浩三さんはそのまましばらく車を道なりに走らせると、丘の上で車を止めました。


 浩三さんが運転席を出るのに合わせて私も外に出ると、眼下には夜景が広がっていました。正直それは言ってしまえばただの夜景です。


 ふと私が思い出したのは、勝太が免許を取ってから、初めて助手席に乗せてくれた日のことでした。今のような安心感はなく、危なっかしいところばかりでしたが、ようやっと彼が連れてきてくれたのがとある丘の上でした。そこから見える夜景を私は美しいとは感じませんでしたが、それでも綺麗だとはしゃぐ彼を見ていると、連れて来てもらってよかったと思ったのです。もしかすると、浩三さんも勝太から同じ事を聞かされていたのかもしれません。だから、彼もここに連れて来てくれたのでしょうか。


 私がそのことを訊ねようと後ろを振り返えるのと、突き飛ばされたのは同時でした。突然のことに驚いている間もなく、私は後ろ首と片腕を捕まれたまま車のボンネットに叩き付けられました。何事かと目だけで背後を見ると、浩三さんが今まで見たこともないような冷たい目をして、私を見下ろしていました。


「何が起こったのか分からないって顔だね」


 私が向けている視線に気が付いたのか、先程まで私に話しかけていた声音のまま言いました。首元にそっと当てられた刃物が冷たく、思わず体がはねたのが面白かったのか、浩三さんは愉快そうに喉の奥で笑っていました。


「これは別に息子のプロポーズを断ったからじゃないよ。むしろ逆さ」


「逆?」


 私がなんとか絞り出した声は酷くかすれていましたが、浩三さんはそれでも聞き取れたようで、何度か頷いて見せました。


「僕は君のネエネエ、沢渡愛良に憧れていてね」


 何を言っているのか最初は分かりませんでした。それでも、その一言でようやく全てが繋がったような気がしたのです。


「そうとも」


 絶句している私に、彼は満足げに頷くと、つらつらと事の顛末を話してくれました。


 浩三さんは警察として多くの死体を見ている内に、いつしか死体に対し性的な興奮を覚えるようになったそうです。そんな自分を最初は嫌悪していました。なぜなら自分は警官の身。人を守ることが仕事のはずなのに。でも人の死体が見たい。この手で殺してみたい。自らの願望をひた隠し、人を殺すわけにはいかないと、自分の欲望と戦う日々でしたが、退職したのを機に、ついに自分自身を抑えきれなくなってしまったそうです。


 人を初めて殺そうと決めた時、すぐに思い出したのはネエネエの事件でした。ネエネエの殺し方があまりにも物語的で美しく、特に満月の下で殺していたと勝太に聞かされてからずっと、自分も人を殺すときは同じようにしようと決めていたそうです。


 私はその話を抵抗することさえも忘れて聞き入ってしまいました。彼は私と同じように、ネエネエに魅了されていたのです。彼女の姿に、憧れたのです。ネエネエは美しい人でした。彼女ほど純粋な人はきっと、今後もこの世に生まれてくることはないはずです。


 彼女のことを知れば、きっと浩三さんのようにネエネエに心を奪われる人も出てくるはずです。それを否定することは、きっと誰にもできません。したり顔でそんなはずないと否定できる人ほど、きっとネエネエに心を奪われてしまうのです。


 でも、ダメなんです。例えどれだけ憧れても、私達はネエネエにはなれないのです。どれだけ似せようとしても、必ず不純物が混じってしまうんです。


 浩三さんはネエネエの行為を美しいと言いました。私もそれには全面的に同意します。ネエネエは自らの愛し方を貫き続けたのですから。それでも、彼がしたことは、ネエネエの美しさとはまるで別です。ネエネエは人を愛していました。ただ、愛し方が他の人と違うだけでした。


 それに、ネエネエは自分の快楽のために、人の命を弄ぶようなことは絶対にしませんでした。それが、それこそが本当の美しさではないのですか? どうして、ネエネエの本当の美しさに気が付かず、分かったふりだけをしてそんなことができるのですか?


