終章 取り調べ
第31話 初回取り調べ
記録
一八七一年十二月六日 十八時三十七分
連続心中事件 被疑者 ニック(通称) 初回取り調べ
窓もないその部屋には、中央にテーブルセットが一式置かれているだけで何もない。
灯りといえば机の上で揺らめくオイルランプの炎だけだ。
僕は一冊の本を机に置くと、その一端に腰を下ろした。
背後にはワトソンとレストレード警部が立っている。
今回の取り調べは、僕に一任されている。
気を引き締めるためにゆっくりと深呼吸をして――机の対岸を凝視した。
そこには椅子に磔になっている赤毛の男がいる。
耳栓、目隠し、猿ぐつわによって顔の大部分が隠れており、そのせいで余計に赤毛が印象深い。
両手両足体幹も椅子に縛り付けられていて、手にはミトンまではめられている。
これでは爪一つ立てることはできないだろう。
「お願いします」
僕が声をかけると、ニックの後ろに待機していた捜査員が目隠しと猿ぐつわを外した。
しかし舌を噛み切られては厄介なので、すぐに再装着できるようにわずかにずらしただけだ。
「大層なおもてなしをありがとう、名探偵」
にやりと笑うニックは、やはりどこか自信に満ちていた。
自分の勝利を確信しているような。
まあ無理もないだろう。
普通の人間ならニックが行っていることの想像すらできないだろうから。
普通ではない僕にしか観測できず、それゆえに、僕にしか常識の殻を打ち破ることはできなかったと思う。
「あなたが連続心中事件の主犯だ、ニック」
「はあ? 俺が赤毛の男を二十一人集めて『死んでこーい』って唆したって言うのかよ? そんな死にたがり、あんたくらいだろう」
それは同感です、と背後から聞こえた。
肩越しにワトソンを睨むと両手をあげて肩をすくめる。
「違う。僕が言っているのはそんなちんけな話じゃない。それに唆しただけなら立証もできず、罪には問えない」
「なら無罪ってことで解放してくれよお。イライザちゃんのことは悪かったけどさ、俺もまあまあ本気だったのよ。可愛かったし」
「無罪なわけがないだろう。お前がたった一人で二十一人の女性を殺して、無理心中を引き起こしたっていうのに」
途端に、ニックがため息をついた。
唸るように首を振り目を細める。
「心中現場にはちゃんとお相手の死体もあったんだろ? なあ?」
ニックが背後を振り返り、捜査員の一人を見た。
淀んだ瞳に振り仰がれて、若い捜査員がぎょっとした顔になる。
レストレード警部に向けてテーブル越しに視線を投げると、警部が小さく頷いた。
それを受けて、捜査員は咳払いをしてから一言答える。
「午前中にあなたを拘束したあと、そちらの探偵の指示ですべての被害者男性の墓を調べました。そして全員の亡骸を確認しています」
「ほらみろ、全員死んでる! そして俺は今ここで生きている! もし俺が無理心中しているってんなら死んでいないとおかしいよなあ? つまり俺が生きていることが、無罪である何よりの証拠だ。ほい、
「確かにお前は毎回ちゃんと死んでいるよ。だが生き返っているんだ」
「は!」
拘束された足で床を蹴った。
反動で後ろに転げそうになり、捜査員が慌てて支える。
「それこそおかしいだろ! 死人が生き返るわけがない! それに毎回生き返っているなら、墓に残っている死体は誰のだよ? 生き返るっていわゆる死霊だろ? 身体が残ってるのはおかしいじゃねぇか!」
「いいや、死霊なんてそんなものじゃない」
否定すると、ニックが「はあ?」と小馬鹿にしたように眉を吊りあげた。
「君たちは蘇っているんじゃない。でも僕はオカルトはあると思うんだ」
「何言ってんだ。気でも狂ったか? オカルトなんて、産業革命のこのご時世、信じているのは奇人変人、時代遅れの大馬鹿どもだけだぞ」
「そういう決めつけこそが論理性を欠く。僕は物事をあらゆる角度から検証したいんだ」
「へえ」論理性を欠くという言葉に苛立ったのか、ニックが挑発的に笑った。「じゃあなんだって言うんだよ、論理的な名探偵さんよぉ」
「君は死をきっかけに、君の魂が肉体から肉体へと移り歩いているんだよ。錬金術を使ってね。死に移りって言えばわかりやすいかな?」
「なあ……!? 錬金術なんて、ある、わけが」
ぴくりとニックのこめかみが引きつった。
