第三章 WHO is Loser?

第12話 ホームズって子供っぽいところがありますよね

 輪郭のはっきりしない意識の中で調子外れの陽気な歌が聞こえてきてはっとなった。


 あたりを見渡せば芥子色のビルが両脇にそびえ立っていて、道の向こうには魔女の指のように骨張った木々が顔を覗かせている。


 ベイカーストリートを北上中、ということらしい。


「とりあえずよかったじゃないですか」


 声が聞こえたほうを振り向けば、半歩下がったところにいるワトソンがサンドイッチを頬張っている。

 指についたピーナッツバターを舐めとりながら、


「あげませんからね?」


 さっと包みを懐に隠したので、


「どっちにしろくれないのかよ」

「何の話です?」

「こっちの話」


ぞんざいな相槌を打つとワトソンもたいして興味がなかったようでサンドイッチを貪る作業に戻っていく。


 今日は本当に散々な一日だ。

 本棚に押しつぶされて死に、馬に蹴られて死に、理不尽に水をぶっかけられ(コートは今なお生乾きだ)、アヘン窟で手錠をはめられて、昼食も食べ損ねたうえに馬に蹴られて死ぬ(二回目)が加わった。


 本気で悪魔払いを検討すべきかも。


「くそ、もう無駄死にだけはこりごりだ」


 法則性はわからないが、少なくとも毎回ワトソンとの出会いからやり直さなくてもいいとわかったのは不幸中の幸いだ。

 だからといって残機がいくつあるのかもわからないのに馬に蹴られて死んでいる余裕なんてない。


 無意識に蹴られた胸のあたりをさすっているとワトソンが最後の一口を頬張って、僕のことを満面の笑みで追い抜いた。


「そうだ、ここまで来たなら気分転換にハイドパークでも散歩しませんか?」

「嫌だ!」

「おや、なんでですか?」


 遠くのほうから馬の蹄の音がして自然と足が止まった。

 前を歩くワトソンが二、三歩僕を置き去りにしたあとついてきていないことに気づいて「ホームズ?」と振り返ってこっちを見ている。


「……馬がいるからだ」


 隠しても仕方がないので正直に答えるとワトソンは胡乱な視線を向け、


「馬がお嫌いなんですか?」

「嫌いだ」


 というよりも馬が僕を毛嫌いしているのだ。

 馬の気持ちなんてわかりたくもないが、そう言い切っていいくらいにはやつらに殺される確率がすこぶる高い。


「ふぅん」


 頑としてそっぽを向くとなんともリアクションできない顔を向けられた。


「ときどきホームズって子供っぽいところがありますよね」


 悪かったな。

 自覚していることをさらりと言われ、やさぐれ半分で針路を当てもなく西へ切ろうとして、


 ぎゅるるるるるるるるる――……。


 腹の虫が鳴ってしまった。

 最悪だ。


「お腹がすいているからピリピリしているんですよきっと。ロンドンシーズンのハイドパークは昼時になるとみんなピクニックをしていて露店も出ているんです。だからそこでお昼でも食べましょう」


「いや、でも……」


「馬が怖いならホームズはベンチで待っていればいいですから。僕が代わりに買ってきます」


「……それなら、まあ」


 そこまで言われて駄々をこねるのはさすがに子供っぽ過ぎるという認識くらいはある。


「行くか、ハイドパークに」


 進路を北に切った。

 これ以上情けないところ見せて幼稚なやつと思われるのも癪に障るし。


 妙に上機嫌なワトソンに背中を押され、仕方なくハイドパークへ向けて歩き出した。

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