第25話 ジェイムズ・モリアーティ

 実は、ロンドン大学という学校は厳密に言えば存在しない。

 というのも、ロンドン市内にある複数の大学が形成する連合大学だからである。


 ピカデリー・サーカスにほど近いバーリントン・ガーデンに本部を持ち、一八七一年時点で加入しているカレッジは四校。

 そのうちワトソンが所属するのはキングス・カレッジ・ロンドンなのだと道中で説明された。


「見えてきました。あれが――」


 ハンサムキャブと呼ばれる独特の馬車に揺られながら、左に座っていたワトソンが僕を乗り越えて「重いワトソン」「狭いんですから我慢してください――あれがガイズキャンパスです」と右側の窓を指差した。

 こぢんまりとした店舗の向こう側に大きな赤煉瓦の建物が見えている。


 ベイカーストリートから徒歩で向かうと一時間半はかかると言うので、極めて不本意だったが馬車に乗っていた。

 馬が僕を殺そうと勇み足になっている気がしてならない。


 馬車を降りて敷地内に入ると、消毒液の香りとロンドンに蔓延するタールの匂いが充満していて鼻をつまみたくなる。

 その上解剖室が近づいてくると、腐敗臭までもが合わさって悪夢のようだった。


 解剖室に続く重厚なドアを開けると、それまで漂っていた腐敗臭など目ではない強烈な悪臭が広がった。

 鼻がもげそうだ。


 刺激のあまり目も潤み、かすむ視界で一歩足を踏み出す。

 床には何故だかおがくずが敷き詰められていて、歩くたびにしゃりっと靴底が鳴った。

 僕たちが部屋に入るなり、続き部屋になっている向こう側から大男が顔を覗かせた。


 「やるか?」


 と短い言葉をかけられたが意味がわからずに立ち尽くしていると、ワトソンが無機質な作業台に歩み寄りながら答えた。


「ええ。今朝来たばかりの赤毛の男をお願いします」


 大男は返事をすることもなく奥へと引っ込んだ。

 どうやら大男は僕たちを解剖担当者だと思ったようだ。

 男が消えた戸口をうろんげに見つめていると、


「見ないほうがいいと思いますよ」


 とワトソンが微笑む。


 見ないほうがって何を?

 見当もつかないが、そう言われたら見たくなる。

 そろっと開口部から中を覗いて、


「うっ……」


 食道を吐き気が駆け上がってきて思わず身体をくの字に折った。


 その部屋には無数の死体がフックで吊されていた。

 まるで豚の食肉加工場のように、


 解体前のものは血の気が失せており蝋のように青白いが、途中のものに関しては出てはいけない諸々が重力に従って溢れていた。

 男はそんな死体を暖簾でも払いのけるように手であしらって、目的地へと歩いていく。

 部屋の奥、こちらからは後ろ姿しか見えない赤毛の死体の前で立ち止まると、フックから外してカートに乗せた。


「ここは死体ボックスで、あの男は死体仮置き場助手ディーナーです」


 いつの間にか背後に立っていたワトソンが付け加えた。


「見なきゃ、よかった……」

「だから言ったじゃないですか」


 僕が溜飲をかみ殺している前で、大男がカートを押しながら部屋に入ってきた。

 それを解剖室の台の上へ無造作に放り投げる。


 こみあげてくる悪寒でむしろ身体が熱っぽかった。

 だがここまで来たのなら確認しないわけにはいかない。

 気だるい気持ちを奮い立たせ、台の上に横たえられた真新しい豚のほうを向き、


「ニックだ……」


 裸にひん剥かれた男を見た瞬間、悪臭など気にもならなくなった。


 青白くなった肌をより際立たせるような深紅の髪。

 生気が失われても尚わかる彫りの深い目鼻立ち――その顔は間違いなくニックだった。


「どういうことだ」


 ふらふらと歩み寄る間、思いつくままに言葉が溢れていく。


「もしニックが蘇って二十三件目の心中を起こしたのだとしたら、ここに身体があるのはおかしい。二十三件目は別人の犯行なのか、それとも蘇りという仮説自体が間違っているのか……」