が、すぐさま余裕綽々の顔を取り繕う。
「何を言いだすかと思えば、やっぱり気でも狂ってるとしか言いようがねぇな。こんな奴が名探偵だなんて、お笑い種じゃねぇか」
しかし僕の目は誤魔化せない。
ここぞとばかりに畳みかけた。
「君は最初に死んだとき、おそらく魂の情報を何らかの記憶用の器に閉じ込めたんだ。そして記憶用の器と対になっている読込用の器へ移し替えることで、毎回蘇っている。例えるなら魂が紅茶で、読込用の器がティーカップ、記憶用の器がポットってところかな。ティーカップに入っていた紅茶をポットに入れて持ち運び、新しいティーカップへと注ぐ。この場合中身の紅茶は一緒だから、新しいティーカップも古いティーカップも入れ物が違うだけで全く同じものになる」
現代風に例えるならば、記憶媒体をUSBメモリー、読込媒体をパソコンのHDD、魂をパソコンに保存された情報、肉体をパソコンそのものに置き換えればわかりやすい。
あらかじめ
真新しいパソコンは既存データをダウンロードした瞬間、それまで使っていたパソコンと遜色がなくなる。
前世では誰もが行っていたデータのやりとりを、この時代、そして魂という目に見えないもので成功させた結果が、目の前にいるニックという男だ。
「それってつまり、俺とそっくりな人間を出現させるってことだろ? そんなことできるわけがない!」
ニックが声を震わせる。
「あり得ないよ、そんなの。だろ?」
切羽詰まった声で周囲にいる人間へ同意を求めた。
周りの捜査員たちは……困惑したように顔を見合わせている。
おそらくニックに同意したい気持ちのほうが強いのだろう。
僕の言葉を信じ切れずに、しかし容疑者に同意もできないため困惑しているのだ。
ニックの思惑通り取調室に疑念が漂い始めると、たちまち余裕の笑みを取り戻してまくしたてた。
「第一、その記憶用の器や読込用の器っていうのはどこにあるんだよ!? 証拠を見せろよ、証拠を!!」
証拠が出なければいくらでも誤魔化せる、と自信に満ちた顔が言っている。
しかし犯人がそうやって言い逃れすることくらい僕だって知っている。
だから、
「警部。あれ、見つかりました?」
「ったく。人使いが荒いんだよてめーはよ」
ぼりぼりと頭をかきむしりながら「おい!」と扉のほうへ声をかけた。
すぐに戸が開いて、一人の若い男がトレイを持って入ってくる。
男の顔は険しい。
トレイの中身から立ちあがっている悪臭のせいだろう。
男が近づくにつれ、僕たちの鼻腔にも腐った卵のような匂いが突き刺さった。
「なんだよ、臭いなあ。変な物持ってくんな――」
文句を言っていたニックの声がぴたりとやんだ。
男がトレイをテーブルに置いたからだ。
中を覗いて、二の句が継げなくなったのだろう。
トレイには一枚の金属板が入っていた。
銀製のようだが、やや腐食していて鈍色と呼ぶほうが近い。
板には細かな細工で抱き合う男女が描かれていた。
また男女の頭側には、十字の茎をもつ薔薇の紋章が描かれている。
「逆位の、恋人のアルカナ……」
ワトソンが声を絞り出した。
そういえば、この時間軸では見るのが初めてだった。
テーブルに駆け寄り、トレイを抱きかかえるようにして凝視している。
僕はそんなワトソンを一瞥したあと、改めてニックに向き直った。
ニックはワトソン以上に狼狽えた様子で、震える唇は真っ青だ。
言い訳を探しているのか口をパクパクと動かしているが声にならない。
しばらくしてようやく、
「これが……なんだって言うんだよ」
うわずった声で呟いた。
まだしらを切る気満々、といった様子だ。
ならば、と僕は畳みかける。
「お前は基本的に、死体を回収しやすい方法で死んでいたようだけれど……一件だけ、何をとち狂ったのか最も回収しにくい方法で死んでいるね」
僕の言葉にはっとなったニックが目を瞠った。
「まさか、ロンドン橋のあれを……!?」
それはアヘン窟で聞いた一件目の心中エピソードだ。
男女が夜更けに、ロンドン橋から身を投げたという話。
「ロンドン橋での心中は遺体があがっていなかった。その日は雨が降ったあとで水かさが増していたこともあり、死体が見つからないまま目撃証言だけで男女二名とも死亡とされた。証言からは事件性も感じられず、一件目であったこともあり、特に何の疑いもないまま心中と処理された。その結果、捜査も遺体回収も行われなかった」
