第16話 WHO is Loser?
順繰りに教会の中を見て回った。
左の部屋は控え室と、おそらく牧師が住んでいたと思われる私室だった。
右は物置部屋と、小さい机が並んだ小部屋で……手当たり次第にドアを開けていくが、別段変わったところは何もない。
浮浪者が寝泊まりをした形跡はあったが、それも連続心中事件に繋がるかと言われると首をかしげるしかなかった。
どう見ても普通の浮浪者が物乞いで集めた食べ物の屑や、タオルケットにしか見えないからだ。
「外れですかね?」
「うーん」
一通り捜索し尽くしたあと、ワトソンが言った。
僕は諦めたくなくて、ステンドグラスが落とす明かりの下を右往左往する。
ここで手がかりが出なければふりだしに戻ってしまう。
何かないか……。
そこで、まだ開けていないドアがあることに気づいた。
「あれは?」
祭壇横に見える木製の扉を指差すと、ワトソンもそうだったというような顔をした。
「確かにあそこはまだでしたね。間取り的に庭へ繋がっていそうですが……行ってみますか」
望み薄だが、ここまで来たなら調べない手はない。
ドアノブを握ると、こちらも抵抗なく回転する。
無造作に押し開けると、濃灰色だった室内に霧で濁った太陽光がわずかに射した。
濁っていると言ってもそれまでに比べれば圧倒的に光量が多い。
くらっと目眩を覚えて顔を覆い――
明順応した視界が最初に捉えたのは、庭の中程に建造されているガラス張りの温室だった。
中の草花は長いこと放置されていたのか伸びきっていて――それらが燃えていた。
温室の天井まで達した火柱が赫々とした熱を産み太陽光を底あげしている(異様に眩しい原因はこれか!)。
密閉度が高いのか、燃焼によって立ちあがった黒煙が外に逃げずに内部で渦を巻いていた。
そのせいで視界が悪い中、一際大きな爆発が起こり、一瞬だけ煙が霧散して内部が見えた。
温室の奥まった壁際に一脚の椅子があり、女性が磔になっていた。
猿ぐつわを噛まされ、手は後ろに回されている。
体幹も足も太い縄が食い込むくらいきつく縛られていて紫色にうっ血していた。
そのくせ熱が肌を火照らせるものだから赤と紫色のまだら模様が浮かんでいる。
吹き上がる炎熱が彼女の髪をチリチリと焦がし、それを見ておそらく叫んでいるのだが猿ぐつわのせいでかき消されていた。
ドレスの裾にはまだ引火していない……が、火の勢いからするとそれも時間の問題だろう。
「ホームズ」
ワトソンが耳打ちする。
「イライザです!」
差し出されたのは依頼人から預かっていた妹の写真だった。
イライザで間違いない。
と、温室の中でもう一つの影が動いた。
黒煙の中心で右手にたいまつ、左手に酒瓶を持ち、火をつけて回っている赤毛の男――
「あれはもしかして……ニック?」
血のように赤い髪、整った目鼻立ち。
瞳はモスグリーンをしていて、一言で言えば眉目秀麗な男だった。
クラブハウスで聞いた通りの人相である。
声は聞こえないがケタケタと気が狂ったように笑っている。
一切の感情が乗っていない空虚な双眸が、身体の芯からぞっとさせた。
美丈夫がする狂気の笑みに、こちらまで発狂しそうになる。
「~~~! ~~~っ」
イライザがこちらに気づき、必死に何かを訴えてくる。
その顔は恐怖に歪んでいた。
明らかに同意の上の心中ではない。
無理心中――殺人である。
まさかちょうどよくニックの犯行現場に出くわすと思っておらず、虚をつかれて一瞬身体が固まった。
その間にもニックはたいまつをイライザへと差し向ける。
燃焼で起きた上昇気流がイライザのスカートをぼわっと浮き上がらせた。
裾が風に巻き取られ、うねってたいまつへ吸い込まれる。
綿製のスカートは一瞬で着火し、オレンジ色の火種が導火線を辿るように裾から走り出した。
全身が火だるまになるまで、あと幾ばくもない。
「おい、やめろ!」
気づけば僕の大声が響いていた。
音を立てずに忍び寄るとか、第三の敵や罠を警戒するとか、そういったセオリーはすべて頭から吹き飛び、温室へ向けて全速力で地面を蹴る。
「あーもう、知りませんからね!」
ワトソンも呻くように声をあげて、あとに続く。
と、弾かれたようにニックの瞳がこちらを向き、僕の姿をそこに映した。
さらに口角が吊りあがり、繊月のような鋭さになる。
その笑顔がなんだか無性に引っかかった。
それでも依頼人を助けられるタイミングに居合わせたのだ。
ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
迫る僕たちを見ても、ニックは不敵な笑みを崩さなかった。
一歩近づくたびに小石ほどの違和感が鳩尾に積み重なっていく。
進むか、止まるか――
しかし小石程度の重みでは天秤が傾かず、足を止めるには至らなかった。
重石を背後に置き去りにするように速度をあげる。
大丈夫、間に合う。
イライザと目が合った。
それまで絶望に喘いでいた瞳の奥がじんっ……と潤み、温度の感じられなかった虚ろな瞳に熱っぽい光が宿ってキラキラと輝く。
希望、願望、祈り、安堵――入り乱れた感情が手に取るように伝わる。
大丈夫、間に合わせる。
イライザの心境の変化に気づいたのか、ニックが嘲るように干し草へとたいまつを落とした。
まずい……と思ったのもつかの間、隆起した炎にひやりとしたが、それを最後に火の手が弱まった。
チャンス!
