2 協力

「どうしてあんなこと……」


 教室の机に頬を引っ付けて、私は小さな声でぼやく。ひんやりとした机が冷たくて、私の頬の熱を奪っていく。ついでに、目元の腫れも取っていってくれないだろうか。


「いつまでうじうじしてるの?ほら、早くご飯食べようよ」


「うじうじなんて、してない……」


 私の机の向こうに椅子を引いてやってきた友人の初音が、ぺしぺしと私の頭を叩いてきた。

 わずかに視線を上げれば、まるで人形のようにかわいらしい卵型の顔が視界に映る。長いまつ毛、透き通るような白い肌、わずかにカールした長いダークブラウンの髪。ほっそりとした指が、私の髪をひと撫でして離れていく。ぱちぱちと瞬く瞳は大きくて、そこには十人中九人は美人だというような、かわいらしい少女の姿があった。

 ちなみに、私はセミロングの黒髪に日本人の中でもやけに真っ黒な瞳、普通に日に焼けた肌をした、平凡な容姿だと思う。少なくとも、目の前の初音の足元にも及ばない。


「ほら、花蓮。早く食べようよ」


 再び、私の頭が軽くはたかれる。私はいい加減にうっとうしくなって、ゆっくりと体を起こした。


「あーあぁ、頬、赤くなってるよ?」


 するりと、私の頬に初音の手が添えられる。小さくて、ひんやりした手。すべすべの肌。こういう子に、男子は惚れるんだろう。玲音は……違ったみたいだけれど。

 顔を起こせば、まるでこれまでは存在しなかったように、私の耳に教室の賑わいが聞こえてくる。たくさんの会話の中で、初音の声はやけにはっきりと私の耳に届く。鈴の音を鳴らしたような、美しい音。

 ああ、なんだかすごく自分が嫌になる。この友人と自分を比較したって、劣等感が刺激されるだけだというのに。


「……いいの。別に、誰も気にしないだろうし」


「わたしが気にしてるでしょ?でも、いいの?玲音くんは――」


 ちらり、と初音の視線が私の右斜め後ろ、教室の中央後方に位置する玲音の席へと向かう。そこでは、仲のいい陸上部の友人と弁当を並べる玲音の姿があった。そう、私と玲音は同じクラスだ。ちなみに、悠里も。

 さっと見回したところ、教室に悠里の姿はなかった。彼のことを見つけられなかった代わりに、私と玲音の目があった。

 じっと、その焦げ茶の瞳が私を見つめる。

 私はどうしたらいいかわからなくなって、前を向く。

 そこには、ぱちりと目を瞬かせ、不思議そうに小首をかしげる初音の姿があった。


「どうしたの?いつもだったら玲音くんと目があったら耳まで真っ赤にしてるのに。それに、その目はどうしたの?ひょっとして、玲音くんと喧嘩した?」


 ああ、初音のその小さな口から、かわいらしい声音で彼の名前が出るのが嫌だ。たまらなく嫌だ。

 そして、気づく。

 私はまだ、玲音のことが好きなのだと。

 悠里が好きだと言われて、協力を求められて、それでも心の中では、悠里のことを理由に玲音と距離を詰められないかなんて、そんなことばかり考えていた。

 そんな自分が嫌になる。玲音は、私を信頼して頼ってきてくれたというのに。


「別に、喧嘩なんかしてないよ。ただ、少し怖い夢を見ただけ」


「ふぅん。怖い夢……ひょっとして、玲音くんに告白を断られる夢?」


 限りなく核心を突いた言葉に、私は一瞬体を硬直させた、と思う。ただ、初音はそのことに気づかなかったのか、あるいは気づいていて無視してくれたのか、いそいそと弁当包みを開き始めた。桜色の、可愛い弁当箱。


 色とりどりのおかずがさらされる。赤、緑、黄色、オレンジ――

 そんな見た目的にも栄養バランス面でも健康的な初音の弁当を見て、私はほんの少しだけ自分の弁当を開けるのをためらって、けれど小さなため息とともに体のこわばりを抜く。


「相変わらず、花蓮のお弁当は茶色いねぇ。あ、今日は黄色があるね」


 ざっと私の弁当を見た初音が、楽しそうにいう。初音の言葉に悪気がないことはよくわかっている。時々人を不快にさせるような発言が出るものの、およそすべてが彼女の天然がなせる業だ。