「まさか、あのときの死体を今更回収したって言うのかよ!?」
ニックの叫び声に「スコットランドヤードを舐めるな」レストレード警部が咆えて答えた。
「レストレード警部と捜査員の尽力によって、死体の発見に成功した」
そう言うとニックが鋭い舌打ちをした。
構わず続ける。
「その遺体を解剖したところ、心臓の位置からこのカードが発見されたってわけだ。そしてこのカードが他ならぬ読込用の器だ。これを新しい肉体……死体かなにかに埋め込んでおけば、あとは前の身体が死ぬことでカードが起動し蘇る」
窺うようにニックの顔を覗き込むが、引きつったような顔をしているだけで返答がない。
代わりに、
「では先ほど言っていた記憶用の器というのは?」
トレイからようやく顔をあげたワトソンが訊いた。
「それは正位置の恋人のアルカナが担っている。そうだろ、ニック」
「し、らん。俺はそんなもの知らんぞ」
この期に及んでもまだ言い逃れしようとする。
しかし動揺のあまり、彼の眼球は小刻みに震えていた。
あと少しだ。
「正位置のアルカナは新しい肉体へ魂を読み込むときに使うのかな? 手荷物検査で持っていなかったから普段はどこかに隠しているんだろう。新しい肉体に移ったあと次回用の〝
USBメモリーを新しいパソコンに接続して情報をダウンロードするように、新しい蘇生用の肉体を用意する際に正位置のアルカナが必要になるのだろう。
墓でニックに出会ったとき、次の肉体を用意しに行った帰りなのか、それとも用意しに行く途中だったのかはわからないが、どちらかの理由で正位置のアルカナを所持していたのだろう。
そして次の肉体を用意するついでに、証拠となり得る逆位置のアルカナを回収しに来ていた。
「あとこれは僕の予想なんだけど、スペアで置いておける肉体は一体か、せいぜい二体までなんじゃないかなと思うんだけど……どうだろう?」
訊いてみたものの、ニックは唇を戦慄かせるばかりで答えてくれなかった。
一応、僕の予想には理由がある。
三体以上存在しないと思ったのは、爆死直後にすぐ次の身体を用意しに行ったことからだ。
スペアがたくさんあれば、そんなに焦ってダウンロードしに行かなくてもいい気がする。
二体しかないから、死んだ当日に行動せざるを得なかったのだ(可能性は低いが、不慮の事故などで当日中に三回連続で死ぬことはあり得る。僕みたいに……)。
逆に、スペアは一体だけなのではとも考えたのだが……ワトソンに裏切られる前の復活劇を考えると、スペアは二体ある気がする。
獄中死したあと、すぐに二十三件目の心中が起きているからだ。
獄中死してからすぐにダウンロードしに行って、その足で心中する……というのも不可能ではないだろうけれど、もう一体スペアがあったほうがしっくりくる。
「ほう」
この情報に思いのほか食いついたのはレストレード警部だった。
「ならその二体のスペアを探し出して壊せば、こいつはもう復活できないんだな?」
ハスキー犬みたいな顔が、一瞬狼のような獰猛な笑みに変わった。
「確かに、筋は通っていますが」
僕の思考に割り込むようにワトソンの声が響いた。
「そもそも、そんなことが可能なんですか」
その質問は当然来ると思っていた。
僕は机の上に置いていた一冊の本を手に取り、ぱらぱらとページをめくった。
「これを見て欲しい」
開いたのは本物のホームズが所有していたあの古い本だ。
薔薇十字団に関するページをニックにも見える形で開いた。
ワトソンが黙読したあと「錬金術……?」と小首をかしげた。
「いや、まあ僕も半信半疑ではあるけれど! ほら、カードの紋章と薔薇十字団の紋章が同じだしっ……」
死に戻りを体験していなければ、おそらくワトソンと同じような反応をしていたと思う。
間違いなく。
「ああ、本当ですね。なら本当に錬金術で……」
とりあえず薔薇十字団との関係性には納得したようにワトソンが頷いた。
しかしレストレード警部は「ん~?」と難しい顔のまま、まだ首を寝違えたようにひねっている。
こうなったら、あとは自供をとるしかない(悲しいことにこれ以上の物的証拠がない)。
問い詰めようとニックに向き直り視線を合わせた瞬間、放心状態だったその瞳に狼狽の色が宿った。
