⑩
当日は佐倉先生が運転する車に乗って拘置所まで向かいました。かなた園を訪れるときは色がなかったはずのその道が、そのときだけは色鮮やかに見えました。
施設の子ども達は、班ごとに月に一度ある買い物の日を心待ちにしていました。最初はどうしてあの子達はあんなに嬉しそうなんだろうと思っていましたが、そのときようやく皆がこのような心持ちだったのかと知ることができたのです。
たどり着いた拘置所は、今見ると非常に寂れた場所なのですが、私からすればどんなテーマパークにも負けないほどキラキラと輝いて見えました。
透明な仕切りのある部屋に入ったとき、佐倉先生からネエネエに触ることはできないよと教えられました。最初はその事実に肩を落としましたが、それでも念願のネエネエに会える。それだけではなく、話すことだってできる。それは一目彼女の姿を見たいと願ったあの日の私からすれば、願ってもないことです。
「一二六二番入ります!」
パイプ椅子に腰掛け、足をぷらぷらさせていると突然そんな大声が聞こえました。驚いて体を震わせるのと、扉が開くのは同時でした。
少し伸びたけれど、最後に見たときと同じ病的なまでに黒い髪。表情はどこか疲れているように見えましたが、それでも透き通った美しい黒い瞳に私は息を飲みました。
彼女を一目見ただけで、私が漠然と抱えていた乾きのような何かが、瞬く間に自分の中から消えていくようでした。まるで雨が長く降っていなかった砂漠に大雨が降り、やがて一つの命を咲かせるように、私の心の中にふっと浮かんだ感情がありました。
――なんて、なんて美しい人なんだろう。
そのとき、私は初めて外の世界に出たことを少しだけ感謝しました。もし、外の世界を知らなければ、私はネエネエの痛々しいほどに澄んだこの美しさに、ここまで心を打たれなかったはずですから。
それに、ネエネエが澄んだ早朝の空気みたいな純粋さを持っていることにさえも、愚かな私は気がつくことができなかったでしょう。ゆったりとした動作でパイプ椅子に座ってネエネエがこちらへ視線を向けたとき、私には彼女の姿が、何かのテレビ番組で見た絵画の聖母の姿と重なって見えました。
ほら見て! 私のネエネエはこんなにも美しいの! 彼女は昔、私に触れてくださったわ。あの陶器のように真っ白な手で私に触れてくださったの。その羽根のような両の腕で、私を抱きしめてもくれたのよ。ネエネエは私の、私だけの女神様なの!
世界中の人間に向かって私は叫びたくなりました。しかし、その思いはぼろぼろとこぼれ落ちる涙のせいで声に出すことはできませんでした。かろうじて絞り出したものは、声とも呼べないような何かだけです。そんな私を見ても、ネエネエが何か話してくれることはありませんでした。
結局その日は面会の終了時間まで泣き止むことができず、私はネエネエと何も話せませんでした。それでも、後悔はありませんでした。いえ、もちろんネエネエが部屋を出るまでは後悔と、泣くことしかできなかった自分への恨みばかりが胸の内を渦巻いていたのですが。
「元気そうで良かった」
それでも、部屋を後にする彼女の後ろ姿から投げられたその小さな声が、先程まで胸に渦巻いていた後悔を綺麗さっぱりに洗い流してくれたのです。聞くことがないと思っていた彼女の声を聞くことができた。もしかすると、その言葉はネエネエの声が聞きたいと願う、私自身が聞かせた幻聴だったのかもしれません。しかし、あのときの私にとってはどうでも良いことでした。
キリストだか何だかの神様の声を聞いた誰かはきっと、当時の私と同じ気持ちだったに違いありません。神からのたった一言で、人は救われるのです。私はあの日、そんなどうでも良い神の言葉をありがたがっている人間の気持ちが、少しだけ分かった気がしたのです。
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