「自分で作っているんだから、偉いよね」


「別に。ただ親が忙しいだけ」


 両親共働きで朝に弁当を作る余裕なんてない私の家で、弁当作りは私の仕事。自分の分と、家族の分。中学に入ってから、その習慣は続いている。

 さすがに毎日三人分をしっかり用意するのは大変なので、しょっちゅう晩御飯の残りのおかずが一つ二つ入るけれど。


「卵焼きもーらい。あ、わたしのあげるよ」


「当り前よ」


 醤油と少量の砂糖を入れただけの私の卵焼きとは違って、初音のそれはフワフワしていて、とても甘かった。このあたりも、女子力の差がなせる業だろうか。まあ、初音のほうはお母さんが作っているのだろうけれど。


「相変わらず、甘いよね」


「んー、卵焼きってさ、家の味っていうのがすごくはっきり出るよね。わたしの家は、甘い味付け」


「そう?そんなに誰かと交換した覚えもないからわからないけど……私の家は、醤油と、あとは時々だし巻きかな?」


「……だし巻き卵って、卵焼きの一種なのかな?それとも、だし巻き卵はだし巻き卵?」


「さあ、別にどっちでもいいでしょ……ああ」


 確か玲音の家は、マヨネーズと少しの牛乳だった気がする。フワフワしていて、マヨネーズのおかげか濃厚な卵焼き。悠里のほうは……どうだっただろうか。


「何?何を思いついたの?玲音くんのことでしょ?ねぇ?」


「別に……ただ、マヨネーズと牛乳だったかな、と思って」


「なるほどねぇ……って、あれ?」


 しつこく聞いてくる初音が、ずいと顔を私のほうへ近づけてくる。

 私は顔を引きつらせ、体全体にのけぞる。

 遠ざかった初音の顔で、その真ん丸な目が驚いたように見開かれていて。


 とん、とのけぞった私の後頭部が、柔らかいものにぶつかった。


「あ、ごめんなさい――」


 誰か、後ろを通った人にぶつかったのかと、そう思って振り返り。

 ひゅ、と喉が鳴った。

 後ろに、少し不機嫌そうに眉間にしわを寄せた玲音が立っていた。


「どうしたの、玲音くん。花蓮に用事?」


「ああ。少しいいか?」


「どうぞどうぞ。連れて行ってくれていいよ。わたしは一人寂しくお昼ご飯を楽しむから」


 ちょっとどうして初音が許可を出しているのよ――

 そう叫びたくて、けれど私は、昨日のいろいろが頭にあふれて、何も言葉が出なかった。

 こちらを見つめる真剣な瞳、照れた顔、悠里が好きだという言葉、受け入れられて嬉しそうに緩められた頬、安堵の顔、初恋の終わり――

 視界が一瞬、茜色に染まる。窓から吹き抜けた風が巻き上げたカーテンが私の視界を横切って、一瞬だけ玲音の顔が隠れた。

 それから、私に何か話すことはなく、玲音は先に教室を出て行って。

 私も、によによと笑う初音に見送られて、窓際の自席から立ち上がった。






「どうしたの?昨日のこと、だよね?」


 無言で背を向けたまま立ち止まった玲音に、私は声をかける。

 玲音はこちらを見ることなく、窓の外へと視線を向ける。狭いグラウンドを、野球部らしいユニフォームの集団が走っている。今日の昼練は、野球部がグラウンドを使える日らしい。そういえば、陸上部の玲音が、今日は昼に教室にいた。

 初夏の日差しに照らされた玲音の横顔は、ひどく大人びて見えた。そう、何かをあきらめて前に進んだような、そんな寂しげな顔。


「昨日のことは……忘れてくれ」


 やっぱり玲音は私を見ることなく、そうつぶやいた。

 ファイオ、ファイオ。グラウンドから響く掛け声がひどく遠い。教室から漏れ聞こえてくる話し声の中に溶けて行ってしまいそうな、そんな小さな、自信なさげな声。

 それが、玲音の口から出たなんて、信じられなくて。それから、その言葉の意味するところが、理解できなかった。


「どういう、こと?」


 絞り出すように、私はそれだけ聞き返した。何を、忘れてと言っているのだろうか。ううん、わかってる。昨日の告白のことだ。どうして?私はたぶん、絶対に忘れられない。私に刻まれてしまった玲音の姿は、言葉は、たぶん一生私の中で色あせることなく残り続ける。

 初恋の終わりを告げる彼の言葉は、私の奥深くに刻まれてしまった。

 けれど、この期に及んで。

 私は、彼が己の恋をあきらめるんじゃないかって、自分にチャンスがやってきたんじゃないかなんて、そんなひどいことを考えていた。

 だって、玲音が告白を忘れてということは、悠里のことをあきらめるということなのだろう。だったら、私は――


「協力なんて、しなくていい」


「どうして?」


 ひどく冷たくて、それでいて怒気の感じられる声が、私の口から聞こえた。それが自分の声だと、私は一瞬わからなかった。玲音も、私が発した声だとわからなかったのか、驚いたように目を見開いて、私のほうを向いた。