いける、と僕は確信した。
「さあニック。勘弁したらどうだ? お前の口から、黒幕が誰か聞きたいんだ」
語気を強めて言う。黒幕を知っているぞ、という脅しのつもりだった。
どこまで効くかは正直賭けだったが、ニックの顔から血の気が失せたのを見て内心でぐっと拳を握りしめた。
「黒幕? そんなのがいるのか」
身を乗り出すようにしてレストレード警部が食いついた。
いいタイミングで反応してくれて助かる。
「ニックが錬金術や魔術を使えるなら、獄中でナイフによる自殺を企てないでしょう。おそらく、錬金術を使う第三者が、このカードの制作者――黒幕です」
「うるさい……」
自白を迫ろうと詰め寄った僕に、ニックが呪うように言葉を吐いた。
「俺は認めない。錬金術? 笑わせる! そんな状況証拠だけで、誰が認めてやるもんか!」
「そうか……」
はあ、と僕が残念そうにため息をつく。
すると視界の隅でニックがほくそ笑んだのが見えた。
このまましらを切り通せばなんとかなるとまだ信じている顔だ。
……そうはさせないぞ。
「なら仕方ない。とっておきを出してあげるよ」
「は? とっておき……?」
まだ何かあるのかと、ニックのこめかみが引きつった。
すかさず、僕は懐からとある物を取りだしてニックに眼前にかざして見せる。
「これ、なーんだ」
「おい、お前、それをどこで――!?」
ニックの目の前に掲げたのは、金属でできた一枚の板だ。
男女が抱き合った絵柄で、その足もとに薔薇の紋章が刻まれている――そう、正位置のアルカナ。
「お前が二十二件目で心中に成功した場合、入るはずだった墓場で見つけた」
「嘘だ! あんな広いところで、そんなカード一枚見つかるはずが……」
「それこそスコットランドヤードを舐めるなよ」
レストレード警部が獰猛な笑みを浮かべる。
「ローラー作戦は得意なもんでね。……滅茶苦茶大変だったがな」
「く……」
ぎりりと砕けそうなほど奥歯を噛んだニックが、それでも強がって掠れた声をあげる。
「別に、そんなカード俺は知らないよ。今のはあんたらの与太話に出てきたブツが現れてちょーっとびっくりしただけだ。別に俺は、そんなカードとは無関係――」
ぺらぺらと饒舌に話すニックの前で、僕はカードを思いっきりしならせた。
折れるくらいに。
「やめっ――」
途端にニックの顔が青ざめ、悲痛な叫び声をあげた。
「ん?」
僕はきょとんとしてニックの顔にカードを近づける。
しなったカードがみしっ……と怪しい音を立てた。
「関係ないなら、もういらないから折っちゃうけど」
「う……っ」
ニックは唇に血がにじむほど噛みしめているが、それでもまだ打開策を模索するように目をぎょろぎょろと動かしている。
強情な奴……。
どうすれば口を割ってくれるのか――
「なーあホームズ。これを折ったらどうなるんだろうなぁ」
ふいにレストレード警部が僕の手からカードを抜き取り薄闇の灯りにかざした。
「どうって……おそらく、オリジナルの魂の情報が消滅するので、もう二度と死に移りはできなくなるか、もしくはこの場で目の前のニックも死ぬんじゃないでしょうか」
言いながらニックの顔を見た。
明らかに後者を告げた瞬間に目線が上を向く。
人は何かやましいことを考えているときは目線が上に逸れるものだと聞いたことがある。
つまり、後者が正解だろう。
「そいつはいいなぁ」
ふいにレストレード警部が豪快に笑った。
ひとしきり笑ったあと、懐から何かを取りだす。
それは一本の折りたたみナイフで、手を振るうと刃が出現して鈍色に光った。
「ホームズは甘ちゃんだから優しーく訊いてるが、俺は違うぞ。死なない程度に痛めつける方法はいくらでも知ってるし、それでも口を割らなきゃお前をこの手で死刑に臥したっていいんだ」
冷たく光るナイフの腹をニックの頬に押し当てた。
柔肌の上をわずかに滑り、切っ先が眼球のほうを向く。
「なあニック」
絶対零度の眼光がニックの顔を覗き込むと「ひっ……」という悲鳴が短くあがった。
「お前を永遠に消滅させる手段を誰が握ってるんだか、よぅく考えるんだなぁ」
「こんなの拷問だ!」
たまらずニックが叫んだ。
さすが尋問のプロという空気感に僕まで気圧されていたが、その声ではっと我に返った。
見よう見まねで声のトーンを落とし精一杯に凄んでみせる。
