同13時、アーネ・リルクヴィスト
マチアスの顔が若干苦いものになったのを、アーネは見逃さなかった。
彼は知っている。
食事中、あの会話の後でマチアスの顔が苦いものになった理由を。
カナメを無事に教室へ送り届けたアーネは今、王族や彼らの婚約者の従者が利用できる控え室へと向かっている。
この場所の近くにあるので、そんなに距離が離れていない。
部屋に入るとカーテンで遮れずに室内に入る光を避けて椅子を、その光の当たる場所にテーブルをずらし、椅子に腰掛け手帳を取り出した。
最後の方のページには、彼の従者教育にあたった男のメモが二枚挟まっている。
この男最後の生徒がこのアーネ。
その男が書いたメモは手帳が変わっても、ここに必ず挟んだ。
メモがずっともらった時のままの姿で綺麗に残るように、専門の人間に頼み魔法までかけた、二枚の紙を。
アーネはカナメよりも九歳年上である。
マチアスとカナメがまだ幼くただの学友であった頃、それこそカナメが精霊と契約した時は学園にも入学していない頃だ。
この頃はアーネではない従者がカナメの専属で、アーネはカナメの専属従者になるためにエトムント子爵弟のエッカルト・ドレムラーに従者としての教育を受けていた。
アーネは彼エッカルトに褒められ怒られ注意されそして褒められ、そうして今、従者としてカナメの後ろに控えている。エッカルトがいなければきっと、彼がどんなにカナメに忠誠を誓っても今の場所にはいなかったかもしれない。
アーネならば間違いないと、彼ならば絶対にカナメにとって唯一無二の従者になるから彼を私に預けて欲しい、そうエッカルトがシルヴェストルに直談判したという話が残っている。
きっと、エッカルトはアーネに何かそう言うものを感じたのだろう。
そんなエッカルトはアーネならば独り立ちして問題ないと判断したら次の行動早く、さっさとギャロワ侯爵領地に引っ越し、カントリーハウスで暮らすシルヴェストルの父の下で働き始めた。
シルヴェストルの下での最後の仕事が、カナメに唯一無二の従者をつけること、だったのだろうか。
エッカルトが領地へ行くことを引き留めた声もあったようだが、あちらの方が病気の妻にとっていい環境だと言いあっさりと旅立ってしまった。
移動する馬車の中でエッカルトがおいおいと泣いたという話もあるが、さてそれは本当だろうか。誰もが口を閉ざしているので、噂でしかない。
まあ、それはさておき、エッカルトの厳しさにも負けじと食らいついたアーネは確かに、カナメにとって唯一無二の従者になったのである。
ここで余談だが、彼の兄でありサシャのそれこそ唯一無二の従者ヨーセフも同じ男に扱かれている。
ヨーセフの時はこのエッカルト、
──────旦那様、ヨーセフはサシャ様に相応しい、それこそヨーセフしかいないというそんな従者になりましたが……そうならなくてもいいところまでそうなってしまったようで……これはもう、私の不徳の致すところでございます!!!旦那様、本当に……ああ、申し訳ありませんでした!!
なんて頭を深く深く下げたとか。
そうならなくてもいいところ、はもう皆様ご存知だと思うので割愛しよう。
今日のあのマチアスの顔にどれだけの人が気がついただろう。
アーネは自身とカナメは気がついたと確認している。
角度の問題でアルノルトは気がついているか微妙なところで、エティエンヌとシェシュティンは好みの料理に注目していたようでマチアスを見ていないため気がついていない。
他の生徒までアーネは確認できていないが、あれほど少しの変化は多分気が付かないだろうと考えている。
(カナメ様は根に持ちますが、マチアス殿下は根には持たなくても記憶力で忘れられないのですね)
マチアスの顔が苦く変化したのは今日の食事中、無事に互いの皿を交換して少しした時だ。
シェシュティンが「私、そろそろ出回るポワズ産の紅茶が一番好きですの!カナメ様のお母様のご実家の領地ですわね。これも縁ですわね!うふふふ」と言い出したことがきっかけとなっている。
シェシュティンが言うように、そろそろカナメの母デボラの生家であるポワズ伯爵領の紅茶が出回る頃だ。
その中でも最上級のものはまず王家、そして王家の後にデボラの婚家であるギャロワ侯爵家に届き、あとは高位貴族が我先にと購入していく、まさに高級ブランドもの。
飲用のための茶葉として売り物にできない紅茶は製菓用、また石鹸の材料などとして職人が買い求め、剪定のために切り落とした枝まで何かしらに加工される。そう、この領地ではあますところなく使うのだ。
その紅茶は王子であるマチアスはもちろん、ギャロワ侯爵家のカナメにとっては大変馴染みのある味となっている。
中身が変わっても一度も変わっていない手帳の革カバーを触り、アーネは
(カナメ様は根に持ち、マチアス殿下は忘れらない。私も、今でもちゃんと思い出します)
心で呟き、小さく笑った。
あの日はカナメが城から戻ってきた。とてもむくれた顔で。
おかえりなさいませ、と言った当時十五のアーネをカナメは見上げて
「アーネ、紅茶をいれて!」
と突然言い出す。
アーネは戸惑いながら「かしこまりました」と言い、カナメの後ろに控える当時のカナメの専属従者を見る。彼はなんとも言い難い表情で頷いた。
上司の了解が得れれば小さな主人の頼みを聞くだけだ。
メイドにカナメの部屋に支度をするよう指示をし、アーネはカナメの荷物を持ちカナメの自室へ向かう。
その間もカナメはずっとムッとした様子のまま。
(一体何があったんだろう?カナメ様、相当いじけてるように見えるんだけど……)
ちらっと自分の隣を歩く上司を見れば、彼は変わらずなんとも言い難い表情だ。
何かをアーネに伝えたいと思っているような、そんな顔にも見えるがその内容までアーネはわからない。
首を傾げつつカナメの部屋でアーネはポワズ伯爵領産の最高級茶葉で紅茶を淹れた。
ひたすら練習した甲斐もあって、今ではダメ出しなんて受けない、完璧な一杯だ。
その様子をじっと見ていたカナメは出されたカップを上からじっと眺める。
(え?色の確認?え?)
