ、見開かれた瞳の中でみるみると大きくなっていく。

 唐突に、世界が高解像度のスローモーションになった気がした。

 ノイズ交じりだった視野は鮮明化され、表紙に巻かれた油紙のシャリシャリとした質感までもがよく見える。

 オタクの性なのかこんな状況でも文字を目で追ってしまい、一冊ずつの思い出が走馬灯のように蘇った。


 緋色の研究、初版本だ。

 まだらの紐、初めて読んだ作品。

 最後の事件は、泣いたなぁ……。


 我に返ったときにはもう逃げる余地もなく、本による連続打撃を一身に受け、

 最期に、柔らかい物が何かに押しつぶされるような、湿っぽい音がガレージ中に響き渡った。


 そうして僕は、十七年の生涯に幕を閉じた。

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