第22話 帰りましょう、ベイカーストリートへ

 腐っている床板を避けつつ教会内を駆け抜ける。

 高い天井に足音が響くかと思ったが、しけった床板が功を奏したのかそれほど大きな音はしなかった。

 祭壇までたどり着き、庭に続くドアの前で一度立ち止まった瞬間。


「助けてええええっ!!」


 イライザの声だ。


 金切声に驚いて身動きが取れなくなった僕の横を、ワトソンの手がすり抜けた。

 わずかにドアを開けて中庭のほうを覗き込み「赤毛の男がいます。女性を温室へ連れ込もうとしていますね」と早口に言う。


「イライザとニックだ!」


 脊髄反射で飛び出そうとした途端、腕が後方に引かれてたたらをふんだ。

 と、同時にワトソンが一歩を踏み出して、腰のあたりから黒光りする何かを取り出している――それは回転式拳銃だった。


 レストレード警部が持っていたものよりも大ぶりな拳銃。

 ワトソンがそんなものを持っているなんて微塵も思っていなかったので思わず圧倒されている間、迷いのない動作で引き金を引いた。


 ばりぃんっ――――!


 撃ち出された銃弾はニックの脇をかすめ、背後に設置されていた陶器製のマリア像に命中した。

 乾いた音があたりに響き、ドアの向こうで「何だ?」という声があがる。

 刹那、「今です!」とワトソンが囁いて僕をドアの外へと押し出した。


 外に飛び出すと、ぽかんと口を開けて振り返っているニックが見えた。

 撃ち抜かれた像に気をとられて、ドアをすり抜ける僕には全く気づいていない。

 完全にワトソンの思惑通り。


「イライザ!」


 ぬっと伸ばした僕の手が彼女の細い腰を掠めとる。

 それまで手元にあった感触がいきなりかき消えて、ニックの口から「あぁ……?」という間の抜けた声がこぼれ出た。

 しかしまだその意味を理解していないニックが気だるげに視線を手元へ戻し、一秒ほど空白の時間が流れてからその目が見開かれた。


「どこに――」


 おそらく本能だけでぐりんと僕のほうを向いた。

 そのカンは恐ろしいほど正確だが、すべてがもう遅かった。

 僕はイライザを抱き寄せたまま、すでに二メートルほどの距離を開けていて――。


「どこに行く気です?」


 退路には、微笑みながら銃を向けているワトソンが立っていた。

 一歩ずつ距離を詰めるたび、その笑みが濃さを増していく。

 背後に黒いオーラが見える気がした。


「地面にうつ伏せになって、手は後頭部に」


 冷ややかな声でワトソンが指示をした。

 それ以外にはイライザの荒い呼吸音しか聞こえない。

 ピンと張り詰めた空気の中で、ニックは僕とワトソンの顔を交互に見て――


「はーあ、嫌だなあ」


 場にそぐわぬ軽薄な口調で天を仰いだ。


「おい早く」

「俺はさぁ」


ほぼ同時に声があがるが、ニックのどすの利いた声が僕に言葉を呑み込ませた。


「女以外と心中する趣味はないんだけど、まあこうなったら仕方ないよね」


 含みのある言葉だ。

 その意味を図りかねている間に、ニックが温室前に植わっていた低木へと手を突っ込んだ。


「動かないで――」


 ワトソンが銃を突きつけるが、躊躇うこともなくそれを引っ張りだす。


 脛くらいの大きさの箱にT字のハンドルがついている物体だった。

 箱からは一本の導線が伸びているが、中庭の草に埋もれていて途中が見えない。

 それを見て、脳裏に浮かんだのはレストレード警部の言葉だった。


 ――しかもあいつ教会の外壁に爆弾まで仕掛けていたらしく、誘爆で砕けた瓦礫が奴をぺしゃんこに押しつぶしちまったんだから。


 瞬間、《起爆装置》の四文字が脳を横殴りにした。

 跳ねるように視線を外壁へ向けると、寄り添うように置かれている木箱が見えた。

 荒く打ちつけられた横板のせいで不揃いに隙間があいている。

 そこから、明滅する赤い光と黒光りする筐体が見えた。


 (このままだと全員死んでしまうっ……)


 気づけば、僕はイライザを背後に突き飛ばして駆け出していた。

 それまでにない速度で地面を蹴ると、爆弾に覆い被さって背中を丸めた。

 どこか遠くで、ワトソンの絶叫とイライザの悲鳴が聞こえた。

 しかしそれよりもはっきりと鼓膜に届いたのは、かちりというハンドルを押し下げる小さな音だった。


 





 爆弾の威力は知っている。

 壁を粉々にしたのを僕は見ていた。

 それでも身体は動いていた。


 僕は死んでも生き返るとか、そんな打算的なことも全く考えていなかった。


 だってそうだろ?

