第20話 殺してくれてありがとう
墓地の空気というのはじっとりと湿気っていて肌に纏わりつく気がする。
日本の墓地ならそれでも線香の香りが充満しているものだが、ロンドンにはもちろんそんなものはない。
しかもこの国は土葬文化なので、この湿気った空気に日本とは別の意味を見いだしてしまう。
身体が溶けて、土に染み込み、その水分が気化して墓地全体を覆っているようなイメージがふいによぎって、反射的に入り口で立ち止まった。
ここに踏み込めば元人間だった水蒸気を吸い込むのか……とげんなりして、そんなことを考えてしまった卑屈な思考を呪った。
「いや、ここまで来て何を悩んでいるんだよ」
声に出して自分を叱咤激励すると、意を決して飛び込んだ。
最初は口をすぼめて薄く呼吸をしていたが、単純に息苦しいのと結局吸っている事実には変わりないことに気づいて諦めた。
レストレード警部から渡された地図を頼りに進んでいく。
墓地と言うよりは公園という雰囲気で、白い墓石が所狭しと並ぶ間を埋めるように木々が点在している。
舗装道路の分岐点には芝生が敷き詰められ、天使の彫刻を囲うように花が植えられていた。
だが夜の墓地にぼんやりと浮かびあがる白い天使ははっきりと言って不気味で、視線を逸らすと足早に通り過ぎた。
しばらく歩いてようやく丸印の一角についた。
そこは彫刻も木もほとんど設置されていない区域で、それまで見て来たような立派な墓石もない。
簡素な造りのものが一段とぎゅうぎゅう詰めで敷き詰められている。
どうやらここら一帯が身元不明者たちの共同墓地らしい。
「地図ではこのあたりなんだけど……」
墓地にはガス灯がないなんて聞いていない。
そうと知っていれば何か灯りになるものを持ってきたのに。
光源といえば墓地周辺に設置されている街灯からわずかに差し込む程度で、霧も相まって視界は最悪だった。
墓石に鼻を押しつける勢いで近づいて、そこに刻まれた文字を読んでいく。
と、視界に飛び込んできた真新しい墓石が目についた。
埋葬日を確認すると……今日だ。
はっと息を飲んで視線をぎくしゃくと落としていく。
しかし、その途中で気づいてしまった。
土葬ってことは、スコップとか必要だったんじゃ……!?
遺体を確認しようと思っていたことは間違いないのだが、土葬文化のない日本生まれの僕には、その具体的な方法まで思い至っていなかった。
埋葬されていると言うことはまず掘り起こさないといけない。
おそらく棺に入っているのだろうが、それは木製なのだろうか?
釘で蓋が打ちつけられていたりするのでは?
そうだとすると簡単には開かないような。
「ん? なんか土が盛り上がっている……?」
今朝埋葬されたばかりなので真新しい土なのは当然なのだが、それがすでに掘り起こされている。
埋め忘れたのかとも思ったが、いくら身元不明者だからってそこまでずさんな埋葬はしないだろう。
そういえば昔読んだ本で、貧乏人は埋葬人への支払いが悪く浅い墓穴しか掘ってもらえなかったと読んだことがある。
そのせいで野犬にでも掘り起こされたのだろうか。
「なんにせよ、好都合だ」
穴を覗き込めばもうすでに棺が顔を覗かせている。
ゴクリと生唾を呑み込んでわずかにかかっている土を手で払いのけた。
蓋の縁に指をかけてみるとカタッ……と小さな音がこぼれる。
釘で打ちつけられてはいないらしい。
覚悟を決めて蓋を持ちあげようとして、
「墓荒らしは感心しないね、探偵さん」
頭上から冷ややかな声がかかった。
驚いた拍子にバランスを崩して蓋に手をつき、
がぁんっ――!
「――?」
蓋が軋んだにしては重すぎる音があたりに響いた。
一瞬理解ができずにその音を聞いていたが、一拍遅れて後頭部に激痛が走った。
「ぅ……あっ――」
死ぬっ……。
棺と掘り起こされた土の間に落っこちる。
頬が冷たい地面に触れ、急速に体温を奪っていった。
いや、奪っているというよりも、後頭部から流れ出ている……?
