終章Ⅱ 名探偵と助手

第33話 霧の都に、名探偵が誕生す

 ――『霧の都に名探偵が誕生す。犯罪都市の救世主となり得るか』

 

「ホームズ! これを見てください!」


 新聞に踊った文字列をワトソンがほくそ笑みながらかざしてくる。

 ベッドに仰向けになったまま寝ぼけ頭で流し見ていると、


「えっ……〝名探偵″って!?」


 ようやく雷に打たれたような衝撃を覚えた。

 新聞を手に取ろうと飛び起きる。


「ちょっと、よく見せて――」


 ベッドの縁ギリギリまで這い寄って手を伸ばすが、直前でひょいっと持ちあげられた。

 重心がベッドからはみ出して、支点になっていた左手がずるっと滑る。

 こらえきれずに身体ごと落下して顎先から打ちつけた。


「痛いっ……」


 ワトソンが肩越しに振り返り床にへばりついている僕を見た。

 一拍きょとんと目をぱちくりさせたあと、くくく、と肩を小刻みに震わせる。


「まずは朝食にしましょうか」


 探偵事務所の二階にある、僕の自室だった。

 朝日が昇り、爽やかとは言えないコールタールの匂いが充満する。

 寝間着姿の僕とは対照的に、今日もスーツをピシッと着こなしているワトソンは悪戯っぽく笑った。


 苦渋の取り調べから一夜明けた、ロンドンで迎える三回目の朝だった。








「ジャムを切らしていたのでちょっと買ってきます。ホームズは先に食べていてください」


 リビングに引っ張りだすなり、ワトソンが帽子とステッキを手にして僕を睥睨した。

 じろじろと見つめるので「なんだよ……」とたじろぐと、びしっと指をさしてどこか偉そうに「帰るまでに全部食べていないと怒りますからね」と言って飛び出していく。


「なんなんだよ、もう……」


 止めていた息を吐き出して、丸テーブルに用意されているパンと紅茶、そして新聞を眺めた。

 ワトソンの眼光に睨まれると、どうしても一瞬身じろいでしまう。

 どんなことがあろうとも、僕はワトソンを信じると決めたのに。


 カンカンカン……ワトソンが階段を駆け下りる靴音が響く。

 思わず部屋を飛び出すと、二階の階段口に飛び出した。


「ワトソン!」


 僕の大声に、踊り場にさしかかろうとしていたワトソンが足を止めて振り仰いだ。

 何だろうという顔をして、次の言葉を待っている。

 永遠にも思える、一瞬の空白。

 生唾を飲んでから、意を決して。


「君は、僕の最高の助手だよ」

「なんですか急に。気持ち悪い」

「気持ちっ……!?」


 ワトソンは渾身の言葉を一蹴して、胡乱に目を細めたあと。

 しかしふいに視線を落として、言いにくそうに唇をパクパクと開閉させた。

 数秒の逡巡があってから、掠れた声が、こぼれ落ちる。


「……あのとき、本当はあまり、よく覚えていなくて」


 あのとき――きっと、ニックと留置所で話していたときのことだろう。

 僕は黙って、その続きを待った。


「こんな都合のいいこと、信じてもらえないかもしれないんですけど。でも――」

「信じるよ」


 間髪入れずに即答すると、ワトソンが跳ねるように顔をあげた。

 驚きと、安堵と……いろいろなものが入り交じったような、複雑な瞳で、こちらを見あげている。


「信じるよ、僕は」


 もう一度繰り返すと、ワトソンが深く帽子を被りなおした。

 蚊の鳴くような声で「ありがとうございます」と呟くと、そのまま階段を駆け下りる。


 一瞬、その横顔に笑顔が浮かんだ気がした。

 最初、出会ったときに見せたような、人のいい笑い方で。

 しかしすぐに踊り場の角を曲がってしまって、ワトソンの顔は見えなくなった。


 僕は大きくため息をついて――とはいえそれは、少し満足そうなため息で、事務所へと戻った。


 寝間着姿では、さすがに追いかけることもできない。

 ゆっくりと、ワトソンの帰りを待つことにした。

 話をする時間は、これからいくらでもある。


 暖炉の側に腰掛けると、パチパチと音をあげて臙脂の炎が立ちあがっていた。

 ワトソンが事前に火をくべて、部屋を暖めてくれたらしい。


 つかみ所のない奴。

 胸中で呟いてから、丸テーブルへと手を伸ばす。

 サンドイッチ、紅茶……と指先が迷ってから、新聞を手に取った。


 大衆紙から高級紙、専門誌までが揃えられている。

 ゆっくりと回し見てから、僕は背もたれに後頭部を預けて目を閉じた。


「よかった……」


 新聞では昨日に続き、シャーロック・ホームズを賞賛する言葉で埋め尽くされていた。

 イライザへのインタビュー記事を載せている新聞まであって、びっくりしたと同時に乾いた笑いが漏れる。

 肩の荷が下りて、しばらくの間放心した。


 ニック逮捕から一転して、被疑者死亡という結果にはなったが、イライザが感謝を語ったことで世間は好意的に受け止めてくれたらしい。

 警察から正式に〝連続心中事件〟の犯人逮捕が発表されたこともあり、誌面は大いに賑わっていた。


 と、背中に触れていた物がずるりと落ちる感覚があって、振り返った。

 見ればワトソンのコートが床に投げ出されている。

 そういえば、出かけるときにコートを着ていなかったな。

 思い至って思わず笑った。