「なんでだよ。僕の推理が外れているなら、これを折っても誰も傷つかないはずだけど?」
「くそっ……!」
がっくりと首を折り、うなだれたニックが呻くように声を絞り出した。
「……やめてくれ、頼む」
「なにを?」
「折るのを!」
「ふぅん、なら認めるんですね」
そこまで黙って聞いていたワトソンも身を乗り出した。
レストレード警部はまさか、という顔をしてニックとカードを見つめている。
全員が息を飲み、ニックの次の言葉をじっと待った。
「降参だよ、探偵」
僕の手の中にある正位置のアルカナを憎々しげに見つめながら、ポツポツと言葉を重ねる。
「どうやって調べたのかは知らないが、よくこんなあり得ないものを想定できたもんだ」
「不可能な事柄を消去していくと、よしんばいかにあり得そうになくても、残ったものこそが真実である――僕のモットーでね。で、認めるんだな? 〝死に移り〟を。錬金術の存在を!」
「ああ。俺の負けだ。だから白状するよ。この世に錬金術っていうのは……そして、それを扱う錬金術士っていう奴らは――」
言葉を句切り、意を決したように息を吸い込んで、
「――かはっ……!?」
言葉の代わりに、ニックの口から鮮血が迸った。
「なあああっ!?」
テーブルに手をついていたレストレード警部が飛び退いた。
ニックは血だまりになった机を呆然と眺めたあと、
「い……やだ」
べたっとした言葉を吐いた。
「いやだ……、な、んで…………っ」
叫ぶ合間にもけほけほっという咳とともにどんどんと血が溢れていく。
僕は机をなぎ倒しニックとの距離を詰める。
胸ぐらを掴むと、僕の拳にどろっとした血液が纏わりついた。
「くそっ、どうすれば――」
まさかこれが錬金術なのか?
だとしたらもう、止められないのでは。
それでも、これが今黒幕と繋がる唯一の手がかりなんだ!
「名前を……黒幕の名前を言えっ……!!」
我ながら非情だと思う。
見殺しにしてまで名前を聞きだそうだなんて。
「たすけ……けほっ、助けて――今あの方のところに戻ったらきっと……裏切りが、ば、れて……死より恐ろしいめにゃあっ――」
不自然に言葉が途切れた。
ニックの深緑の瞳が上転し、白目ばかりの三白眼になる。
刹那、ニックの吐き出した血液から轟! と炎が吹き上がった。
「な……!?」
生じた火の手は瞬く間にニックの全身を包み込む。
ニックの赤毛よりも赫々とした炎。
断末魔があがり、肉の焦げる匂いがあたりを支配する。
レストレード警部が僕を急いでニックから引き離しながら「どうなってる!?」と叫んだ。
ワトソンは「とにかく、水を!」と声をあげる。
しかし燃え上がる勢いはすさまじく、わたわたとしている間にも火柱の中のニックがぼろぼろと崩れて――燃え尽きた。
あとには、塵一つ残っていない。
目の前の光景が信じられなかった。
棒立ちになり「嘘、だろ……」と現実感の伴わない呻きが漏れる。
「なんなんだよこれは!?」
レストレード警部はニックが座っていた椅子を蹴り飛ばした。
ニックの身体は燃え尽きたのに、椅子は焦げ跡も残さずにそのままだ。
まるで、初めからニックなんて存在していなかったかのように。
椅子だけが置き去りになっている。
「これが……錬金術」
ワトソンの囁きが、すべてを物語っていた。
圧倒的な力の存在を。
それを使う、絶対悪の存在を――
僕の全身から力が抜けた。
思わず机に突っ伏すと、胸のあたりにごりっとした感触があった。
はっとして、それを引っ張りだす。
出てきたのは、銃弾が刺さったままのホームズ大全だ。
震える指先でページをめくり、今回の事件について記載されたページを見つけた。
そこには――
『犯人を逮捕し自供に至ったが、被疑者が謎の死を遂げ黒幕についての情報は得られず。試合には勝ったが勝負には負けた事件となった』
と書かれていた。
「勝負には負けただと」
吐息が熱くなり、噛みしめた奥歯が折れそうに軋んだ。
「うるさい、黙れ」
毒々しい声は、見えない誰かを呪うように、
「いつか絶対に、あんたの尻尾を掴んでやるっ………………!!」
手のひらににじむ血に誓い、ホームズ大全に突っ伏した。
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