だくだくと脈打つ頭に、ようやく血が溢れていることを理解した。
視線を斜め上にもたげると、赤毛の男が大きなスコップを肩に担いでこちらを見下ろしている。
「にっ……く」
出血のせいか唇が上手く動かない。
「お久しぶり、探偵。昨日は殺してくれてありがとうな」
ぐにゃりと顔を歪めてニックが笑った。
いっそ爽やかなくらいの声音でそんなことを言う。
くそ、遅かったか……。
僕は朦朧とする意識の中で、ぎりりと奥歯を噛みしめた。
目の前には、温室で見たニックと全く同じ姿をした男がいた。
よく似た兄弟なんて言うレベルの話ではない。
もし本人でないとするならば、クローンでなければ説明がつかない。
しかしそれこそ、この時代でクローンはあり得ない。
殺してくれてありがとうと言うことは、やはり昨日のニックと目の前にいるニックは同一人物ということになる。
この瞬間、ニックの蘇りが確信に変わった。
おそらく、もう棺の中身は空っぽで、中から這い出てきたあとなのだろう。
「危ない、危ない。身体を調べられたら一巻の終わりだからなあ」
くふふと口の端を吊りあげて嗤うと、先の尖った革靴で僕の頭を小突いた。
触れられるということは幽霊ではないようだ。
と、僕へ向けてちらりと視線を送ったニックが、興奮する子供そっくりの顔をして、こらえきれないとばかりに身体を震わせた。
「ねえ、知りたいだろ? なんで俺が生きているのか、知りたいんだろ?」
僕は今、そんなに物欲しげな顔をしているのか。
「じゃあさ、ちょっとだけ教えてあげるよ。ほんのちょっとだけだよ。全部教えたらつまらないからね」
言いながら、コートのポケットをまさぐった。
「人間が一番嫌だなあっていう死に方はさ、欲しい欲しいと思っていた物が手に入りかけたのに、死ぬことによって取りあげられることなんだよ。わかるかなあ? だから俺は心中が好きなんだけど」
「なに、言って……んだ」
「ほら心中ってさ、人間にとって最も大事な命を好きな相手のために投げ出す行為だろ? 俺のために女が死ぬなんて、これほど承認欲求が満たされる行為はないよ。そんな女に、死ぬ直前で愛していなかったよ、犬死にだよって告げるんだ。しかも俺は生き返るんだよって言うとね、たちまち見たこともないくらい後悔に顔が歪むんだ! 俺はアレが好きでさあ」
ぺらぺらと嬉しそうに語る理屈は、明らかにイカレていた。
どこまでも軽薄な口調がその歪さを際立たせる。
次元を超えた不可解なものに、人間は恐怖を感じるもので。
死の感覚にある種の慣れを感じていた僕の瞳に正真正銘の恐怖が宿ると、ニックが「そうそれ!」と声をあげた。
「そういう顔だよ! でも君はきっと俺に愛を感じてはくれないだろうから、最期のダメ押しはこれにするよ」
ニックがポケットから手を抜き取った。
そこには一枚のカードが握られている。
絵柄は男女が抱き合って口づけをしているもの。
カードの下部――つまり男女の足側には、どこか見覚えのある薔薇の紋章が刻まれていた。
茎の部分が十字に伸びていて、そこに頭でっかちな薔薇の花が乗っている。
そして花を囲うように描かれた文字――
英語ではないのかいつもと違ってその内容が理解できない。
既視感が喉元までせり上がってきているのに、最後の一欠片が魚の小骨のように刺さってしまい出てこなかった。
どこで見たんだったか。
「そ、れが、どう……し……た」
強がって言葉を絞り出すと、ニックがカードを空にかざした。
ふいに風が吹き、周囲を漂っていた霧が流れる。
雲間から一縷の月光が差し込んで、そのカードを照らし出した。
「これは正位置のタロットカード……恋人のアルカナだよ。これがある限り俺は死なないんだ」
「な……、どういう意味――」
事件の真相、蘇りの真実。
それが唐突に差し出され、僕は眼前に人参をぶら下げられた馬のように身体を震わせた。
もうほとんど感覚のない指を根性で動かし、そのカードへ向けて腕をもたげて、
「それはねぇ」
ぎょろりと双眸が見開かれ、血走った目で狂ったように、
「教えなぁいっ! あは、あはは、あはははははあっ――――――!」
居丈高に笑った。
「不完全燃焼のまま死んでいくのはどんな気持ちだ!? なあ!? 俺は最高だよ!! どうせあんたは死ぬんだ、この続きを捜査することもできなければ誰かに託すこともできない! 最高に愉快だろ!?」
腹を抱えてひとしきり笑ったニックが咆えた。
僕の顔色を窺うように身体をくの字に折り曲げて、期待に満ちた瞳でこちらを覗き込んでくる――が。
「ん? なんだお前、なんだその顔……」
勘ぐるような声がして、次第にその顔から笑みが消えていった。
靴の端で僕のこめかみをコンコンと叩く。
それでも僕の態度が変わらないのを見るやいなや、ニックの顔が般若のようにひしゃげた。
「なんなんだよその顔は!」
たぶん自分は今ものすごくふてぶてしい顔をしていると思った。
僕の顔に恐怖の色が浮かばないと悟ると、ニックの足が僕の側頭部を踏み抜いた。
「このっ、泣けよ! 叫べよ! 絶望しろよ! なんだよその顔はっ……!!」
がすがすと踵で何度も、何度も踏みつける。
それでも僕は……黙ってニックを見あげていた。
僕の瞳は、まだ輝いていると思う。
だってそうだろう?
僕にとって、死は終わりではない。
連続なのだから――
イライザが死んだとき、自殺してやりなおそうかとも考えた。
それでも踏みとどまったのは〝ただでは死ねない〟と思ったからだ。
そうとも知らないニックは、僕の死を確信して冥土の土産まで用意してくれた。
できるならもう少し情報が欲しかったけれど、僕にしては上出来だと思う。
本当に、本当に、
「あ、りが……と」
「てめえっ……クソ野郎があああああっ――――――――!」
絶叫が夜闇に吸い込まれると、途端にあたりが静かになった。
ニックが虚ろな双眸で再びスコップを振りあげると、銀白色の面が生み出す大きな影が頭上からのしかかってきた。
影がみるみると大きくなり、それ以外が視界から消える中、どす、という鈍い音が墓地中に響き渡る。
「死ねよ」
と最期に聞こえ。
驚いたカラスたちが飛び立つざわめきの中、僕は四度目の死を迎えた。
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