僕はドアノブに飛びついた。
瞬間、ニックの顔がこれまで以上におぞましく笑った。
それとほぼ同時に、真後ろからワトソンの絶叫が響く。
「だめです、ホームズ!」
「え……?」
ワトソンの手が腰に伸び、くんっと背後に引っ張られた。
最後の小石が天秤を傾ける。
しかしもう遅かった。
ドアが開き、風が一気に温室内へと流入する。
刹那、火花が爆ぜた。
弱まっていた炎が爆発的に再燃する!
バックドラフト。
その最大の特徴は、空気不足でいったん鎮火したように見えること。
どうして気づけなかったんだろう。
こんな初歩的なことを――!
目がくらむような閃光と耳をつんざく爆発音が僕の全感覚を麻痺させた。
頭が真っ白になり身動きの取れない身体に、続けて黒煙と炎が襲いかかる。
もろに吸い込み全身の力が抜けていく。
「ホームズ!」
ふいに身体が持ちあがり熱が遠ざかっていく。
尻もちをついた僕をワトソンが肩に担いで、燃えあがる温室から逃げていた。
中庭を駆け抜け、教会の裏口が近づいたあたりでようやく視界が戻り始める。
しかし身体は未だ動かず、僕はその地獄を見ていることしかできなかった。
爆発、燃焼。
加速する火の手。
その中心ではイライザが泣いていた。
そして――ニック自身もマッチ棒のように燃えあがりながら、尚も火を強くしようと酒を振り撒いていた。
まずい、このままではイライザが消し炭になってしまう。
必死に手を伸ばすが、ワトソンが温室から遠ざかっていくせいで届かない。
「ワトソンっ……イライザがまだ中に――!」
「もう間に合いません、手遅れです!」
間に合わないってなんだよ。
まだ目の前に依頼人がいるじゃないか。
再び爆発が生じ、イライザが断末魔の叫びをあげた。
しかし轟々と燃えさかる音と教会を取り巻く喧噪に飲まれて、彼女の声が曖昧になる。
それが、僕たちに見捨てられるイライザの存在と重なった。
ワトソンの背中を殴りつけて、その拘束から逃れようともがく。
大丈夫、今助けに行くから。
探偵は、どんなことがあろうとも、依頼人を見捨てたりはしないんだ。
なのに――ワトソンが勝手に、温室から遠ざかっていく。
「諦めてください! あなたは完璧な人間じゃないんですから――」
うるさい、黙れ。
そんなことわかっているよ。
僕はホームズじゃないんだから。
本物のホームズならちゃんとできたんだ。
最初の小石が乗った瞬間に、天秤を正しい方向に傾けることができたんだ。
鎮火した瞬間にバックドラフトの可能性に思い至って、うかつにドアを開けることもなかっただろう。
そもそも、こうなる前に教会へとたどり着いていたかもしれない。
しかし僕にだって譲れないものがある。
一度依頼を受けたのなら、死んでも依頼人を見捨てないということ。
「だめだワトソン! 戻らないと!!]
そもそも僕は死なないんだ。
お願いだから助けさせてくれ。
諦めろだなんて言わないでくれ。
ワトソンにだけは、そんなこと、言って欲しくなかった――
「離せ……離せよ!!」
振り払おうともがくが、力の入らない身体ではそれすらも叶わない。
「君だけは死なせません!」
耳元でワトソンの声が響く。
だめなんだよ、それじゃあ。
探偵だけが生きて、依頼人が死ぬなんて。
ふとニックの顔が脳裏に浮かび、幻覚が僕を嘲り笑った――
「あんたの負けだよ、探偵」
嫌だ、死なせない。
死なせるもんか!
死の苦痛は、孤独は、虚無感は、絶望は、僕が誰よりも知っているんだから。
誰にも、あれを味わわせる訳にはいかないんだ。
誰にも――
ワトソンが打ち捨てられた長椅子の影に僕を押し込み、かばうよう覆い被さった。
刹那、一際大きな爆音があたりを支配した。
太陽が落ちたのかと錯覚するほどの光量が僕らを包み、世界を真っ白に塗りつぶす。
時間が止まったのかと思うような長い空白のあと、次第に周囲の喧噪が戻ってきた。
ワトソンの拘束が緩んで自由になると、モグラのように隠れていた長椅子から顔を出す。
祭壇のあった場所は綺麗さっぱり吹き飛んでいた。
ガラス片がここまで飛んできており、身を隠していた長椅子に突き刺さってキラキラと残炎を反射している。
風通しのよくなった庭には、人影なんてもう見当たらなかった。
その日、イライザとニックは死んだ。
依頼は、何一つ解決することができず、
ただ、探偵だけが生きている。
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