 死に戻ってやりなおすことが目的なら、何も爆弾の真上で死ななくたっていい。

 爆弾との距離が近ければ近いほど痛いわけだし、それならイライザと一緒に離れたところで死ねば苦痛は少ない。


 もっとひどくてわかりやすい言い方をすれば、イライザを盾にしたっていい。

 あの威力ならイライザ越しでも

 なら、肉壁に隠れて少しでも痛みを和らげたほうが賢いだろう。


 それをしなかったのはたぶん、もう二度と依頼人を死なせたくなかったからだ。

 本能が自分の安全よりも、依頼人が助かる可能性に賭けていた。


 ……死、ぬ――


 ぎゅっと目をつぶり、身を固くしてそのときを待った。

 一秒、五秒、十秒。

 しかしいくら待ってもそのときは訪れず、さすがにおかしいと思って顔をあげて、


「あれ、なんでっ……なんでだよっ!?」


 ぎょっとした顔で、ハンドルを上下させているニックがいた。

 あっけにとられている僕の前でワトソンが動き、ハンドルを握る手を背後にひねりあげる。

 そのまま腕を押しつけると「痛い痛い痛い――っ!!」と呻きながらニックが膝を折った。

 頬を土につけた不格好な四つん這いになり、地面にねじ伏せられる――と。


「スコットランドヤードだ! 動くなあ――っ!」


 という声が


 ぎょっとしてそちらを向けば、地面にスライディングするような格好になっているレストレード警部がいる。


「え? あれ? なんでっ……」


 自分の目を疑って、パチパチと瞬きを繰り返す。

 その間にも続く警官隊がドアから突入してきて、ニックのもとへと駆け寄った。


 腹ばいになっていた警部が芝生をはたき落としながら立ちあがり「ちっ」と鋭い舌打ちをした。

 「汚れちまったじゃねぇか」と苛立ちを隠しもせずにガシガシと後頭部をかきむしる。


「どうして……」


 へにゃっと爆弾の入った木箱の上に倒れ込むと、


「な、お前なんてところに寝そべってやがる!? それ爆弾だぞ!?」

「ええっと、僕の身体で、少しでも威力を削ろうかなって――」

「馬鹿野郎、そんなことしたら死ぬだろうが!!」

「はあ、まあ……」


 気のない僕の返答に、


「アヘン窟への単独潜入といい……死にたがりかお前は!」


 鋭い一喝を吐き捨てながらレストレード警部が近づいてきた。

 よく見れば手に何かを持っている。

 目を凝らせば、鈍色に光るはさみだった。


「はさみって、もしかして導火線を――」

「切った」


 けろっとした顔でそう言うとはさみをポケットにしまった。

 まあ確かに導火線を切れば爆発はしないのだろうけれど……。

 虚をつかれたせいで、納得したようなしていないような気分になる。

 というかそもそも――


「なんでここがわかって……?」


 爆発が阻止されたことももちろん気になったが、それ以前に何故レストレード警部がここにいるのかがわからなかった。

 この場所は誰にも告げずに来たはずだ。


「そこの食えねえ男が新聞配達のガキを使って呼び出したんだよ! 爆弾もあるぞって脅迫まがいにな! ったく、普通の刑事ならガキの言い分なんか信じないからな。博打打ちやがって」

「あなたは普通の刑事ではなさそうだったので」


 ニックの身柄を警官に引き渡しながらワトソンが笑った。

 それを見たレストレード警部がさらに面白くなさそうに舌打ちを重ねる。


 僕は思考が追いつかず、しばらく放心状態でレストレード警部と、ワトソンと、連行されていくニックと、助け起こされているイライザと……をぼんやり視界に収めて、


「終わった、のか」


 呟いたと同時に、実感が喉元までこみあげてきた。

 しかしごちゃごちゃの感情は言葉にならず「……っ」と唇を噛みしめるので精一杯だった。

 そんな僕のもとへワトソンが歩み寄ってきて、すっと手を差し出した。


「事件解決です、名探偵」


 引き起こされながら、視線をワトソンへと合わせる。

 無言でいると再びワトソンが口を開いた。


「帰りましょう、ベイカーストリートへ」

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