 近寄ってみたはいいが、改めて見ると気持ちが悪い。

 先ほどまで生きていたのに今や蝋人形のようである。


 真っ先に目に飛び込んできたのはぱっくりと割れてしまった首筋だ。

 血を吐ききって色を失った傷口は無機質だった。

 おかげでもう痛々しさはあまりないので、素人の僕でもなんとかその傷を見ていられる。

 例えるなら、ハムを縦に裂いたのとあまり変わらない感じ。


「それなんですがホームズ」


 高い音で近づいてきた声が、僕を追い越した途端に低くなる。

 ドップラー効果という単語がふいに浮かんで、目が自然とその姿を追っていた。


 ワトソンの手の中で鈍色の光が反射した。

 メスが握られている。


「君は本当に人が蘇ると思っていますか?」


 少しだけ色めき立ったような声音だ。

 瞬間、ワトソンの右手が閃いて、ニックの前胸部を切り裂いた。

 肋骨を避けるように、真一文字にメスが走る。


「ちょっ……」


 話が違う!

 死体を見張るだけじゃなかったのか。


 解剖の結果はあとでワトソンから訊けばいいと思っていたので、完全に虚をつかれた。

 素っ頓狂な声を出して視線を逸らす。


「悪いんだけど、そういうことは僕のいないところで」


 自分の目で見たほうがいいことは重々承知なんだけれど!

 いきなり胸を切り開くのはやめてくれっ……。


 ついこの前まで普通の高校生だった僕にはきつすぎる。

 目は床に落としたままでワトソンへとにじり寄り、コートの裾を引っ張った。

 しかしワトソンは僕の声に一切耳を傾けず、


「死者蘇生なんてデタラメがあり得ると?」


 と問いを重ねた。

 つらつらと、怒りとも期待ともとれるような不安定な声が続く。


「ロンドンはオカルトの街ですが死人が復活するなんてあり得ないんですよ。心臓が機能を停止した時点で人間の身体はただの物質になるんです。でも……これは馬鹿げた話かもしれませんが、もしその壊れた心臓を何か別のものに置き換えることができたなら……あっ、」


 早口でまくしたてていたワトソンの言葉がふいに途切れた。

 まるでそこだけ音が飛んでしまったレコードのような静寂が訪れ、僕の呼吸音だけが打ちっぱなしの四角い部屋に反響する。


 しかし音飛びはやはりレコードのように唐突に終わって、再びワトソンが口を開いた。


「これは……」


 喉から漏れ出た空気が辛うじて声になるような、そんな呟きだった。

 いつも余裕ぶっているワトソンにしては珍しい。


「なんかあったのか?」


 さすがに気になって、僕も意を決して覗き込んだ。


 と、信じられないことにワトソンが切り口の中に指を突っ込んだ。

 ずちゅっ……という生生しい音がして耳を覆いたくなる。

 しかし窓から差し込む太陽光にかざされたを見た瞬間、僕の息が止まった。


 それは、一枚のタロットカードだった。


「なんだよこれ!? なんでこんなものが人体に入っているんだ?――」

「ちょうど心臓がある位置に埋まっていました。本来の心臓は見当たりません。ならばこれが心臓の代わり……でしょうか」

「心臓の代わりって、そんなので納得できるわけ……」


 代わりってことは、これが拍動していたとでもいうのか。

 それともすでに誰かが死体を切り開いて心臓を持ち去り、代わりにこのカードを仕込んだのか?

