第30話 理由なんて一つだけだよ
ワトソンの背後、ニックの握る銃が火を噴くのが見えた。
ワトソンをかばうように飛び出すと、途端にどすっという鈍い衝撃が胸に叩き込まれて息が詰まった。
また、やり直しだっ……。
僕はぐっと臍を噛んだ。
だが僕は諦めない。
絶対に次こそ、ワトソンを説得して救って見せる――
もう何度目かわからない、魂が頭の天辺から抜けていくような喪失感を覚えながら、僕の意識は真っ白になった。
(どこに……戻ったんだろう……)
意識が次第にはっきりしてきて目を開けた。
真っ先に飛び込んできたのは無垢材の天井だった。
どうやら地べたに寝かされているらしい。
周囲から喧噪が聞こえてくるが、どこかくぐもっていて遠く聞こえる。
耳元でクラッカーを鳴らされたあとみたいだ。
そんな状況、今までにあったかなあ……。
ぼんやりする思考で周囲へ視線を流すと、刑事や警察官たちが右往左往しているのが見えた。
と、足もとから一際大きな雑音が聞こえて上体を起こす。
目に飛び込んできたのは複数の刑事によって床にねじ伏せられているニックの姿だった。
自殺防止のためか口にハンカチが突っ込まれていて、叫んではいるが言葉になっていない。
「え……? 死んで、ない?」
掠れた声でそう呟いた瞬間、
「お前……爆弾のときといい死にたがりか?」
声が降ってきて首をくてんと反らせると、レストレード警部の顔がどアップで飛び込んできた。
身をかがめてこちらを覗き込んでいる。
驚きすぎて言葉も出ないでいると、これ幸いとレストレード警部のお説教が続いた。
「今回の突入も行き当たりばったりすぎるんだよ。なんだ、あの緊張感のない伝言は。部下も怪訝な顔をして伝えてきたぞ。緊急事態なら緊急事態とはっきり言え。というか伝言じゃなくてお前が来い。一人で突入することがそもそもの間違いで……」
延々と続きそうな小言を半分くらい聞き流しながら、取り押さえられているニックと、その少し離れたところに落ちている拳銃を眺めた。
万が一にも奪われないように、一人の刑事が足で踏んづけている。
「僕は……依頼人や大切な人たちを守れるのなら、命なんて惜しくないです」
「あのなあ」
声と同時に頭を思いっきり殴られた。
げんこつなんておじいちゃん以来で(確か金ぴかホームズグッズを持ち出そうとしていたカラスに挑んだときに殴られた)現代っ子には耐えがたい痛みが脳を揺さぶる。
「痛ぁ……」
「俺は命を粗末にするガキが嫌いなんだよ! 一個しかねぇんだから大切にしろ!!」
「すみません……」
口ではそう言いつつ、たぶん顔はぶすっとしていたと思う。
だって、僕の命は対して尊くもない〝使い回せる命〟だけれど、ワトソンやレストレード警部は違うじゃないか。
僕はただ、尊い命を守りたかっただけなんだ。
……と考えてから、ふと四度目のときの記憶が蘇って胸を締め付けられた。
そりゃあ、まあ、僕にだって取り返せないものもあるけれど――
「そうだ、ワトソンは!?」
はっとして顔をあげる。
ワトソンは無事だろうか。
僕が生きているということは、やはりワトソンが被弾したのでは。
身体ごと振り返ってレストレード警部を仰ぎ見ると、
「まずはてめぇの心配をしろ」
と、胸を小突かれて息が詰まる。
見ればコートから白煙が立ちあがっていて焦げ臭い。
ぎょっとして手で触れてみると虫食いみたいな穴が開いていた。
弾丸ほどの小さい穴に指先を通すと、撃たれたのはやはり自分だったのだと実感できて……警部にばれたら絶対に怒られるだろうけれどもほっとした。
あれ、でも……ならなんで生きているのだろう。
「ったく、ポケットに何を入れてやがんだか」
その一言で思い至り、ポケットに手を突っ込んだ。
出てきたのはホームズ大全で、煤けた表紙のど真ん中に銃弾がめり込んでいる。
