第四章 YOU are Loser.
第17話 今、ここで、殺してみてくれよ
翌朝、一八七一年十二月六日。
僕が、この世界に来て初めてたどり着いた、翌日。
それを新聞の日付で確認する。
印刷されたばかりの紙面には胃液を押しあげるような工業用オイルの匂いが染みついていて顔をひそめた。
新聞に使われているインクには脱臭効果があると聞いたことがあるが、コールタールの強烈な悪臭には生活の知恵もタジタジなようだ。
新聞は暖炉側の排紙入れの、一番奥に押し込められていた。
玄関まで出て行ったのに見当たらず、朝からゾンビみたいに気力のない足取りで探し回る羽目になってしまった。
どうやら僕より早く起きたワトソンが隠してしまったらしい。
排紙入れから取りだして一面記事に視線を落とすと、その理由をすぐに察した。
黙読し、最後まで読む。
途端、目頭が熱くなった。
見出しに躍る文字は、こうだ。
『連続心中事件、二十二件目が新たに確認。駆けつけた探偵の手により、現場爆発』
さらに奥を漁ると、普段は購入しないような大衆紙も出てきた。
ワトソンが買って読んだのだろうか。
一面はやはり心中の記事だ。
こちらのほうがより煽情的に事件を取りあげていた。
『新たなる被害者! 二十二件目は探偵突入により、若き二つの命が奪われる』
『無能探偵、心中被害を拡大させる。探偵の独断行動を許すな』
「若き命が、奪われる……」
呆然と記事を読みあげたとき、一階から玄関をノックする音が響いてきた。
音は次第に大きくなり、最後にはドアを壊すような勢いにまで発展する。
そしてついに、罵声が響いた。
「こんの人殺し! 出てこい!! 俺の……俺の妹を――――――ッ!!」
無気力に立ちあがり、事務所のドアへと向かう。
ノブを回して押し開けると「ととっ……」という声がドア越しに聞こえた。
俯いた視線に品のいい革靴が映る。
靴から伸びる長い足を辿っていくと、ワトソンと目が合った。
何も言わず、無言で首を左右に振ると、僕を事務所の中へと押し戻した。
と、ワトソンの視線が僕の手に流れ、途端にため息が聞こえた。
「何のために隠したと思っているんですかねぇ」
呆れた声とともに、手に持っていた新聞紙が抜き取られる。
奪い返す気力もなく、ワトソンが新聞をビリビリに破るのを見ていた。
しばらくして、むせび泣く声も聞こえなくなった。
「紅茶と珈琲、どちらがいいですか」
破った新聞を丸めながら、ワトソンが呑気な声音で訊いた。
「ここに置いてある紅茶は趣味がいい。普段世話をしてくださっているという大家さんのセンスでしょうか。今は旅行中とのことですがお会いできるのが楽しみですね」
棚に並んでいる茶葉の瓶を手に取りながらこちらを振り向いた。
しかし答える気力もなく黙っていると、
「ホームズ」
変わらない調子で、それでも少し大きくなった声で、
「忘れましょう」
と言った。
「忘れる?」
僕は復唱した。
「あれを忘れろって?」
「もう、あれは助かりませんでした」
事務的な声が続く。
「温室は密閉されていて、内部はすでに酸欠となり新鮮な酸素を欲していました。そして、あの状態で酸素を供給せずに助けることはできませんでした」
「僕がドアを開けなければ――」
「その場合は、気道熱傷や一酸化炭素中毒で死ぬだけです。どちらにしろ、イライザは助からなかった」
理屈は、確かにそうかもしれない。
しかし。
「助からないなら、見捨ててもいいと?」
目の前でワトソンが困った顔をした。
しかしとっかかりの言葉を口にしてしまうと、それまでなんとかこらえていた心の中の堤防があっけなく決壊して、感情むき出しの言葉が溢れた。
「探偵だけが助かってのうのうと生きて、何になるって言うんだ」
「また別の事件を解決できます」
「そこでまた依頼人が死んだら!? それでも『仕方なかったよね』で済ますのか!?」
「ホームズ、その前提で話していては埒があきませんよ。僕たちは完璧ではありません。時には失敗もするでしょう。ですがそれぞれの事件で全力を尽くせば、必ず結果は出るものです」
「それじゃあだめなんだよ!!」
教師のような淡々とした声につい口調を荒らげて言い返した。
こんなことを言ってもワトソンを困らせるだけだと思ったが止まらなくなっていた。
「僕はホームズなんだ! だから助けに行かなきゃいけなかったんだっ……」
「ホームズだろうと、あの火に飛び込んでいたら死んでいましたよ!」
「僕は何をしたって死なないんだよ! だから放っておいてくれればよかったのに!!」
「……いい加減にしてください」
ワトソンの声がワントーン下がり、ナイフのような鋭い声音が僕の心臓を突き刺した。
「冗談でも言っていいことと悪いことがありますよ」
と底なし沼のような深く暗い瞳で見下ろされ、若干尻込みしながらも食ってかかった。
恐怖よりも、まだほんの少しだけ意地が勝っていた。
「冗談なんかじゃない! なんなら今ここで殺してみてくれよ!! そしたら僕はもう一度やり直せる! イライザを見殺しにしたときみたいに僕のことも殺――」
「ホームズ!!」
ぱしぃんっ!
ワトソンの平手が頬を叩き、はっとなって言葉が途切れた。
顔をあげると、ずっとすれ違っていた視線がようやく交錯する。
ゆっくりと瞬きし、再び目を開けたときには、ワトソンはいつもの余裕綽々な顔に戻っていた。
しかしふと視線を下げると、ワトソンが拳を握りしめている。
ぷるぷると震えるほどに、強く。
「あ……」
それを見た瞬間、自分が今、どれほど愚かでひどいことを言ったのか、理解した。
ワトソンだって、依頼人が死んで悔しくないわけがないんだ。
「ちが、う……こんなつもりじゃ――」
こんなことを言うつもりじゃなかったのに、かっとなって、自分のやるせなさをワトソンに八つ当たりしただけだ。
これでは、駄々をこねて困らせる子供じゃないか。
「ホームズ」
いつも通りの長閑な声がかかった。
だがそれが逆に辛かった。
責めてくれたらいいのに。
でも、たぶんきっと、ワトソンは責めないだろうなと思った。
普段通りの余裕綽々な顔をして、全部呑み込んで、笑いかけてくるような気がした。
「っ……」
ワトソンの手が伸びてきて、それを受け入れられずに振り払った。
その勢いのまま、事務所に隣接された部屋に逃げ込むと、ドアを勢いよく閉めた。
通せんぼするようにドアにもたれかかると、くぐもった声が向こう側から聞こえてきた。
しばらくその声は聞こえていたが、全く頭に入ってこなくて。
結果答えることもできずに無言を貫いた。
と、深いため息が聞こえて、足音が遠ざかっていく。
事務所のドアが開き、階段を上っていく足音が遠く聞こえた。
途端、足の力が抜けて、背中でずるずるとドアを削るようにして座り込んだ。
自分の膝小僧に顔を埋めて、縮こまる。
そのまま、日が暮れるまで。
ずっとそうしていた。
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