 しかしワトソンがメスを入れるまで、胸に傷なんてなかったように思ったが……。


 僕が深い思考の沼に落ちていると、ふとワトソンが「」と蚊の鳴くような声で言った。

 しかしその柄を見た瞬間、ワトソンの言葉は僕の頭から吹っ飛んだ。


 絵柄は男女が抱き合って口づけをしているもの。

 


「あれ、待てよ。そのカードの紋章の位置が……」


 はっとしてカードへと顔を寄せて凝視した。

 カードに描かれている紋章の位置が、ニックに見せられた物と真逆になっている。

 墓場で見たカードは男女の足もとに紋章が描かれていたが、今度は男女の頭側に描かれていた。

 と言っても、花が男女の頭側、茎がカードの下端に向いた位置どりになっていて、紋章が正しい向きになるように持つと必然的に男女が倒立状態になってしまう。


「逆位置の恋人のカード」


 声を絞り出すようにワトソンが言った。

 あまりタロットに詳しくない僕でも、カードの正位置と逆位置については知っている。


 絵柄を伏せたカードの山から一枚を引き、柄が正しく出たら正位置、ひっくり返って出たら逆位置と呼ぶのだ。

 本来は一枚のカードで正位置と逆位置の両方の役割を果たすのだが、このカードに限っては薔薇の紋章の位置であえて正位置か逆位置かを指定している。


「逆位置と正位置。対を成すカード……」


 間の抜けた僕の声。

 気づけばそのカードの出所も忘れて手を伸ばしていた。

 触れてみると、カードというよりも金属でできた板という感じだ。

 精緻なタッチで掘られている金細工は、遊戯道具にしては豪華すぎる。

 芸術品と言ったほうが正しいだろう。

 墓場ではよく見えなかった紋章の文字も、手に取ってみればくっきりと読めた。


「ダト、ロサ、メル……?」


 口に出してみたはいいが、日本人が発音しにくい外国語を無理に読みあげているような違和感がある。

 すると僕の隣から「DAT ROSA MEL APIBUS」流ちょうなワトソンの声が重なった。


「ラテン語ですよ、ホームズ」

「ラテン語? 意味は?」

「そうですね……〝薔薇は蜂に蜜を与える〟というところでしょうか」

「え?」


 その言葉は聞き覚えがあった。

 しかしやはり思い出せない。

 仕方なくそれは後回しにして、今ある情報を整理することにした。


 死体から出てきた逆位置のアルカナと、ニックが持っていた正位置のアルカナ。

 二十二件目と二十三件目のニック――同時に存在する二つのニックの死体。

 ニックが言った二つの意味深な台詞。

『身体を調べられたら一巻の終わり』

『これは正位置のタロットカード……恋人のアルカナだよ。これがある限り俺は死なないんだ』


「あ、」


 唐突に、頭の中の歯車が噛み合っていく。


「墓地で死んだとき、実はあの棺の中も空っぽじゃなかった……?」


 あのとき、ニックが蘇って棺から出てきたのだと思った。

 だから『身体を調べられたら一巻の終わり』というのは、『棺の中に身体がないことがばれたら一巻の終わり』という意味だと思っていた。

 だが実際は、のではないだろうか。


 つまり蘇って棺から出てきたのではなく、よそからやってきたもう一人のニックと出くわしたのでは。

 今こうして、二十二件目と二十三件目の死体ニツクが同時に存在するように。


 そう仮定すると、ニックの言葉の意味も変わってくる。

 『身体を調べられたら』というのは解剖の意味で、それを嫌がったのはなのでは?