こんなことになると思って持ち出したわけではなかったが、なんとなく、おじいちゃんが守ってくれた気がした。
本を一瞥したレストレード警部が「自叙伝だあ? そんな遺書みたいなもんを書くから死に急ぐんだっ」とぼやきながら上半身を起こした。
視界すべてを覆っていたハスキー顔が退くと、その背後にもう一人、別の人物が立っていたことに気づく。
「ワトソン! 生きてたのか!!」
立ちあがって駆け寄り、無事を確かめるようにぺたぺたと触りまくった。
そこでふいに初日のことを思い出す。
同じように触りまくって、手をひねりあげられたんだっけ。
「ごめん!」
ぱっと手を離し、反撃に備えて身構えていると、
「なんで――」
ワトソンがくしゃっと顔を歪めて口を開いた。
掠れた声を絞り出してなんとか口にだしたのは、
「助けてくれなんて、言ってないんですよ……」
という、憎まれ口だった。
それ以上は言葉にならず、口を真一文字に引き結んで俯いている。
「なんだよ、可愛げがない――」
不平を言いながらワトソンの顔を覗き込むと、その顔は言葉とは裏腹に少し紅潮していた。
え、泣く……?
一瞬そう思ったのだが、涙が溢れることはなかった。
涙に見えたのは、瞳の奥にある熱っぽい光だった。
底なし沼のようだった瞳が、今は生気を取り戻している。
こんな顔、初めて見た。
ワトソンは嫌だろうけれども……ちょっと嬉しい。
なんて不謹慎なことを思いながら、
「理由なんて一つだけだよ」
と口を開いた。
そう、たった一つだけなのだ、
「僕がシャーロック・ホームズで、君がジョン・ワトソンだからだよ」
そう繰り返すと、小さく息を飲んだ音が聞こえた……が、それ以上の反応はなかった。
まあ、今はまだこんなものかなと思う。
今日の記憶がリセットされずに、ワトソンにも累積されれば……いずれ、きっと。
「そうだ! こんな悠長にしている場合じゃなかった……警部、ニックの投獄方法についてですが」
「あ?」
僕の言動で不機嫌になった顔のまま、レストレード警部が応じた。
ぎろりとした眼光にどうしてもひるむ。
言いにくいなあと内心で呻きながら、それでも言っておかなければならず言葉を続けた。
「ニックの能力は蘇りではありません。死をきっかけに別の肉体へ転移する……一言で言えば〝死に移り〟です」
「なに? 兄弟説はどうなった? 死に移りなんて、そんなものがあり得るわけ――」
「それがあり得るんです。なぜなら、ニックは錬金術を使っているから」
「錬金術だって? そんなオカルト話、最近じゃもう一部の変わり者しか信じてないぞ」
「でも警部だって二十一人のニックを見たでしょう? あんなそっくりな他人は用意できない。なら錬金術でも何でも、何らかの方法で蘇っていると考えるほうが妥当だと思いませんか?」
「それは、まあ……確かに」
眉間に深い皺を寄せ、警部が頭を抱え込んだ。
「信じてください! 取り調べで必ず納得のいく説明をして見せます! 嘘だったらホットチョコレート百杯おごったっていいです」
僕の言葉を聞きながらしばらくうんうんと唸ったあと、
「わかった、とりあえずお前を信じよう。……別にホットチョコレートにつられたわけじゃないからな。俺は別に甘党じゃない」
肩をすくめて深いため息をつきながらもレストレード警部が同意した。
最後の一言は絶対に嘘だと推理力ゼロの僕でもわかった。
「ありがとうございます。詳しい話は取り調べで伝えますが、今はとにかくニックを死なせないでください。蘇りなら死体を鍵つきの棺桶に閉じ込めればよかったのですが、死に移りでは死んだ瞬間に別の場所で復活してしまい逃げられてしまいます」
「了解だ。……たく、錬金術だなんて。やんなるぜ全く」
と、警部がぼやいた。
