④
ネエネエの話によると、私とネエネエの関係は私が二歳ごろから始まるそうです。そうですというのは、その話が真実なのかを確かめる術がもうないからだということを、どうかご理解ください。
ネエネエは当時、若くして副支部長に昇進したばかりで、日々馬鹿な上司とくだらない部下との狭間に立ちながらの業務にストレスがたまっていたそうです。
そんなある日のことです。深夜に空腹で目が覚めたネエネエは、ちょうど買わなければならないものがあったと、家を後にしました。その日は満月が美しく輝いていて、薄ら寒さすら感じる通りでさえも、嫌にはっきり見えたのだと言います。
私が住んでいた町にはコンビニもあるにはありましたがネエネエの家から遠く、十五分は歩くこととなります。どうせ次の日は休み、久しぶりに歩いてみてもいいかもしれない。そう考えたネエネエは月明かりに照らされたその道を歩き始めます。もし仮に、その時のネエネエが車を使っていれば、私と出会うことはなかったでしょう。なぜなら、私が捨てられようとしていた場所は車の入れない、大きな池のある公園だったからです。
コンビニからの帰り道、ネエネエが近道だからと公園の中を歩いていると、池のすぐ近くでぐずる私とともに、一人の女性が困り顔で立っていました。それは先ほど通ったときはいなかった二人組で、こんな時間にと不思議に思ったものの、どこか近所の人なのだろうと自分の中でその時は結論付けたそうです。邪魔だと思いつつも、その横を通って行かなければ家への道のりは遠くなりますので、ネエネエは我慢して通ることにしたそうです。その時、ネエネエは小声ながらもはっきりと聞こえた声に驚き、思わず耳を傾けてしまったそうです。
「ママといたい」
「ダメって言ったでしょ? どうしてママの言うことが聞けないの?」
直感で、その女性がまだ幼い子どもを捨てようとしているのだと理解したそうです。しかし、ネエネエからすれば赤の他人。関わるほうが面倒だと判断したはずなのに、ネエネエは無意識のうちに彼女に話しかけていたそうなのです。
「どうしてあなたはその子を捨てようとしているんですか?」
留置所でネエネエは、その時の表情を今でも忘れられないと嬉しそうに話してくれました。そう語る彼女の顔はどこかうっとりとしていて、まだ幼かった私には驚くほど妖艶に見えました。女性の表情は後悔や寂しさ。そして、次への期待が込められているかのような複雑なものであったと言います。だからこそ、決めたのです。この女性を愛してしまおう、と。
偶然できてしまった子だから。育てる覚悟もないのに生んでしまった子だから。それに、この子がいると新しい人と一緒にいられないから。確かそのようなニュアンスのことを言われたそうです。その時の私は口を真一文字にきゅっと結び、そして、ネエネエのことをじっと見つめていたそうです。
「私と一緒に来る?」
ネエネエがそう語りかけた時、私は一瞬だけ本当の母親を見上げた後、すぐに頷いたそうです。その様子を見て安堵した女性に対し、ネエネエはいくつか質問したそうですが、女性は曖昧に答えるばかりだったようで、もうその時何を質問したのかも、女性がなんと答えたのかも、何も覚えていないと言っていました。ただ、覚えているのはコンビニで買ったものがおにぎりと、はさみであったこと。そして、女性の嬉しそうな顔が、吐き気を催すほどつまらないものであったということでした。
これが最後なのだと私に言い聞かせている女性を尻目に、ネエネエは静かに袋の中からまだ包装されたままのはさみを取り出し、ゆっくりと。女に気が付かれないように抜きました。その時刃物が月明かりに照らされて、非常に美しくネエネエの目に映ったのだと、嬉しそうに話してくれたのは特にはっきりと覚えています。
ある意味ではネエネエと私の母との出会いが、彼女の人生を大きく狂わせたと言えるかもしれません。また、ネエネエはその時の私についても話してくれました。本当なら、私も母と同じように愛されていたはずだったそうです。しかし、声を発することなく、動かなくなった母親を見ても、私は泣きも叫びもせず、ただじっと眺めているだけだったそうです。それどころか、ネエネエを見上げて、にっこりと嬉しそうに笑うのを見て、ネエネエは私を連れていく気になったと言っていました。名前も年齢も何もわからない私を。
私の母は小柄な女性だったようで、細身のネエネエでも簡単に彼女を持ち上げることができました。それから、その公園にあった大きな池へ、おもりを括り付けた母の遺体を投げ入れたのです。もし、このときバイクが大きな排気音を立てながら近くの通りを走っていなければ。いえ、誰かが偶然にもネエネエの行いを見ていたならば。ネエネエと私の生活始まらなかったはずです。
私は繰り返し問いたいのです。
ネエネエの行為は、世間一般の人々がそう言うように、本当に間違っていることなのでしょうか。ただ、彼女の愛し方と世間一般の愛し方が違うかっただけ。それだけのことではないのでしょうか。
全てを終えたネエネエは私の手を取り、そして、自らの住む家へと私を迎え入れました。それからは先ほどお話ししました通り、私はネエネエのもとで十年ほどの月日を過ごしました。どこまでも冷たく、しかし、泣き出したくなるほどに温かい時間を。
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