「だからって、なんでカードなんかが埋め込まれていたんだ……?」


 ミステリーで言うところのホワイダニット――〝何故それを行ったのか〟が見当もつかない。

 埋め込むことにどんな意味があるというのか。


「こら、勝手に解剖をするな!」


 唐突に解剖室のドアが勢いよく開いて、白衣を着た男が飛び込んできた。

 名札に『オーウェン助教』と彫られている。

 ご立腹なのか床のおがくずを蹴飛ばしながら近づいてくる。


 罵声に面食らった僕の思考は中途半端なところで完全に吹き飛んでしまった。


「おい、ワトソンっ……」


 侵入がばれて肝を冷やすが、当のワトソンはまだカードを見つめている。

 さすがにこのままではまずい。

 カードを隠して逃げようとして、


「とにかく、この解剖は今から伯爵の管轄だから! 君たちはさっさとどきなさい!」


 オーウェン先生は僕たちを批難するよりも、この場所を明け渡すことのほうが重要らしい。

 しっしっと手で払いのける仕草をしながら近づいてくる。

 それに続くようにぞろぞろと白衣の男たちも入室してきて、入り口から解剖台までの道を作るように左右へと並んだ。


「伯爵?」


 と小首をかしげる僕にオーウェン先生はどこか興奮気味でまくしたてた。


「今日は特別な方が解剖の指揮をとってくださることになったんだ! あの方の解剖を拝見できる日が来るとは夢にも思わなかった……。同じ時代に生きていてよかった……」

「そんなすごい人なんですか?」

「すごいなんてものじゃない! あの方の解剖講義には世界中から聴講生が来るんだ! 伯爵がメスを入れれば死んだ臓器も蘇ったように生気を取り戻す。作成した標本はまるで生きているようだぞ! あの神のメスさばきを目の前でじっくり見られるなんて……」


 と、解剖室の外がにわかに騒がしくなる。


「伯爵、こちらです」

「白衣をどうぞ」

「お足もとに気をつけて」


 などという声がひっきりなしに響いてきた。


 そんなすごい人が来るなら、咎められる前にさっさと逃げよう。

 ワトソンの袖を引くと、さすがの彼もカードから視線をあげて戸口を見つめた。

 しかし遅かった。

 立て付けの悪いドアが軋みながら開き、


「やあ、諸君。準備してくれてありがとう」


 想像していたよりも百倍はとっつきやすい声が響いた。

 無意識のうちに戸口を向いて、


「あ」


 という短い声が漏れる。

 そこに立っていたのは、金糸のような髪に晴天のような青い目をした若い男だった。


「レミントンスパー伯爵……?」


 僕の声に気づいた彼が視線をあげた。


「ん? ああ、解剖室に見学者が来ていると聞いていたが君だったのか」


 伯爵が白衣を羽織りながら柔和な笑みを浮かべると、血なまぐさい解剖室が急に花畑のように見えてくるから不思議だ。


「研究って解剖学だったんですね」

「いや、本職は違うんだけどね。退屈な世の中で面白い者を探している内に、気づけばいろんな者に手を出してしまって。良くないとは思うんだけど」


 謙遜している風に見えてとんでもない天才発言だ。

 そんな理由で次々と新たな偉業を出されては専門家たちの立つ瀬がない。


「で、見学していくんだろう? 白衣を貸そうか?」

「えっ」


 思いがけずに許可が降りて(しかもなんだか積極的だ)素っ頓狂な声が出た。


「そこまで血は飛ばないだろうけれど、好き好んで血飛沫を浴びたい人間はいないだろう?」

「いや伯爵! こいつらは見学者じゃなくて侵入者ですよ! 勝手に解剖を始めた不届き者です!」

「つまり解剖に興味があるって事じゃないか。それなら見学者だよ」

「いやしかし……」


 けらけらと笑う伯爵と困惑しているオーウェン先生を見ていて、ふとこの人のよすぎる伯爵ならばカードについて何か助言をくれるのではと思った。

 法医学の権威なら奇怪な死体について詳しいだろうし。


「あの、不躾なんですけどいくつかお伺いしたいことがあって」

「いい加減にしないか! 君らに構っている暇はないんだ!」


 オーウェン先生が割って入るが、伯爵がそれを手で制した。


「私は構わないと言っているじゃないか。ここは大学なんだ。学びたい者がいる限り質問には答えないとね」

「しかし……」

「それに彼らはエリザベスのお気に入りだ。私にとっては何にも勝る動機だよ」


 反対を押し切ってこちらに笑顔を向ける伯爵は(その理由は何であれ)絵に描いたような聖人君主っぷりである。

 周囲の人間が褒めちぎるのも頷ける。


 この機会を逃すまい。

 何から訊こうかと考えあぐねていると、オーウェン先生が大きなため息をついて身を退いた。


「そこまで言うのでしたら異論はありませんよ、


 ……え?


