さて、彼女がいない日中は何をしていましたかと言いますと、私はもっぱら家事をして過ごしておりました。掃除洗濯料理。全て徹底的に叩き込まれました。少しでも私が言いつけどおりにできていなければ、ネエネエは容赦なく私を殴りました。決してヒステリックになることはなく、ただ冷えた目で、静かに私を殴るのです。痛みから逃れるため、毎日必死に家事をこなし続けました。私が今こうして一人で生活していくことができるのも、きっと彼女の教えがあったからだと思うのです。


 部屋には娯楽的なものはありませんでしたから、普段の暇つぶしはもっぱらあてがわれたベッドの上でネエネエのことを考えるか、雑多に置かれていた紙に、記憶に残っている何かしらをぐちゃぐちゃとした下手なタッチで描くぐらいでした。のちにそれが病院で私の精神が病んでいた証拠だなどと声高におっしゃっていた方がいましたが、てんでお門違いだと鼻で笑ったことがあります。


 絵を描くということはその時からの趣味のようなものでしたから、今も極まれにですが暇さえあれば紙の上に軽く筆を走らせることがあります。今の私は昔よりも、ずっと上手に絵を描くことができます。もし、ネエネエが今も生きていれば、私の絵を見て褒めてくれたでしょうか。


 貴方はくだらないと鼻で笑うかもしれませんが、毎日そのようなことばかり考えてしまいます。ただ、ネエネエは私の絵を褒めてくれたことなど、ただの一度もなかったのですが。


「月が好き?」


 そう尋ねられたのがいつなのかはもう覚えていません。記憶の中にある満月を精一杯思い出しながら描いてたときに、ネエネエにそう問いかけられたことがあります。


 当時の私にとって、それが好きなのかどうかは分からなかったはずです。なぜなら、当時の私にとって、いつも記憶にあったものの中で、一番描きやすいものが、月であったというだけなのですから。


 では、どうして私の記憶の中に月があったかと言いますと、ネエネエに連れられて外に出たときが、必ず満月の夜であったからです。私と一緒に外出する時のネエネエに表情の変化はないものの、それでも楽しそうだということは雰囲気で伝わってきました。その訳を一度だけ訊ねたことがあります。すると、ネエネエは少しだけ嬉しそうに笑って言いました。


「満月の夜が一番きれいに見えるから」


 私がその言葉の意味を理解するのは、もっとずっと後のことになります。ですから、当時の私にとって満月とは好きなものではなく、ただただ印象が強いものでしかなかったのです。


 ネエネエは家から出ると、一度だけ大きく深呼吸する癖がありました。私達が住んでいたのは閑静な住宅街だったこともあり、風に乗って聞こえるのは犬の遠吠えと、ごくまれに車が走る排気音が聞こえる程度でした。


 ネエネエはようやくこのときが来たとばかりに嬉しそうに満月を見上げると、私に笑いかけます。先ほど申し上げました私の記憶にある美しい笑顔とは、まさにこのときに浮かべるものなのです。


 それから、いつも使っている大きめのボストンバッグを私に抱きかかえさせ、月明かりに照らされながらネエネエの車に乗り込みます。私達が住んでおりました住宅街は高級住宅街だったのでしょう、どこを見ても大きな家が並んでいて、その様子が、じっと見下ろされているような恐怖を私に与えました。その恐怖から少しでも気をそらせようと、当時の私は抱きかかえたボストンバッグを強く握りしめるのでした。


 ネエネエが人を愛する場所に、特定の場所があるわけではありません。車を走らせ、めぼしい場所を見つけたら近くの駐車場に止め、移動します。ある時は路地裏でしたし、またある時は町中にひっそりと存在する公園だったりしました。


 ただ、必ず決まっていたことがあるとするならば、その場所からは月がよく見えたということでしょうか。多くの場合、私が一人で歩き回ることが多かったように思います。極まれにネエネエ自身が歩き回ることもありましたが、そのときのターゲットの大半は男性でした。私一人が出歩く場合はネエネエに指示された通りに歩き、そしてしゃがみこみます。このとき、絶対に私はネエネエの方へ視線を向けてはいけません。どれだけ怖かろうが、私はただ一人、じっと何かを待ち続けます。


「こんな時間にどうしたの?」


 このとき、私は声を出してはなりません。ただじっと、声をかけてくれた人の顔を見つめ、次の一言を静かに待ちます。そんな私の様子を気味悪がって離れていく人が多い中、必ず一日に一人は続けて心配そうにこんな言葉をかけてくれるのです。


「ご両親は?」


 ニュアンスは異なっていても、決まって似たようなことを尋ねられました。その質問に、私は何も語ることなく、そっとネエネエが隠れている場所を指さします。


「一人だと怖いの」


 ネエネエに教えられたこの言葉を言いますと、多くの人がぎゅっと私の手を握り、一緒に向かってくれるのです。その手のぬくもりに少しの憎悪を抱きながら、私はネエネエの下へと連れていくのです。


 仮に二人以上の人が私を囲んだ場合は、すぐに不安そうな表情を浮かべたネエネエが駆けつけてくれ、強く私を抱きしめてくれました。そして、安堵の溜息を吐き出しながら人々が去る中で、ネエネエは憎々しげに一度、舌を打つのでした。


 そのあとは別の場所に移動し、また先ほどと同じことをするのです。そうして連れてきた人間は、ネエネエに愛されます。声を上げることもなく、ただ、静かに。私はそんな彼らを心の底から羨ましいと思っていました。ネエネエに愛してもらえることはこの世界で一番の幸福であると、私は信じています。私は今も、そうであると強く信じています。


 だからこそ、ただの道具として扱われている自分が、時折ひどくみじめな存在であるように感じられました。ただ、ネエネエのそばにいられることは私にとって幸福なことに違いはありませんでした。でも、それ以上に、私はネエネエに愛されたかったのです。


 だからこそ、私は彼女に愛された人々が羨ましく、そして、憎かったのです。

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