 ここで話し始めてから、ようやく玲音が私のほうを向いてくれた。昨日の真剣なまなざしを思い出してしまって、心臓が跳ねる。けれど今は、そんなことを考えている場合じゃない。


 私は、私の心に従って、一歩を踏みだして。玲音からわずか一歩のところまで近づいた。

 背の高い玲音を見上げながら、私は彼をにらむ。


「どうして、協力しなくていいなんて言うの?好きなんでしょ?だったら――」


「――だったら、告白しろっていうのか?好きだから、思いを告げるべきなんて、そんなことを言うのか?本気で、言っているのか?」


 わかっている。玲音が好きだといった相手は、悠里は――男だ。だけど、それがどうした。


「本気で言ってるよ。だって、好きなんでしょう。ほかの人はともかく、私は、悠里のことはたくさん知ってる。悠里は、すごい人で。勉強も運動もできて、生徒会役員をやっていて、人当たりもよくて、優しくて、努力家で――」


「だからだよ」


 どういう、ことだろうか。

 私は、悠里がすごい人だって知っている。悠里なら、玲音の思いをちゃんと受け止めてくれるって、そう思う。だから、私は一晩悩んで、苦しんで、それでもちゃんと、玲音に協力しようと、玲音の恋を実らせるために協力しようと、そう覚悟を決めたのに――


「俺だって、あいつがどんだけすごいやつか、知ってるんだよ。でも、だから、俺があいつに告白することで。あいつの傷になりたくないんだよ」


 だって、男に告白されるなんて、キモイだろ?

 自虐的な玲音の言葉に、私は脳が沸騰しそうだった。

 そんなことない、と叫びたくて。けれどドクドクと嫌になるほど鼓動を刻む心臓とは違って、手足はひどく冷え切っていた。

 冷静な思考の一部が、考える。玲音が悠里に告白したという情報が広まったら、どうなるか。玲音は、自分が変な目で見られるのは覚悟の上なのだ。けれど、悠里が同性が好きだとからかい交じりのうわさが広まったら。その時、玲音はきっと、自分が告白したことが許せなくなる。


「でも、告白しなかったら、どうにもならないじゃない。何も、変われないでしょ」


「ああ、変われないよ。けど、変わらずにも済むんだよ。だって、告白しなければ、俺はあいつのただの幼馴染でいられるんだ。あいつと、友人という関係でい続けられるんだ。それで、十分だと、気づいちまったんだよ」


 くしゃりと顔をゆがめて、玲音はそうつぶやく。気が付けば周囲の音は消えていて、私はただ玲音一人だけを見ていた。寂しそうな玲音。震えるこぶしを握り締める玲音。筋肉のついた、男の人になった玲音。遠い、玲音――


「それに、」


 玲音が、私を見ろして、口を開く。


「お前を泣かせたのは、俺のせいだろ」


 そうだ、玲音のせいだ。玲音を好きな私は、自分の恋心に蓋をして、けれど思いはあふれてしまって――


「牽制なんてまねして、悪かったな。協力は、やっぱりなしだ」


 だから、がんばれよ――

 そう言って、やっぱり今日も、玲音は私のことを置いて歩き去っていった。

 がんばれ、と玲音の声が脳裏で木霊する。何を、がんばれというのだろうか。

 辛そうな顔、俺のせいで泣かせたという発言、牽制。どのような行動による、何に対する牽制か――

 私は午後の授業中、ずっとそればかり考えていた。

 それは、放課後になっても変わらなくて。

 寄り道しようと誘ってくれた初音に生返事で断りを入れて、私はただそれだけを考えながら帰路についた。


 牽制、告白による、牽制――ライバル?


「ま、さか……」


 一度ひらめけば、それ以外の可能性なんて全部間違っているようにしか思えなくて。

 私は家の玄関扉の前で立ち止まり、そして来た道を引き返した。


 荒く息を切らして、たどり着いた玲音の家。玄関チャイムを押そうとして、私ははたと動きを止める。


「こんな時間に、玲音が家にいるわけないじゃん……」


 今日は確か、陸上部があったはず。あまり強くなくて、狭いグラウンドを交代で使っているために活動日数も多くないものの、今日は部活の日。玲音はしばらく、帰ってこない。


 私は迷い、そして、門のわきに腰を下ろした。

 ここで帰るという判断は、できそうになかった。

 私はただ、玲音の帰りを、降り注ぐ初夏の西日にさらされながら待ち続けた。

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