18 独白

「やぁ、お邪魔するよ」


 暗がりの先に足を踏み入れた少年が、軽い挨拶を口にする。彼が目を向ける先には、美しくも棘をうかがわせるバラのような少女が一人。ペルソナ様は、背後に立っていた女子生徒に一声かける。

 その女子生徒は、キッと少年のことを睨んで――そんな雰囲気を放っていたように思えるだけであり、顔は布に隠されて見えない――暗幕で隔てられた空間から出て行った。


 布がこすれる音が消え、そこにはパイプオルガンの荘厳な響きが満ちる。

 にっこりと微笑む少年は、けれどその顔の大部分を隠すオペラ座の怪人仮面のせいでひどく不気味だった。あるいは、その笑みに彼の心の内側にある悪感情がにじみ出たが故のものだったかもしれない。


 無反応を貫くペルソナ様の黒い瞳を見て、少年は小さく肩をすくめる。


「君の言葉通り、うまくいっているよ。実に順調で、恐ろしささえ感じるね」


 少年は笑う。ペルソナ様は何も言わない。引き結ばれた口は、けれど小さく震えているようだった。


「仮面……ペルソナね。実にうまい表現だよ。君のその姿は、ただの変装、あるいは被り物の猫というわけだ。そういえばペルソナという言葉には心理学用語として、社会へ順応するために必要な社会的・表面的人格という意味があったよね」


 少年はテーブルに肘をつき、体を乗り出す。ペルソナ様の顔をしたから覗き込むように見て、少年は笑った。

 その笑みは、獲物がかかったことに歓喜する悪魔のごとき笑みだった。

 だからどうした、とペルソナ様は眼だけで語る。つまらないな、と肩をすくめた少年は、さて、と話題を変える。


「師匠。君はすごいよ。本当にすごいと思う」


 少年にとって、目の前に座る人物は、ペルソナ様という仮面を身に着けた日下部優希という人間は、すごい存在だった。手放しでほめたたえるほど、少年にとっては神に等しい存在。


「改めて礼を言わせてもらうよ。君のおかげで、すべてがうまくいっているからね。彼は、幼馴染の少女から離れ、僕のことを見るようになった。僕が女性らしさを見せれば、彼は瞬く間にそれに惹かれていったよ。気に入らないこの顔つきも、背格好も、まさかこれほどの武器になるなんて思わなかったね。今なら、僕は僕自身のことを愛せそうだよ」


「…………己を愛せない者は、他人を愛せませんよ」


 初めて、ペルソナ様改め日下部が口を開く。苦々しい顔で、彼は吐き捨てるようにそう告げた。


「ふぅん。君がそれを言うんだ。僕という物質だけを愛して逃げた君が、そんなことをねぇ?」


 暗い闇を宿した目が、日下部をとらえる。日下部は、まっすぐ少年のことを見つめる。その視線から逃げることはしなかった。


「ねぇ、僕に男を愛することを気づかせてくれた君は、果たして本当に僕のことを愛していたのかな?苦しむ僕を見ながら、孤独感を埋めようとしていただけじゃないのかな?あるいは、君は僕に気づきを与え、そんな僕がどう行動するかを知りたかっただけなんじゃないかな?」


 少年はまるで歌うように告げる。日下部は、ただ黙って座っていた。そのテーブルの下、少年から見えないところで、強く両手を握りしめながら。


「君は愛なんて知らない。君は孤独だ。君はマイノリティーという言葉に逃げた。君は、君自身を受け入れることができていないし、愛することなんてできていない。だから君の言葉を借りるなら、君は誰も愛せない。誰も、愛せていない」


「…………君はどうです、久世君?」


 嫌悪感をあらわにした日下部が、少年――久世に尋ねる。

 久世悠里は、その口の端を大きく吊り上げて、笑った。


「君は、坂東玲音を本当に愛していますか?」


「さてね?師匠には分からないだろうね。斎藤初音の告白への返事を未だに保留し続けて、“真っ当な人間”になれる可能性を手にし続けている君には、ね」


 立ち上がった悠里が、ひらひらと手を振って暗幕の向こうに消えていく。

 その背に、その体に、日下部はもう手を伸ばさない。かつて、名字と名前が同じ「く」と「ゆ」で始まるなんて些細な関心から始まった時とは違って、日下部は彼に歩み寄らない。


 自分が傷つけ壊した彼に、日下部は触れられない。


 けれど、だからこそ。

 日下部優希という人間は、自分が壊してしまった友人の毒牙にかかろうとする者を救うと、そう改めて覚悟した。


 そして、暗幕の先から、新たな少女が入ってくる。


 その人物の登場を、日下部はひどく残酷な運命だと思った。


 自分のことを日下部と呼ぼうとした時点で、その相手の正体は限られた。そして日下部は、目の前の人物こそ、自分たちが翻弄してしまっている少女の一人、天野花蓮だと見抜いた。

 だから彼は、彼女に告げる。玲音のことを、そして悠里を止めるための方法を。





 その行動がどのような結果にたどり着くのか、まだ誰も知らない。

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