カナメはついでカップを持ち上げると「クン」と匂いを嗅いでいる。
アーネは何事かと恐る恐る上司を見た。小さな主人の挙動にアーネの心には不安という敵が全力で襲ってきている。
上司は小さく首を振った。それは大丈夫と言っているようにも見えたし、気にするなと言っているようにも見えた。
戦々恐々──この時のアーネの心境はまさにこれであった──しているアーネの前で、ようやくカナメが紅茶を飲んだ。
一口ゴクリと飲み、カップをソーサーに戻す。
しばらくしてようやく口を開いた。
「なんで、おいしんだろう」
思わず「は?」と聞き返しそうになったアーネに、カナメは
「お母様の茶葉でしょ?これ。おいしいよね?ね?なんでおいしいの?」
「え……美味しいのと言われましても、ええと、普通に淹れましたので、こう、特別なことは何も……」
「うそだあああ、なにかしたよおおおおお。みんな、ぜったいになんかしてる!!!」
「いえ、一番美味しく飲めるよう、その方法で淹れております」
行儀が悪いと嗜められるだろうに、カナメは顔を両手で覆って「いぎぎぎ」と奇声を上げた。
流石のアーネもこの時まだ十五。若干引いた。
「聞いて、アーネ。ちゃんと聞いて」
「はい」
両手を顔から離したカナメがアーネに言って聞かせた話はこうだ。
城で休憩中、マチアスとちょっとした言い合いになったらしい。
紅茶の淹れ方について。
どうやら二人とも真面目に紅茶の淹れ方について学んだのは本当につい最近のようで、互いに自分の方がきっと上手だと譲らなかった。
そんな二人を見ていた、休憩をしつつ彼らを警護もしていたヘインツ──カナメとマチアスの魔術家庭教師として二人が幼いときから教えている。彼は平民から王宮魔術師団に入り、王子の教育係にまでなった秀才児だ──が「お二人が淹れあってみればどうですか?」と提案したそうだ。
それになるほどとなった二人は早速実行したのだが、二人ともにむせかえるほどに苦い紅茶しか淹れられなかった。
そこでカナメは、自分と他の人間が同じ工程で紅茶を淹れているかどうか、何か魔法でも使っているのではないか、とアーネに頼んだのだ。
「どうして、私なんですか?」
「アーネはうそつかないとおもったんだもん。それにアーネのいれてくれるのは、一番美味しいと思ったから」
カナメは全く違わずにそう言った。
アーネは、自分のこの忠誠心という思いが、カナメの中で自分への信頼という形で蓄積しているのではないか、と初めて実感した日でもあった。
「きっと、あれを思い出していたんでしょうね。結局、勝敗はつかなかった、ということになっているようですし」
二人はその事件以降、紅茶の淹れ方や茶会のマナーまで、王妃もデボラも唖然とするほどに勉強した。
幼馴染で学友であった当時の二人にとって、譲れない戦いだったのかもしれない。
今では二人とも、十分に美味しい紅茶を淹れることができる。
それでもカナメは今でも言ってくれる。
──────俺は今でもアーネが淹れてくれたのが一番好きだな。これからも俺はアーネに頼むよ。絶対にね。
だから、どこに行っても自分を支えてくれたら嬉しいと思っている。
そう笑う大きくなった主人に、アーネは忠誠心で応える。
いつだって一番美味しい紅茶を出す。そしてそれを笑顔で飲んでもらうために。
彼の手帳の一番後ろには、彼をカナメの唯一の従者として育てたエッカルトから受け取った二枚の紙が挟んである。
そのうちの一枚にはエッカルトが長年の経験で会得した、誰よりも美味しく誰が淹れるよりも主人にホッとしてもらえる、そんな紅茶の淹れ方が書いてあった。
その紙の隅に書かれた「私は、君を信じている」の一言は、アーネが彼から受け取った最高の褒め言葉だ。
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