 心臓が口からでろんと飛び出そうなほどの衝撃を受け、動き出していた足が地面に縫い止められた。


 今、なんて言ったんだ?

 思考が全く追い付かず、魚が酸欠に喘ぐみたいに口をぱくつかせる。

 息の仕方を忘れ、目の動かし方を忘れ、何もできないままじっと伯爵の顔を見ていると目が合った。

 青い双眸が催促をするようにゆっくりと細められ、赤い唇が小さく動く。


「さあ、何が訊きたいのかな?」

「あ……、」


 嘘だ嘘だ嘘だ。


「あの……お名前、は……?」


 違うと言ってくれ。


「なんだ、そんなことかい?」


 そういえばまだ名乗っていなかったね、と伯爵は陽気に笑いながら、胸に手を当てて優麗な仕草で名を名乗った。


「レミントンスパー伯エドワード・ジェイムズ・モリアーティだよ」


 カツカツという靴音がぼやけた思考に差し込んだ。

 気づけば伯爵がこちらに歩いてきている。


 瞬間、がくがくと膝が震えだしてしまい、気を抜けば今にも倒れそうだった。

 湧き上がる恐怖に吐き気すら覚える。


 ジェイムズ・モリアーティ――


 あのシャーロック・ホームズでさえ命がけで戦った世界最凶の悪役ヴィランが目の前にいる。

 逃げなければ。

 この場から一刻も早く。


「どうしたんだい? 顔色が悪いが……」


 眉尻が下がり、愁いを帯びた表情で僕の顔を覗き込む。

 それは心底心配している人がする顔つきで、それゆえに僕をぞっと震え上がらせた。

 天使のような笑みが余計に空恐ろしい。

 悪を悪と思っていない、快楽連続殺人者シリアルキラーを連想させる……が、モリアーティ教授の恐ろしいところは、すべてを、生死さえも意のままに操るくせに、直接手は下さないところだ。

 忍び寄る悪にすら気づけないまま死んでいった人間が何人いることだろう。

 僕も、その一人になってしまうのか。


「あはは、なんか……急にお腹が痛くなって」


 周囲の人間は和気藹々と話しているのに、恐怖のあまりその声が遠のいて無音になる。

 静寂に包まれた解剖室の真ん中で、自分の声だけが妙に白々しく浮き上がって聞こえた。


「もう、お暇しないと」


 動けっ……。

 自分の足を叱咤し、背中にワトソンを隠すように後退した。


 何故、気づかなかったのか。

 自分の浅はかさに思い至って血の気が引いた。


 ホームズがいて、ワトソンがいて、レストレード警部がいて――事件が起きているのなら。

 その裏に潜む黒幕だって、存在するに決まっているじゃないか。

 馬鹿なのか、僕はっ……。


「いやいや、そんなことを言わずに……ああ、そうか」


 何かに気づいたような顔をして、モリアーティ教授が周囲を見渡した。


「こう見られていたら質問しにくいよね。君たち悪いんだけど、少しの間僕たち三人だけにしてくれないかな」

「いや、そんなことまでしなくても――」

「かしこまりました!」


 恐怖におののく僕を尻目に、白衣の男たちは何の疑いもなく部屋を出て行く。


「あっ……」


 待ってくれ、行かないでくれと手を伸ばしてみるが、誰一人振り返ることもなく解剖室のドアが閉められた。

 くそっ……。


「いや、やっぱり大丈夫です! 解決しましたから! ほら、行こうワトソンっ……」


 目だけは教授に向けたまま、背後に立つワトソンを背で出口のほうへと押しのける。

 が、急に背中から感触が消えて肩透かしを食らう。


 ふいに線香のような香りがして誘われるように振り向けば、ワトソンが僕を追い越して教授のほうへと歩いていくところだった。


「ちょ、ワトソン――」


 慌てて袖を引こうと手を伸ばすが、一瞥もせずに振り払われる。

 あれ、なんで……?


