第2話

何度も本と書き写し終えた紙を見比べ、小さく頷いたカナメが顔を上げ立ち上がる。

本を戻そうと振り返った瞬間、カナメが声にならない叫びを上げ床に座り込みそうになった。

座り込まずにすんだのは、崩れ落ちかけたカナメの腕を取り支えている青年がいたからである。

「足音なく、後ろに立たないで!いつも言ってるだろ!言ってるよね?聞いてるよね?分かっててしてるだろ!」

「すまない……」

この国の第一王子であるマチアス・アルフォンス・デュカス、その人だった。

「泣かせて悪かった」

「まだ、泣いてないよ!ほら、泣いてないよ!!」

無言で否定したマチアスは壁にかかる時計を見上げた。もう6時を過ぎている。

「こんな時間まで何をしているんだ。カナメは学園生であって誰かの補佐官ではないだろう。こんな時間まで、まったく」

「こんな時間を二回も繰り返さないでください。わかってます」

涙目で──カナメのプライドに配慮して決して涙は落としていないと記しておく──言ってカナメは本を掌に乗せた。

心得ている精霊がそれを元に戻してくれる。相変わらずの精霊使用方法にマチアスは彼らに知られないように微笑んだ。

「戻るぞ。ほら、それを貸せ」

「自分で持っていきます」

「俺が持って行く。今この瞬間だけは“俺の時間”だ」

さっと荷物をまとめると片手で持ち、自由な手はカナメの腰に回す。

カナメはそれから逃げようと動いてみるが、やはり今日うまくいかなかった。

「私から俺に戻れる時間は少ないのだから、その時間くらい俺の好きにさせてくれ」

「俺がいつも拒絶してるような言い方しないで」

「拒絶してるようなものだろ」

心底嫌そうな顔で“俺の時間”と言ってカナメを見てくるマチアスの視線に、「う」と詰まったカナメは言い直す。

「アルのが僅かだから、そう感じるだけ」

「エティの卒業まで自由にカナメとの恋愛を晒すつもりはないから、致し方ないだろう」

「わかってるけど、部屋で二人きりになっても微妙な距離感。それをエティに『カナメが不憫で……僕のせいで、ごめん。ごめんね、カナメ』とか言われて、俺がどれだけ居た堪れないと思うか……」

カナメが扉の前の照明のスイッチに触れる。

明かりが一気に落ち、部屋が暗くなった。

すぐに部屋を出ようとするカナメをマチアスの腕が引き止める。

一瞬だけ触れ合ったのはお互いの唇。

すぐに離れマチアスが扉を開けた。

逃げるように部屋から出ようとしたカナメの目には涙が溜まっている。

「暗闇が怖いってわかってて、ああいうことを!」

「良い事で上書きは、やはり出来ないんだな」

「真面目な顔で言うことか!」

「すまん」

しれっと言っておしまいにしたマチアスの“俺に戻った笑顔”をしっかり見たカナメは、「でもまあ嬉しかったから良い」と言いそうになった声を思い切り飲み込んだ。

美丈夫という言葉に服を着せたらこう言う男になるんだろうな、と言う容姿のマチアスの“俺の時間”に見せる表情をほぼ独り占めしているカナメも、いまだにこの笑顔に弱い。

そういうカナメも「ギャロワ侯爵家の次男は美人だよな」と人の口に上がる容姿なのだけれど。


部屋を出れば二人の距離は“幼馴染”であり“学友”の距離に戻る。

殿が持っていた荷物をさっとカナメは取り上げてしまう。

悪気のない声で「すまん」と言ったマチアスの眉が一瞬、寄ったのをカナメは見逃さなかった。

「俺、アルの“そういう性格”が好きだからでいいよ」

暗闇のせいでこぼれかけた涙が落ちる前に、グイッと袖で拭ったカナメは笑う。


家族思いで優しく厳しく、そして愛情深かった|子供__マチアス》はそのまま大きくなった。そして初めて会った時から今に至るまでずっと、その愛情を自分に向けてくれる。

最初は「俺は婿に行くのだ」と言っていたカナメもついに陥落してしまったが、それだって“悪くない”陥落だった。

普通に、例えばどこかに婿養子とか、このまま男爵として嫁をもらうか。普通にそういう未来を想像してそれでいいと思っていた、小さな頃から喜んで“普通の貴族の次男坊”を望んだカナメは、どう考えても大変な未来を想像するしかない人の手を取ったのだ。


それがどれだけの“事件”だったか。


母が衝撃で倒れ2日寝込んだり、父と兄がその決断で何を叫んだか分からないほど驚いた。そんな“事件”だったのだ。

自分だって自分から聞いたら驚いて悲鳴の一つは上げるだろうそんな事件だったのに、それでもカナメがマチアスの気持ちを受け入れたのは全て、“マチアスのそういう性格”が好きだからなのに。

マチアスはよくこうして眉を寄せて「すまん」と言う。

そのは時々によって違うだろうけれど、それでもこの男だからきっとどんな時だってこんな《《不甲斐ない自分》に付き合わせて、手を離せなくてすまない、が込められる気がする、とカナメは言われるたびに思う。

だからカナメはいつだって笑顔で「そんなアルが好きだよ」と素直に言って聞かせる。出来の悪い子供に言い聞かせるように、何度も何度も。


今日もそんな思いを込めたカナメの笑顔を受けたマチアスは瞬いてから、そっと音が周囲に漏れないように透明の障壁を作り

「俺も、暗闇とお化けにビビって、俺の部屋から一週間帰れなくなったカナメの性格を込みで愛してる」

なんて言うから、カナメは

「いい性格してるよね。俺もそう言う性格に生まれたかった。なんで俺、アルと付き合ってるのかわからなくなるよ」

と言って、“外行き”の涼しい顔をしているマチアスを睨みつけた。

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