 私が怒りに言葉を失っている間も、浩三さんは相変わらずべらべらと楽しげに話を続けます。


「君が独自に犯人を捜してると聞いたとき、これは逃げられないと思ったんだ。でもね、僕はふと気が付いたんだ。もしかしたらこれが一つの終わりになるんじゃないかって」


「終わり?」


「そう。僕はね、最後に殺すのは沢渡愛良の元で一番愛されていた幸嘉ちゃんって最初から決めていたんだ」


 浩三さんはそう言って本当に満足そうに息を吐き出した後、私の首元にあてがったナイフを強く押し当てました。首の皮が少し裂けたのが、熱された何かを押しつけられたような痛みで分かりました。


「僕もそう若くはない。人を殺す体力もそこまであるわけじゃないからね。だから、どうやって終わらせようかと考えたとき、沢渡愛良に一番近かった君を殺すことが、物語を終わらせることになるんじゃないかと思ったんだ」


 物語。そんなくだらない理由で、私は殺されなければいけないのでしょうか。くだらない。くだらなすぎて反吐が出る。


 私が何も言わずにじっとにらんでいたことが気に入らなかったのでしょう、浩三さんは掴んでいた私の腕をきゅっと捻りました。それがどれだけ痛くても、ここで声を出したら彼の思うつぼだと、唇を強く噛むことでなんとか耐えました。それでも、あまりの痛みに私の目からは涙があふれて、止まれとどれだけ心の中で叫んでも、止まってはくれそうにはありませんでした。


「でも、昨日勝太から君に結婚を前提にお付き合いを申し込んだなんて聞かされたから、僕がどれだけ焦ったか。それに、振られたなんてあいつが言うもんだから、どれくらい険悪なんだろうと楽しみにしてたのに、君もまんざらじゃないんじゃないか!」


 まんざらじゃない? 彼は何を言っているのでしょうか。私はちゃんとお断りしたと話したはずなのに。それでも、浩三さんはそんな私の気持ちなどお構いなしに、耳元でささやきます。


「さすがの僕でも身内を殺すのは寝覚めが悪いんだ。だから、君を殺すなら今しかないんだよ。ネエネエとずっと一緒にいた君なら分かってくれるだろ?」


 分かってくれる? 私が? あなたを?


 正直に申しますと、私は少しだけ信じていたのです。浩三さんのしているそれはネエネエを模倣しているのではなく、ただ綺麗に見えるところだけを取り繕っているのだと言えばすぐに反省してくれるのではないかと。もしそうならどれほど良かったでしょう。きっと私達はネエネエのことについて何日も何日も語り合うことができたはずなのです。ですが、彼はの理解は根本からずれてしまっています。


 そもそも、私とネエネエは家族でも、身内でもないのですから。


 私が勢いよく自身の頭を浩三さんの顔にぶつけますと、彼はぎゃっと悲鳴を上げて私を離しました。ナイフが私の頬を裂きましたが、もうそんなことに構う余裕などありませんでした。


 ただ目の前の彼が許せなかったのです。何を許せなかったのかはもう覚えていません。今まで溜まっていた何かが溢れ出しただけだったのかもしれません。何なら全てが許せなかったような気がしますし、逆に全てを許していたような気もします。それでも唯一覚えていることは、世界で最も美しい神様を、自分の都合でゆがめたこの男だけは、今ここで殺さなければ、ネエネエが安らかに眠れない。これは浩三さんがそうだったように、私だって今しかできないことなんです。


 私は無我夢中で近くに落ちていた拳ほどの石を拾うと、ナイフを持つ方の手に思いっきり振り下ろしました。ぐしゃりと嫌な音がして、それからすぐにナイフが地面に落ちる音が聞こえました。


 頭の奥で心臓がうるさいくらいに鳴って、呼吸が少しずつ浅くなっているのが自分でも分かりました。辺りは暗闇でしたから最初はどこにナイフが落ちているのかは分かりません。それでも、浩三さんが見つけるよりも早くそれを手に取った私は、そのまま思いっきり浩三さんにナイフを突き立てました。彼は何事か叫びながら、私の手からナイフを取ろうとしました。絶対に渡してなるものかと必死に抵抗していると、突然するっとナイフが抜け、私は思わず尻餅をついてしまいました。


 その瞬間、服に何かがかかったような感覚があって、下を見ると、車のライトに照らされたそれが黒々と光って見えたのです。血だと分かったとき時、ようやく私は浩三さんを刺してしまったのだと気が付きました。ライトに照らされた浩三さんは脇腹を押さえていて、こちらを憎らしげににらんで立っていました。


「俺は死ぬのか?」


 今まで聞いたこともないような、低い声で浩三さんが私に問いかけました。私は何も言うことができず、ただ、彼が脇腹を押さえている手からしたたる、彼の血を眺めることしかできませんでした。


 私がしたことは、果たしてネエネエと同じなのでしょうか。頭の中の冷静な部分が、そう自分に問いかけました。


 いいえ。違います。全然違います。


 私がしたことは、今目の前の彼がしたことと同じことです。私がしたことは、人を殺す行為で、そこにはネエネエが話してくれた愛など、ありはしなかったのです。

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