 そう思った瞬間、背中に鋭い痛みを覚えて「へ?」という間延びした声が出た。


 後ろに回していた手を背に沿わせると、どろっとした生暖かい何かが指先に触れる。

 ゆっくりと指をもたげると、肩甲骨付近に硬い棒状の物が突き刺さっていた。


「すみませんね、ホームズ」


 ワトソンの背が、僕に軽薄な声を投げる。


 振り返った彼の顔には、いつも通りの人好きのする笑顔が張り付いていた。

 だがどこかおかしい。

 瞳がだけが底なし沼のように黒く淀んでいる。

 しかも、


「う……」


 しばらくのタイムラグがあってから、口からぼとぼとと鮮血が落ちた。

 胸を床を真っ赤に染めていく血を見下ろして、視線をワトソンへと戻す。


 嘘だろう。

 ――?


 認識した瞬間、視界の中で床が近づき玩具のように全身が投げ出された。


 なんだ……なんだなんだなんだっ……。


 ワトソンがモリアーティ教授に近づき、持っていたタロットカードを差し出した。

 教授は晴れ晴れとした笑みを浮かべてそれを受け取り、白衣のポケットへとしまい込む。

 そして続き部屋のほうを振り向いて「これも吊しておいて」と当然のように言った。


「木を隠すなら森の中……っていう手垢のついた理論だけど、私は気に入っていてね」


 と何が面白いのか一人で笑っている。

 呼ばれて顔を出した大男が僕を一瞥し、「顔はどうします?」と問う。


「つぶしておいて。さっき研究員に見られているからね」

「へえ」


 と天気の話でもするようなトーンで会話が進み、カートがガラガラと近づいてくる。


 わからないことだらけだったが、いくつかの単語が繋がった。


 痛む背中、ワトソンの手から消えたメス、モリアーティへと手渡されたカード――

 


 だんだんと薄れていく意識の中で『どうして』の四文字がエンドレスリピートで再生される。


 どうして、ワトソンが裏切るんだよ。

 いつから、繋がっていたんだよっ……。


 途端、その答えを示すように頭上から声が降ってきた。


「ご苦労だったね」


 教授が微笑んでポケットから何かを取りだす。

 それは札束だった。

 薄い紙でまとめられた紙幣がワトソンに手渡される。

 ワトソンはそれをじっと見つめて――


 嘘だ。

 受け取らないでくれ。頼むから……!


 僕の懇願も虚しく、満面の笑みでワトソンがそれを受け取り「もっと色をつけてくれてもいいんですけどね」と声を弾ませた。


 嘘だ、嘘だ、嘘だ!

 ワトソンが金で裏切るなんて。

 そんなの、嘘……。


 信じがたい光景に雷に打たれたような衝撃が全身に走る。

 総毛だつような寒気が全身を駆け巡るのに、ワトソンに刺された背中だけが熱をもって脈打つ。

 あまりの絶望、あまりの怒り、嘆き、窮迫感、震えるような悲しみに目の前がぐらぐらと揺れて世界がどす黒く塗りつぶされた。


 くそ……くそくそくそくそくそ――――――――――――――っ!!


「あんたの……すき、に、はさせない」


 掠れた声がちゃんと言葉になっているのかわからない。

 もう自分の声も聞こえなくなっていたが、それでも吐き捨てずにはいられなかった。


 宿敵・モリアーティを前にして。


「あんたを確実に破滅させることができるなら、僕は公共の利益のために喜んで死を受け入れてやるっ……!」


 思わず口から出た言葉は、本物のホームズも言い放ったあの台詞だった。


 しかしモリアーティ教授は意に介した風もなく、場にそぐわない笑みを浮かべて僕を見下ろしていた。

 凄絶に笑う天使のような麗人は、ニックなんか目ではないくらい気色の悪い存在感だった。

 その隣に寄り添う、無機物のようなワトソンも。


 狂っているほうが、きっとまだ人間らしい。

 狂わずにこんなことができるほうが、よほど恐ろしい――。


 最期の最期でそんなことを思い、


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