⑤
毎月満月の日の夜(と言ってもそれは晴れた夜だけでしたが)私はネエネエの特別な道具になります。この日だけ、私はネエネエにとって、特別な存在になれるような気がしました。だからこそ、私は毎日が満月であるように願いましたし、月に一度。場合によっては月に二度に現れるその姿を強く望んだのです。どうかそんな私を笑わないでください。私にとってその日は、何物にも代えがたい、格別な日だったのですから。
ですが、そんな私とネエネエの日常が終わりを告げたのは、本当に突然のことでした。
その日、ネエネエは腰まで伸ばしていた髪の毛を肩ぐらいでばっさりと切り、そして、茶色く染め上げられていたそれを、病的なまでに黒く変えてしまったのです。
私はネエネエに何があったのかとうろたえてしまいました。しかし彼女はそんな私をいつもと同じ、無感情な目で見降ろしますと、相変わらず何も語らずに私を風呂に入れ、着替えさせました。当時、私は服を与えられていましたが、どれも袖口や裾がほつれていてみすぼらしいものばかりでした。ですが、その日私に与えられたそれらはどれも真新しいものばかりで、私が抱いた不信感はさらに大きくなりました。
「ネエネエ」
そう呼びかけますと、ぴたりと動きを止めて私を見ました。その時の目が、今まで見たこともないほど悲しそうで、私は何も言えなくなってしまったのです。しかし、それも一瞬のことで、次の瞬間には元の無感情なものに戻っていました。
「出かける」
ぶっきらぼうに放たれたその一言が、私にとってどれだけ嬉しかったことか。きっと誰にも、それこそあなたでさえも、分からないことでしょう。
ネエネエの運転する車から見えてくる普段とは違う景色に、私の心からはいつしか不安は消え、次第にわくわくの方が勝りました。ネエネエが連れて行ってくれた場所はどこか特別な場所だったわけではありません。なぜならそこは、何の変哲もない、ただの小さな遊園地だったのですから。
「乗りたいものは?」
ネエネエの口から発せられたそんな言葉に、思わず耳を疑いました。そのような言葉を、まさか彼女から聞くとは夢にも思いませんでした。
今までは私が願望を言おうものなら、無視されるか、ぶたれるかの二択であったからです。とっさのことで私が困惑していることに気が付いたのか、ネエネエは重苦しい息を吐き出すと、私の手を取ってどこかへ歩き出しました。
ただ、その手の温もりはもう忘れてしまったのですが。
最初に乗ったのはティーカップを模した乗り物でした。真ん中の円盤を回せば回すほど速く回転し、私はそれが面白くてくるくると回し続けました。正面に座るネエネエは最初こそ退屈そうにしていましたが、後半になってくると予想外な速さになった恐怖からか、少しだけ体がこわばっているように見えました。
乗り物を降りた時、軽く頭をはたかれたときはさすがにやりすぎたと、今度は私が体をこわばらせる番でした。しかし、ネエネエはそれ以上何かをするということはなく、ただ、胸の前でぎゅっと固く握っていた私の手を無理やりに掴み、次の乗り物へ向けて歩き始めたのです。次に乗ったのはメリーゴーラウンドでした。と言ってもネエネエは乗らず、退屈そうな表情を浮かべながら、馬の形をした模型にまたがる私を柵の外からぼーっと見ていただけなのですが。
そんな風に私はネエネエに連れられている間に、最初に抱いた不信感はきれいさっぱり消えていました。ただただ、ネエネエと一緒にこうして遊んでいられることが嬉しかったのです。
あらかた遊園地にある乗り物に乗り終わったとき、私はずっと気になっていることを訊ねてみることにしました。
「ネエネエ、あれはなに?」
私が指さした先には、真っ赤な円形の箱がくるくると回る不思議な建物がありました。ネエネエはそちらを確認すると、私が何を訊いているのかがわかったのでしょう。あぁ、と小さな声を漏らしました。それからすぐに私のほうに向きなおり、その正体を教えてくれました。
「観覧車」
「あれも乗れる?」
「乗りたい?」
私はすぐに頷きました。すると、ネエネエはしばらく思案したのち、茶色の財布から取り出した数枚のコインを私に握らせました。
「観覧車に乗る前に、そこのお店でソフトクリームを買ってきて」
そう言って指さされた先には小さな露店があって、その中ではにこにこと笑った、恰幅のいいおじさんが立っていました。
「あの人のところで、ソフトクリームを二つくださいと言ってから、今手に持ったものを渡しなさい。分かった?」
「でも……」
「いいから」
その日一番強い語気で言ったネエネエの言葉に、私は頷くしかありませんでした。
ネエネエを除き、今までは話しかけられることはあっても、私から話しかけに行ったことはありません。未知のものは怖いものなのだと本能的に知ったのは、あれが初めてのことだったように思うのです。
恐ろしさに足を震わせながら一歩踏み出しますと、おじさんの視線が私をとらえ、何かを問いました。何と言ったのかは、早鐘のように打つ心臓の音で聞こえませんでした。逃げ出したい衝動に囚われ、後ろを振り向きました。しかし、ネエネエは助けてくれることなく、ただただじっと私のことを見つめていました。その目には、今まで見たどの目よりも厳しい光を宿らせているように思われました。
「ソフトクリームを二つください」
そう言った声は、きっと震えていたことでしょう。ですが、おじさんはそんな私を馬鹿にすることなく、にこにこと笑ったまま、できたばかりのソフトクリームを二つ、私に手渡しました。
お金はあらかじめ机の上に置いていましたから、おじさんはそれ以上何も言うことはありませんでした。逃げるようにその場を離れた私は、手に持ったそれがこぼれないように気を付けながら、大急ぎでネエネエのもとへ向かいました。ネエネエは手に持った何かへぶつぶつと話しかけていましたが、私の姿をとらえると、大急ぎでカバンの中へそれをしまい込んでしまいました。
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