第28話 僕にとって、死ぬことは。

 一人部屋に残った僕は、枕の下に手を伸ばした。

 指先の感覚だけでホームズ大全を引っ張りだすと、その表紙をめくる。


 ニックを無事に捕まえたあとなので、本はホームズを絶賛する言葉で溢れていた。

 だがそんな活躍よりも、僕の目はとある文字列を追っていた。


 《ワトソン》の四文字だ。


 ほぼすべてのページに登場するその四文字が、彼がいかに大切な存在だったのかを雄弁と物語っていた。


 ページをめくるたび、二人の活躍が綴られるたび、気づけば僕の顔に笑みが浮かんでいた。

 楽しくて、わくわくして。

 おじいちゃんと語り明かした夜が鮮烈に蘇る。


 ホームズは僕にとってのヒーローで、どちらかといえば、僕はワトソンだった。

 だから知っている。

 ワトソンがどれほどホームズを愛していたか。

 そして、ホームズがどれほどワトソンを信頼していたか。


 史実のワトソンなら絶対に裏切るようなことはしないだろう。

 なぜなら、史実のホームズは僕と違って完全無欠な名探偵だから。


「ワトソンが好きなのは、本物のホームズだ」


 自分で口にしておきながら、その一文が妙に心へと突き刺さった。

 

 彼の〝好き〟は僕が抱くような幼稚なものではなくて、もっと合理的で実利を伴った感情だ。

 無能な僕は、愛想を尽かされてしまっても文句は言えない。


 胸がきゅっと締め付けられる。

 なんだかもう笑えてきて「あはは」と声に出してみた。

 白々しい乾いた声が、空っぽの部屋によく響く。

 こんな幼稚な感情を向けられたところで、誰の胸に響くというのか。


 現実はそんなに甘くない。

 オカルトからロジカルに移行しているロンドンのように、もう僕らの年齢では〝好き〟なんて曖昧な言葉に実質的な意味はない。


 しかし唐突に、レストレード警部の言葉が頭の中に響いた。


 ――『余計なこと考えるな。好きなものは好きって言えばいいんだ。いくつになってもな』


 そんな贅沢、許されるのだろうか。

 こんなニセモノの僕に。

 能力も完全に劣っていて、実利なんかとは無縁の僕に。


 あのワトソンが人を殺すなんてよほどのことがあるのだろう。

 そうでなければ、今後の人生すべてを棒に振りかねない殺人を犯すとは思えない。


 しかしあの超人は、ワトソンに殺人のリスクを冒してもいいと思わせた。

 リスクと利益を天秤にかけ、利益が上回ると思えるものを提示できたのだ。


 僕はワトソンに利益を示せなかった。

 だから裏切られた。

 ……それだけだ。


「……ワトソンなんか、嫌いだ」


 ぼやきながらページをめくった僕の目に、信じられない光景が飛び込んできた。


 ページをめくった瞬間だった。

 印刷されていた文字が途端に薄くなり、瞬く間に白紙になってしまった。


「……………………は?」


 目を疑った。

 気が狂ったのかと思った。

 手で両目をこすり、拳を作って頭を殴ってみる。

 しかし本は白紙のままだ。


「どういうことだよ、これ!?」


 ぱらぱらとページをめくってみる。

 しかしどこを開いても白紙、白紙、白紙―


「嘘だろっ……」


 なんでだよ、どうしてだよっ……。

 僕からワトソンを奪っただけでは気が済まないっていうのか。

 未来、過去……すべての記録ごと持っていくというのか。

 ワトソンとホームズの活躍を、二人の軌跡を取りあげて。 

 おじいちゃんと僕の思い出を取りあげて。


 しかしすぐに、頭を横殴りにされたような衝撃が走って理解した。


「僕がワトソンを〝嫌い〟だなんて言ったからなのか? 僕がホームズとワトソンの関係を否定したから……だから未来も、過去も、すべて消えるって言うのかよ!?」


 シャーロック・ホームズの物語はホームズとワトソンの信頼関係があってこそだ。

 なのに僕はそれを否定した。


 〝それならもうホームズはいらないよね〟

 ――そう、歴史が言っている気がした。


 僕の問いに答えるように、一陣の突風が吹いた。

 本を押さえていた手でつい顔をかばう。

 たちまち自由になったホームズ大全のページがバラバラとめくられていき、二九〇ページを開いたところでぴたりと止まった。


 確かこのあたりは《シャーロック・ホームズ最後の事件》でホームズがワトソンに宛てた遺書が掲載されていたところだ。

 白紙ばかりのページの中で、消えずに残っている一文があった。

 読んだ瞬間に息が止まる。


 ――『君の忠実なる友より』


 それはホームズが遺書の末尾に結んだ言葉だった。


 本物のホームズがワトソンに向けて最後に綴ったのは、友への厚い信頼の言葉だ。

 事件の解決を託す、揺るぎない言葉だ。


 だのに、僕は。


「余計なことは考えるなよ」


 もう一度、言い聞かせる。

 今度はもっと強く、もっと確実に脳へと刻み込まれるように。


 先ほどとは真逆の言葉を。


「ワトソンが金で僕を裏切る? なんでそんなことを信じようと思えるんだよ。ホームズならば絶対にワトソンを疑ったりしない! 事件の解決だって、どんなことがあろうと――例えライヘンバッハの滝から落ちて死のうとも諦めたりしないはずだろ!」


 その瞬間、僕は駆け出していた。


 ワトソンが裏切った理由も、どうすれば裏切らないでいてくれるのかもわからない。

 錬金術なんて言う最高難易度のチートを持つ天才に、どうやって勝てばいいのかもわからない。


 それでも、僕は諦めたらいけないんだ。

 事件の解決を。

 ワトソンとの関係を。


 ワトソンがいて、彼は最高の相棒で、二人で最凶最悪のモリアーティ教授に立ち向かう――このシャーロック・ホームズの世界は、何があろうと崩してはいけない。


 そのために僕は、伝えなければならないんだ。


 ワトソン、君は僕にとって最高の相棒だよ、と。


 あの甘ったるい紅茶、嬉しかったよ、と。


 だからもう一度一緒に、事件を解決しよう――


 当たって砕けて、死んで生き返って。

 たとえ一度目の言葉をワトソンが知り得ないとしても。

 僕にしか累積しない感情だとしても。

 それしか、モリアーティ教授に勝てるものを持っていないのだから。


 僕は走る。

 死んでも構わない。

 そうしたらまたやり直せばいい。


 死に戻りはきっと呪わしいものではない。

 何もない僕に神様が与えてくれたチャンスなのだ。


 僕にとって死ぬことは、再起への切符だ。

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