あまりのも軽いなと思ったけれど、このときばかりは警部の軽さに感謝した。
そんなやる気のない態度とは裏腹に、やはりレストレード警部は敏腕刑事だった。
すぐにニックを拘束している男たちに近づいて何かを耳打ちすると、途端に男たちが血相を変えて留置所を飛び出していく。
しばらくして戻ってきた彼らの手には新しい拘束具が山盛りで抱えられていた。
見慣れないものばかりだったが、それらを上手く使ってニックの身動きを封じていく。
それを見てようやく安堵した僕は、全身の力が一気に抜けてその場にへたり込んだ。
「ホームズ!?」
途端に、ぎょっとした顔でワトソンが近づいてきた。
心配してくれたのだろう。
しかしすぐさま俯いて、言葉を飲んだ。
何と言っていいのかわからない、と顔に書いてある。
僕も一瞬言葉に詰まり、二人して無言の時間を過ごしたとき――ふいにおじいちゃんの言葉が頭をかすめた。
――『ホームズは正義の味方だが、通り一辺倒のヒーローじゃあない。殺人犯にやむを得ない事情があると思えば、それを見逃すこともある。善も悪も超越して、自分の正しいと思ったことを貫き通す。そこがかっこいいんだよなぁ……』
と、〈脅迫者ミルバートン〉の話を読みながらしげしげと言っていたのを思い出して、僕の口が自然と開いた。
「いいよ、僕は君を信じるって決めたから」
ワトソンの目が丸く見開かれ、ぎくしゃくとした動きで僕のほうを向いた。
僕も戸惑い半分の曖昧な顔を浮かべて、それでも言葉に決意を込めた。
「理由があるんだろう? だからいつか、言いたくなったら言ってくれれば……それでいいからさ」
心の底から笑って見せた。
当のワトソンはといえばなんとも言えない表情を浮かべて目を伏せた。
少し逡巡したような間があってから、ふいに何かを言おうとして口を開いたように見えた。
「そうだ、お前ら」
と、戻ってきたレストレード警部が両手をポケットに突っ込みながら声をかけてきた。
「甘いもの好きか?」
「好きです」
「甘いもの……?」
即答した僕とは対照的に、うろんげにワトソンが呟いた。
するとすぐさま「好きか嫌いかって訊いてんだ!!」と尋問のような罵声が飛んできて「好きです!」とワトソンが煽られるように声をあげた。
その様子が懐かしいのと珍しいのとで、ついふふっと笑ってしまう。
「ならガキどもにご褒美だ」
レストレード警部がポケットから拳を引っ張りだし「ほら」と差し出した。
つられて僕たちが手を差し出すと、ころんとした包み紙が二個ずつ、手のひらに落とされた。
「チョコレート。甘いぞぉ」
真の甘党はレストレード警部なのではと思えるくらい、甘いものの用意がいい。
僕が貰ったチョコレートをポケットにしまっていると、
「ホームズ」
ワトソンから名を呼ばれて顔を向けた。
「なに――」
瞬間、開いた口に何かを押し込まれて思わずむせ込む。
しかしワトソンが僕の口を押さえているため、吐き出すこともできなかった。
「はひほ」
と問うと、
「チョコレートですよ。今貰った」
と当然のように答える。
いや、それならそうと先に言ってから口に入れてくれっ……。
ぶすっとして睨みあげると、ワトソンがどこかばつの悪そうな顔をしてそっぽを向いた。
しかし蚊の鳴くような声で、
「脳の栄養が足りないからあんな脳筋なことをするんです」
と呟いたのが聞こえた。
その瞬間、僕は顔をあげていられなくなり――くてんと首を折って、自分の膝に顔を埋めた。
なんだか、少しだけ報われた気がして。
はあーっと大きく息を吐くと、そのまましばらく、舌先でコロコロとチョコレートを転がした。
そして、なんとか一言絞り出す。
「甘い」
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