拘置所の職員に連れられて部屋を出ると、佐倉先生が複雑そうな笑みを浮かべてこちらを見ていました。当時の私もそのことに気が付いてはいましたが、しかし、それでも久々にネエネエと会えた喜びから浮き立つ私に、彼女はただ唇に人差し指を添えて見せただけでした。


 その様を見て、私はここに来る前に交わした約束を思い出しました。それは、〈ネエネエの話は車に戻って二人きりになった時までしない〉と言ったものでした。その約束が守れなければもう二度とネエネエとは会うことができないと言われていたのです。


 当時はどうして彼女がそんな約束をしてきたのかは分かりませんでしたが、今ならそうしなければきっと面会の許可が下りなかったのだろうと推測できます。


 私はあくまでも、(この言い方をするのは死ぬことよりも屈辱的ではありますが)犯罪者であるネエネエと、これから先の人生を健全に歩まねばならない私が離別するために面会させてもらっていたにすぎないのです。だからこそ、私とネエネエが会うのは自分の中で折り合いをつけていくためなのであって、決して再会を喜ぶためのものではなかったのです。


 拘置所の出口付近では、浩三さんが私達を待っていました。佐倉先生が二人で話してくると言うので、私は先に車に戻り、フロントガラスから覗く青空を見上げながら、ネエネエのことを思い出していました。彼女が部屋に入ってきた瞬間から、出て行ってしまうまでを何回頭の中で再生しても、不思議なもので記憶が薄れることはありませんでした。それどころか、繰り返せば繰り返すほどより鮮明になっていく気さえするのです。やっぱりネエネエは神様なのかもしれない。それも、この世界でもっとも美しくて気高い、私だけの神様。


 佐倉先生が車に戻ってきたのは、時間にして十分ほどだったように思います。佐倉先生は私に遅くなったことを謝ってくれたのですが、私は自分が想像していたよりも時間が進んでいなかったことに驚きました。


 繰り返しネエネエのことを想っていた私からすれば、もう何十分も、いえ、誇張などではなく何年も経っていたかのような気さえしていたのですから。佐倉先生は車を走らせる前に一度頭を下げました。その視線の先にいたのはにこにこと人懐っこい表情を浮かべた浩三さんが立っていました。


「彼が会わせてくれたのよ」


 そう佐倉先生に言われたとき。そうか、彼のおかげかと頭を下げたことを覚えています。


 月に一度、ネエネエと会うことができることは、かなた園に来てから何となくで過ごしていた私にとって、何物にも代え難い楽しみになりました。それこそ、ネエネエと会うためと言われてしまえば施設では皆が嫌がる掃除や草刈りなども率先して行いましたし、最初は拒否していた学校にだって通うようになりました。


 職員から課せられるノルマがどれほど厳しいものであったとしても、ネエネエに会うためならどんなことだって頑張れました。私は当時の頑張りを今やれと言われても、きっとできないことでしょう。あのときの私はただただ盲目だったのです。ですが、だからこそ頑張れたのです。


 二度目三度目とネエネエとの面会するうちに、最初は会えることがただただ嬉しくて泣いてしまっていましたが、少しずつですが言葉を交わすことができるようになって行きました。しかし、ネエネエが部屋を出る瞬間が悲しくて苦しくて泣いてしまうのは、ネエネエと最後に会ったあの時まで変わらなかったのですが。


 私がネエネエとまともに言葉を交わすことができるようになったぐらいでしょうか。浩三さんから頼まれ事をするようになりました。それは彼に渡された紙に書かれていることを質問するだけなのですが、内容によってはネエネエが不機嫌になるため、そのたびに浩三さんを恨みました。ただ、そんなときにネエネエから聞いた答えほど彼は喜びましたので、それがまた私を苛つかせました。それでも私が質問を続けていたのは、それをネエネエに訊ねれば面会時間を少しだけ伸ばしてもらえたからです。


 私は大人にとってどれほど都合が良かったことでしょうか。当時の私は目の前に餌をちらつかされれば飛びついてしまう、飢えた子犬と何も変わりません。私がそのことに気が付いたのはつい最近のことで、何を言われてもネエネエと会わせてくれたのだから文句を言うつもりはありません。


 私の思い込みかもしれませんが、私がネエネエの元を訪れると彼女はどこか嬉しそうに見えました。言葉は決して多くはありません。私の話を聞きながら、時折「へえ」だとか、「そう」と短い相づちを打ってくれるのが関の山です。


 ですが本当に時々、ネエネエが長く話してくれることがありました。長くと言っても、話の長い大人がだらだら話すようなものでは絶対にありません。過去の記憶を少しだけ、それこそ柔らかい羽にそっと触れるぐらいの短さです。それでも、私はネエネエの話を一言一句忘れないよう注意深く聞いていました。その努力はしっかりと実ったようで、私は今も彼女の話してくれたことの大半をはっきりと思い出せます。一度勝太にそのことを話したとき、たいそう気味悪そうな顔でこちらを見てきたのですが、私からすればネエネエがしてくれた話を忘れることの方が遙かに信じられないことです。

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