3 誤解

「……何やってるの、花蓮?」


 もうずいぶんと長いこと膝を抱えて座り込んでいたらしい。名前を呼ばれて顔を上げれば、すでに周囲は薄暗くなっていた。もう、夜が近い。

 暗がりの中、玲音はまだ帰ってきていなくて。そして、相変わらず玲音の家の前に座り込んでいた私に声をかけてきたのは、もう久しく会話をした覚えのない幼馴染の悠里だった。


「久しぶり、悠里。玲音を待っているんだけど、知らない?」


「玲音?今日は陸上部だったし、たぶんそろそろ帰ってくるんじゃないかな。それより、家にも帰らずにずっとここで待ってたの?危ないよ?」


 玲音よりは背は低く、体つきも彼ほどがっしりしていない悠里は、優男という第一印象。シルバーフレームの眼鏡をした凛々しい顔つきの彼は、少し真剣な声音で告げて、私の返事を聞くことなく隣に座った。


「何かあったの?花蓮が玲音の家を訪ねるなんて久しぶりだよね?あ、もしかして付き合ってるとか?」


「……ううん。少し、玲音と話したいことがあって」


 「付き合ってる」、その言葉を聞いて、頭に熱が上った。悠里から見て、私と玲音はお似合いということだろうか。あるいは、家の前で待っている異性、という状況から恋人同士だと連想しただけだろうか。

 わからない。玲音以上に長いことろくに話していなくて、クラスも違うことが多かった悠里は、私の中でひどく遠い存在になっていた。

 私は悠里と、どんな風に何を話していたのだろうか?考えても、もう思い出せなかった。代わりに私の中に広がるのは、玲音を目で追っていた記憶ばかり。

 キリ、と心臓が傷んだ。悠里に気づかれないようにわずかに下を向いて、感情を抑える。


「玲音と、話したいこと。それは僕には秘密なのかな?」


「……え?」


 顔を上げる。悠里は、まっすぐ私のほうを向いていた。怜悧な瞳が、私の心の中を覗き込むように鋭い光を放っていた。


「僕には、話せないの?」


 もう一度、悠里は私に尋ねる。

 話せないことだ。だって、玲音が悠里を好きだという話だ。

 私はじっと、悠里のことを観察する。スッと整った顎の輪郭、高い鼻、二重にたれ目は優しそうな印象で、少々目元のきつい玲音とは正反対。その目がコンプレックスで、悠里は中学生に上がる頃に眼鏡を身に着けるようになった。意外と長いまつげが、はかなげに揺れる。淡い赤色の唇が、小さく吐息を漏らす。


「そんなに見つめられると恥ずかしいんだけどね?」


「っ、ごめん」


 私はあわててのけぞって、悠里から距離をとる。顔が熱かった。けれど、そこに甘酸っぱい感情はない。心落ち着けば、ただきれいな顔だな、という思いしか浮かばなかった。

 ――玲音は、悠里のどこが好きになったのだろう?

 悠里のいいところはたくさん浮かぶけれど、私は今の悠里を知らない。そういえば、悠里と玲音の最近の関係も、私は知らなかった。


「ねぇ、悠里。最近玲音とは話すの?」


「僕が、玲音と?うん、それなりに話すね。クラスも違うし、接点もあまりないから時々顔を合わせた時に短い会話をするくらいかな」


 短い会話。きっと、悠里はかつての親友に、何気なく言葉を投げかけているのだ。そしてそれは、玲音の中に積み重なり、その思いを育てる栄養になっている。


「そっかぁ……」


 私は、ただそれだけしか言えなかった。玲音の思いを知っている身としては、これ以上二人の関係に踏み込む勇気がなくて、そうしようとは思えなかった。


「花蓮はどう?最近玲音とは話すの?」


「私は……同じクラスだから。挨拶とか、業務連絡とか、そんな感じかな?」


 同じクラスだと言っておきながら、私は玲音とほとんど話していない。少し踏み出せば、話せたのに。少しだけ歩み寄れば、玲音と昔のような関係になれたかもしれないのに。

 私と玲音の間に存在する、見えないけれど深い隔たりは、ひどく厳しかった。


「そっか。そうなんだ」


 私から視線を外した悠里が、空を見上げる。私もつられて、彼の視線を追う。

 そこには朱色から藍色へと変化しつつある空のあいまいな境界があって。早くも光を届ける星が一つ、瞬いていた。


「ねぇ、花蓮は――」


 その後に続く言葉を、私は聞けなかった。それよりも先に、私は空からおろした視線の先に、玲音を見つけてしまったから。


「玲音……」


 私が呆然と、あるいは小さくこぼすように玲音の名前を呼んで。

 それによって玲音の接近に気づいた悠里が、玲音に向かって手を挙げる。


 私たちに気づいた玲音が、その顔をしかめて、そして。


「……何がしたいんだよ、お前」


 そんな冷酷な響きのこもった声が、私に降り注いだ。

 何がしたいって、そんなの、決まってる。私は玲音に、悠里にちゃんと告白をしてほしい。私が好きな玲音は、私と悠里をぶっきらぼうに引っ張っていってくれる兄みたいな人で。不器用ながらに私の手を引く玲音の後ろ姿が、たまらなく好きだった。玲音に名前を呼んでほしくて、玲音にこちらを向いてほしくて、玲音に笑っていてほしくて、玲音と一緒にいたくて。

 けれど私は、そんな関係から逃げた。私が、三人の関係を壊した。

 そして今、ここには私と玲音と悠里、かつての仲良し三人組が再びそろっていて。


「何って……私は、玲音に……」


 深く、深く、玲音の眉間にしわが刻まれる。その目が吊り上がり、怒りで口の端がわなないていた。笑っていない目が、静かに私を見下ろしていた。

 その表情に気づいて、その目に射抜かれて、私は言葉を失った。

 玲音はどうして怒っているのだろうか。どうして――


「見せつけに来たのか。悪趣味だな」


「っ、違っ――」


「うるせぇ!」


 私の否定の言葉は、玲音の怒号にかき消された。めったに声を荒らげない玲音の、心からの叫び声。無表情で怒る玲音の目には、涙がにじんでいるように見えた。私はその怒気に充てられて、玲音の前に立とうとした体勢のまま動けなくなった。


 玲音は私と悠里を突き飛ばすようにして、その間を足早に潜り抜ける。そして、最後に一度悠里のほうを振り向いて、


「じゃあな」


 パタンと、その扉が占められる。

 最後に玲音が見せたのは、失恋の顔。辛くて、苦しくて、泣き叫びそうな顔。

 それはたぶん、昨日私はしたはずの顔で。


「どうしたの、花蓮。どうして泣いているの?玲音が怖かったの?」


 昨日の思いがぶり返してきて、私はあふれてきた涙を止められなかった。ぽろぽろとこぼれる涙をハンカチで拭こうとした悠里を突き飛ばして、私は走り出す。

 背後を見る気は、起きなかった。

 悠里に謝ることも、できなかった。

 ただ私は、玲音の家に来た時のように、無我夢中で走った。


 走って、走って、走って。


 けれど、胸の奥の疼きは、痛みは、じくじくと痛みをひどくする一方だった。

 玲音を傷つけてしまった。悠里と私が付き合っていると誤解させてしまった。

 玲音に、好きな人と付き合っていることを見せびらかす嫌な奴だと、思われてしまった。玲音に、嫌われてしまった。

 優しい悠里を、突き放してしまった。きっと悠里も、こんな私のことが嫌になっただろう。


 私は、もう一人だ。

 玲音に嫌われて、悠里に嫌われて、私はもう、私たちはもう、かつてのようには戻れない。

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