「ネエネエ」


 私の呼びかけに、ようやくネエネエは視線をこちらに向けました。


「どうして?」


 その質問に、彼女は顔をくしゃりと歪めました。そんな表情を見たことなかったものですから、あまりにも印象的でとても驚いたことをよく覚えています。


 それからそっと私を抱き寄せると、耳元でもう一度「ごめんね」と呟いたのでした。ゴンドラが地面にたどり着くまでの間、私はそうやってネエネエに体を預けていました。彼女の体温がじんわりと私を温め、その心地よさに私は幸福を感じ続けるとともに、今朝抱いた違和感の正体をようやく知ったのです。


 そんな幸せの時間は、がちゃりと扉が開く固い音によって、無理矢理終わりを迎えることとなります。少しずつ離れていく彼女の熱に、私は先程とは比にならない寂しさを覚えました。


 外には怖い顔をした大柄の男性達が数人と一人の若い女性が待ち構えていて、私とネエネエがゴンドラから外に出るのと同時に、のっしのっしと近づいて来ました。


「優雅に観覧車か」


 確かそのようなことを言ったと思います。どこか敵意を感じる物言いに、私は幼いながらに苛立ちを覚えました。私の手を握るネエネエの手は震えていて、私がいるよと伝えるために、そっと握り返したのでした。


「この子は?」


「先ほど話した子です」


 その言葉で納得したのか、男はふんと鼻を鳴らしました。それから何やら難しい言葉を二言三言唱えると、ネエネエの手に、金属の輪っかをかけたのです。


「ネエネエ?」


「幸せになりなさい」


 そう言って悲しそうに微笑んだネエネエは、不自由な両手を使って包み込むかのように器用に私の頭を撫で、そのまま男達に連れ攫われて行ってしまったのでした。


 側に立っていた女性に連れられ、車で何処かへ運ばれている間、私の心は不思議と落ち着いていました。それは決して前に座って運転していた女性がずっと私に話しかけてくれていたからとかでは絶対になく、ネエネエが抱きしめてくれた時の甘い残り香と温もりが、今も私の体を包んでくれているように思えたからです。


 ですから、ネエネエがもう側にいないのだと気がついたのはその日の夜。誰もいない部屋(そこが病室であると知ったのはもっとずっと後のことです)の窓から満月をぼんやりと見上げていたときのことです。ネエネエの部屋とは違う、無機質で、現実味のない場所。そこから見える満月にはいつも感じていた安心感のようなものはなく、むしろ、恐怖すら抱いたほどです。着ている服も、最後にネエネエがくれたものとは違う、薄桃色のぺらぺらとした頼りのないものでしたから、余計に私の不安を煽りました。


「ネエネエ」


 私はうわごとのように何度も何度もその人を呼びました。しかし、私のその呼びかけには誰も答えることがなく、ただ、しんと静まりかえった闇だけが辺りを覆っていたのです。


 恐ろしくて恐ろしくてたまりませんでした。あの人がもう側にいない。それだけのことがこれほど恐ろしいことだったのだと、私はそのとき初めて知ったのです。


 思えば、彼女は毎日私の側にいてくれました。どれだけ遅くなろうと必ず家に帰ってきて、私の作った食事を食べましたし、次の日も必ず私の作った食事を食べてから出かけました。


 もしかすると、ネエネエは私に罪悪感を抱いていたのかもしれません。だからこそ私に「幸せになりなさい」と言ったのかもしれないと、時々考えるのです。しかし、それももう彼女がこの世にいない今、確かめる術はどこにもないのですが。そして、ネエネエの言葉に背くような生き方をしてきた私に、彼女になんと言ってくれるのでしょうか。

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