第32話 名探偵とは、どういう人物だと思う?
***
とある豪奢な部屋の一角で暖炉がめらめらと燃えている。
その側には革張りの一人掛けソファが置かれていて、男が本を読んでいた。
しばらく暖炉の燃える音とトンカチが釘を打ちつける音が部屋に響く。
カツーン……。
一際大きな音がして、男が顔をあげた。
読んでいた本を閉じる。
「終わったかい?」
部屋の隅に声をかけると、
「はい、伯爵様!」
声変わり前のソプラノ寄りの声がした。
そこにはご褒美を待つ子犬のように目を輝かせている少年がいる。
「どれ……」
ソファから立ちあがり歩み寄ると、少年が座り込んでいる床を見下ろした。
木目の強い床に、真っ赤な血で円が描かれている。
円の上下左右には血の元持ち主であるドブネズミの死骸が横たえられていて、釘が打ちつけられていた。
「うん、いいね。かなり上達したじゃないか、アレイスター」
「伯爵様の教え方がいいからですよ!」
ふふん、と鼻を鳴らすアレイスター少年の頭を撫でて、伯爵が優しく目を細めた。
と、少年の背後に人間の死体が横たえられているのが見えた。
ブルネットの髪は白髪交じりで、顔には深い皺が刻まれている。
歳は六十過ぎくらいだろうか。
その死体の顔がボコボコと浮き上がって、次第にニックそっくりの顔へと変わっていく。
伯爵はそれを、まるで射殺すような冷たい目つきで見下ろした。
その顔は悪魔と呼ぶのも生優しい。
ガラス玉のような瞳からは、まるで人の情というものが感じられなかった。
「これ、どうします?」
アレイスターが、ニックに変わっていく死体のこめかみをコツンと蹴りながら言った。
「もうこの顔は必要なくなったから処分していいよ」
「はあい」
ずるずると死体の足を持って部屋の隅へと引きずっていくアレイスターを見ながら、伯爵は暖炉の側に視線を投げた。
テーブルにはブンゼンバーナーで熱せられている小さな胴鍋があり、サンダルウッドの香りが立ちあがっていた。
東洋では白檀と呼ばれるこの植物は、お香にもよく使われるものだ。
かの地では線香と呼ぶんだったか。
「もうこれも不要になってしまった。別のものを作らないとね」
白檀の煮汁を暖炉に投げ込むと、じゅっ……と炎が弱まった。
しかしそれも一瞬のことで、たちまち化学的にはあり得ない勢いで再燃した。
未完成だったとは言え、錬金術による物質変化はきちんと作用していたらしい。
しばらく炎を見つめたあと、物思いにふけるように窓のほうへと歩み寄った。
すでに漆黒の闇が落ちていて、オレンジ色の街灯を縫うように白濁とした霧が広がっている。
「シャーロック・ホームズ、か」
それはほとんど囁きに近く、側にいるアレイスターでさえはっきりとは聞き取れなかった。
声に出すとなんだか間抜けな響きに思えた。
名は体を表すと言うが、まさにこの名の持ち主は聡明さとはほど遠い。
一緒にいた男のほうは、まだ使えそうだと思って、細工をして遊んでみたのだが。
「アレイスター、君は名探偵とはどういう人物だと思う?」
振り返ると、アレイスターが気持ち悪いものを見るような目つきで死体を見下ろしていた。
ぼこっ、ごきゅっ、という異音を響かせながら、死体の顔がみるみるとニックそっくりに変わっていく。
しかしこちらの視線に気づくやいなや、小走りに駆け寄ってきた。
「え、名探偵ですか?」
アレイスターがきょとんとした表情を浮かべて、顎先に手を当てた。
「うーんと、頭がいいイメージですね。推理を閃く瞬発力があると言うか……」
「まあそれも大事だ。けれど私は、名探偵の根幹にあるのは洞察力だと思っているよ」
「洞察力……ですか?」
しっくりときていないのか、アレイスターが小首をかしげた。
無理もないだろう。
科学的手法が犯罪捜査に取り入れられたばかりのこの時代、洞察力というのはあまり重要視されていない。
産業革命を経たロンドン市民は口では論理的解決をと言いながら、実際には直感や感性といった
しかし上辺だけでもロジカルを気取りたいのか、その直感に何らかの信憑性を求めようとする。
そのせいで捜査上では真しやかに本当と嘘の証拠があげ連ねられ、嘘が本当になることで本当が嘘になる。
たとえば、連続心中事件。
〝本当〟であるはずの死者蘇生はオカルトすぎて信憑性がないが、二十一人が兄弟だったという〝嘘〟はまだ(この時代の人間にとっては)ロジカルで受け入れやすいだろう。
これが科学捜査黎明期のロジカルだ。
本来の意味からはほど遠い、検証を伴わない直感的で曖昧なもの。
しかし真の探偵は、正しくロジカルを理解している。
「洞察力というのは審美眼でもある。数ある物的証拠の中から意味のある美しい証拠だけを選び出し、その外見に惑わされず分析するのが洞察力だ。そして集めた証拠をつなぎ合わせ、系統だった推理を生み出す……これはまさに錬金術と同じ手順だ」
科学者から派生した錬金術師は、実のところロンドン市民の何百倍もロジカルだ。
素材を集め、仮説までの道筋を構築し、立証するという手順が身体に染みついている。
オカルトに生きる我々が、ロジカルを夢見る彼らよりもロジカルだというのは皮肉が効いている。
「なるほど、勉強になります!」
弾けるように声をあげ、アレイスターがメモ帳を取りだした。
書き留めるほどのことでもないのだがと思いつつ、まあいいかと独りごちてまだ幼い少年を見下ろした。
アレイスターはまだ駆け出しの錬金術師であるためロンドン市民の愚かしさが抜けきっていないが、きちんと筋道立てて考えるだけの知性がある。
いずれは大成するだろう。
救いようがないのはロンドン市民のほうだ。
ロジカルの意味をはき違えている彼らには、我々がしようとしていることの片鱗も理解できないだろう。
しかし、そうなると――
「あの男……シャーロック・ホームズも実にロンドン市民らしく、真にロジカルとは言いがたい。それなのにどうして答えにたどり着いたのか」
部下の報告では、シャーロック・ホームズが手に入れた情報はアヘン窟で聞いた『ニックが二十一人いるかもしれない』というものだけだと言う。
錬金術師になぞらえて探偵を定義するならば『証拠を集め、洞察力を持って検証し、仮説までの道筋を系統立てて立証する者』である。
しかし逆に言うと、証拠がなければ探偵というものは真実にたどり着くことができないのだ。
それなのに、何故あの男は死に移りまでたどり着いたのか。
証拠一つ手に入れていないはずなのに。
まだ
「……興味深いね、とても」
張り合いがなくてつまらないと思っていたが、実際に抵抗されると気分のいいものではない。
「だが私のパーフェクトゲームに土をつけた罪は重いよ、ホームズ君」
窓の外、微かに見えるスコットランドヤードの灯りを見ながら。
伯爵――エドワード・ジェイムズ・モリアーティは凄絶に笑んだ。
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