「意外とワトソンも舞い上がっていたのかも」


 風邪を引かなければいいけれど。

 そう思いながらコートを拾いあげ、ハンガーラックに掛けようとしたときだった。


「うわ、何か……臭い?」


 清潔感のあるワトソンにしては珍しく、異臭がコートから漂った。

 ツンとする硫黄のような匂いだが、どこか線香のような香りも混じっている。

 どうやら強烈な匂いは内ポケットから溢れているらしく、意を決して手を突っ込んだ。

 指先に触れた物を引き抜くと、お守りほどの小袋が出てきた。

 異臭はどうやら、ここから漏れ出している。


「匂い袋……にしては臭いな」


 ふと、この匂いをどこかで嗅いだような気がした。

 頭をひねって数秒考え、


「そうか、ピクニックのときだ」


 アレイスターが泥をはたき落としたときに、似た匂いがしたのを思い出す。

 あのときはここまで臭くなかった気がしたけれど。


「まあ……こんなに臭いならもういらないよな」


 簡素な袋だが真新しい。

 思い出の品という雰囲気でもなさそうだ。

 このまま放置してコートに匂いが移っても困るだろうし。


「あとで謝ればいいか」


 ぽいっと小袋を暖炉に投げ入れた。

 可燃物だったのかぼわっ! と刹那的に炎が膨れ上がって、揺らめいた。


「ホームズ、大変です!」


 階下から響いた声で炎から視線をあげる。

 ドタドタと慌ただしい足音がして、ワトソンが駆け上がってくるのがここからでもわかった。


「あれ、買い物に行ったんじゃ」店に行ったとしたら嫌に早いなと思って戸口に向かう。

「そんなことより、ドアを閉めないと!」

「え、なに――」


 状況が飲み込めずぼけっと突っ立っていると、何かから逃げるようにワトソンが飛び込んできた。

 閉めようとするドアに手をかけ、身を乗り出すようにして階下を覗く。

 瞬間、絶句して頭が真っ白になった。


「名探偵、話を聞いてくれ!」

「依頼したい事件がある!」

「俺だ、俺が先に依頼したい!」


 新聞を手にした人間が、押しくらまんじゅうのように押し合いへし合い、階段を駆け上がってきていた。


「ちょっ……なにこれ!?」

「新聞を見た人たちが〝名探偵〟を求めて押し寄せてきたんですよ!」


 ほとんど叫ぶような声をあげてワトソンがドアを閉めようとする。

 しかしガッ、と一人の男が革靴を挟み込んで、無理矢理に身体をねじ込んでくる。


「どうか、依頼を聞いてくれぇっ!」


 それを皮切りに、複数人が隙間から手を突っ込んできて、事務所に乗り込もうとしてきた。


「まだ事務所は開いてません! 時間を改めてください!」


 じりじりと入り込んでくる依頼人たちをワトソンが押し戻そうとする。

 その背中を、しばし呆然と見つめて――


「あはは、あははははっ」


 思わず、腹を抱えて笑ってしまった。


「笑い事じゃないですよ! ホームズも手伝って――」


 悲痛な声が響いた――瞬間。


「はいはい、皆さん退いてくださいー」


 のほほんとした声が人の壁の向こうに響いた。

 この阿鼻叫喚の絵面の中で、妙に緊張感の欠ける声だ。

 鈴のように軽やかなソプラノの声は、おそらく女性のものだろう。


「はいはい、ごめんなさいねー」


 声の主はパラソルの先を人垣に押し込み、ぐいぐいと道を切り開いていく。

 途端にさあっと人が左右に割れる。

 それはまるで、旧約聖書に登場するモーセが海を割った奇跡のようだった。


 きょとんとした人間の作り出す花道の向こうに、声の主は見えた。

 上品そうなドレスに、帽子とパラソルを合わせた二〇歳前後くらいの女性だった。

 道をあけた人々に向かって「ごめんなさいねー」とダメ押しの一言をかけてから、悠々と歩いてくる。


「あの、だから事務所はまだ営業前で――」


 あっけにとられて立ち尽くしていたワトソンが、思い出したように入り口を塞いだ。

 糸目の女性は頬に手を当て、にっこりと微笑む。


「いいえ、ここは私のおうちですー」

「えっ……」


 僕とワトソンは互いに顔を見合わせて、しばらく見つめ合ったあと、女性に向き直った。


「もしかして……ハドソン夫人?」

「ですですー」

「…………ええっ!?」


 素っ頓狂な僕の声は、下手をしたらロンドン中に響いていたかもしれない。

 それくらいの衝撃が、僕の脳天から足先までを駆け抜けたのだ。


 こうして、僕たちはハドソン夫人を迎え入れた。


 彼女はワトソン以上の自由人なのか、この状況を一切気にもとめずにマイペースを貫いた。

 彼女の一方的に話す〝土産話〟を聞きながら、僕たちは大慌てで営業準備に取りかかり――


「ええっと……では、最初の依頼人、どうぞ!」


 ドアを開けたら、ロンドンの深い霧とともに、依頼人たちの騒がしい声が聞こえてくる。

 この日、とうとう僕とワトソンは、晴れて探偵と助手になった。

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死に戻りシャーロック 英 志雨 @qiuhanabusa

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