話を戻しましょう。その日、私はどうしても家に帰る気になれず、家の近くをひたすらぐるぐると歩き回りました。やがて歩き疲れても、誰もいない家に帰る気にもなれず、私は近くの公園のベンチに座ってぼんやりと空を眺めておりました。


 最後にネエネエと会うことができたのは、一ヶ月近く前のことでした。あと数日でまた彼女に会える。それだけが日々を生きる、たった一つの支えだったのに。


 ネエネエは自らが殺されてしまうことを知っていたのでしょうか。どれだけ思い返してみても、最後に見た彼女の姿はいつも通りでした。私の話をじっと聞いてくれるその姿は、壮麗という言葉が何よりも似合っていましたし、時々発せられる彼女の声は、愚かな私に許しを与えてくれているかのような、澄んだ響きがありました。何も変わっていませんでした。彼女は本当にいつも通りだったのです。ただ、これは後から知ったことですが、ネエネエの刑が執行される日が決まったのは、私が母から聞かされた日よりも数ヶ月も前のことだったそうです。それが分かっていたにもかかわらず、ネエネエはいつも通りに振る舞っていたのです。私はそのことに、安心しきっていたのです。なんと愚かなんでしょう。今思い返しても、私は大馬鹿者で間抜けで愚鈍で醜い当時の私を許せそうにありません。そして、今も当時のことを思い出す度、私は自分自身をこの手で殺してやりたいほど憎く思うのです。


 ネエネエがいなくなってしまったのなら、ここで生きている意味はあるのでしょうか。ただでさえ私がネエネエと会うことが許されているのは、かなた園にいたときと同じく、月に一度だけでした。それがもう、今度はどれだけ会いたいと願っても会えなくなってしまったのです。元々一目見るだけで構わないと願ったはずなのに、会えなくなったと知った今、今すぐネエネエの声が聞きたい、抱きしめてもらいたいと願ってしまった私は、なんと傲慢になったのでしょうか。


 あぁ、くだらない。ネエネエがいない世界に、生きる意味はない。

 ネエネエ。私の女神様。かわいそうな、世界で一番美しい女神様。

 どうしてあなたがいなくならなければならなかったんでしょうか。

 本当にいなくなるべきだったのは、何も持っていない、愚かな私なのに。


 彼女のことを想えば想うほど、胸が苦しくなりました。喉の奥に何かが詰まっているような気がして、吐き気をもよおすのでした。


 こんなに苦しいなら、いなくなってしまいたい。


 そのとき、頭の奥のあたりでバチンと、何かが弾けた大きな音が聞こえたような気がしました。そうです。いなくなってしまえば良いんです。そうすればもう、今のような苦しみを味わうことはないのです。母は昔、彼女の父親、つまり私の祖父に当たる人が亡くなった際に、死後の世界について話してくれたことがあります。ネエネエがいなくなってしまった時間は分かりませんが、今ならきっと間に合います。私もネエネエと一緒の場所に行けるはずです。その考えに至った時、私がどれだけ興奮していたことか。きっと、あなたなら容易に想像がつくはずです。


 私は今生まれたばかりの衝動に導かれるように立ち上がると、急いで駅へ向かいました。時刻はまだ二十三時を回ったぐらいですから、本数は少ないにしても電車はまだ走っています。それに飛び込めば良いのです。たったそれだけで終わるのです。


 電車の光が近づいて来て一歩白線の前に足を踏み出したとき、そのまぶしさに思わず目の奥がちりちりと焼かれたような感覚がしました。周りから光り以外の感覚が消えたような気がして、私の心はもうすぐこの命を失うというのに、何とも穏やかな、不思議な感覚に包まれたのです。


 そんは甘い痛みとともに、とうとう私の全てが光に覆われた時、ライトの奥に誰かの影を見たような気がしました。きっとネエネエだ。ネエネエが私を迎えに来てくれたんだ。それがどれほど嬉しかったことか。私は嬉しくて嬉しくて、泣いてしまいそうになりました。やっと彼女の側に行ける。今度はもう、ネエネエの側を、絶対に離れない。


 喜びに身を任せようとした次の瞬間、急に電車の大きな警笛の音が耳の奥をつんざいたかと思うと、強い風が私の側を通り過ぎて行きました。電車はどうやら通過するものだったらしく、がたんごとんと大きな音を鳴らしながら闇夜へと消えていきました。それから少しして、遠くからセミの鳴き声が聞こえ始めた時、ようやく私はまだ生きていることに気が付いたのです。


 私はそのままふらふらと駅を出ると、駅前のベンチにへたり込むように座りました。死ねなかった。そのことに対する後悔がひたすら頭の中をぐるぐると巡って、私は動くことができませんでした。もう一度電車へ飛び込もうという気力は、その時の私にはもう、ありはしなかったのです。


 あの時私を迎えに来たのは、ネエネエではありませんでした。今でもはっきりと思い出せますし、それを思い出す度に言葉にできないほどの深い憎しみを覚えてしまうそれは、けれど確かにネエネエの姿をしていました。でも、それは私の知るネエネエではありません。だって、あの時見えたネエネエは幸せそうな、温かさのある笑みを浮かべていたのです。


 ただの一度だって、ネエネエがそのような笑みを私に向けてくれたことはありません。少なくとも、私はそんな表情を知らないのです。そのことに気が付いたとき、私があの瞬間見たものはネエネエではなく、ただの、私が作り出したくだらない妄想だと分かりました。そのことに気が付いたとき、激しい怒りとともに、私が今し方しようとしたことが、恐ろしいほど馬鹿らしく感じられたのです。それに、冷静になって考えれば、自ら命を絶ったとして、ネエネエに愛してもらえるわけではありません。ただ、私が私自身のために、命を失うだけなのです。その虚しさが、あなたには分かってもらえるといいのですが。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る