4 日常

「どうして昨日よりひどくなってるの?」


 翌朝、昨日以上に目元を赤く腫らした私を見て、初音はすぐに教室を飛び出した。そして、その手に濡らしたハンカチを握って戻ってきた。


「ほら、冷やして冷やして」


 ぺし、と私の顔に押し付けられた濡れたハンカチが、いまだに熱の引いていなかった私の目元に冷気をもたらす。

 少しだけ、心が落ち着いた気がした。


「ありがと、初音」


「んーん、友達だからね。それより花蓮、何があったか聞いてもいい?」


 静かに、私の心を揺らすことなく声をかけてくる初音の心遣いが、私の心を温める。昨日あれだけこぼれた涙が、またあふれ出しそうだった。ううん、たぶん、昨日のせいで涙腺が緩んでいるだけだ。

 しっかりしないと。辛いの私じゃなくて玲音。

 玲音の苦しみを思えば、失恋と、幼馴染の裏切りを思えば、私のこの辛さなんて些細なものなんだ。


「大丈夫だよ。ありがとね、初音」


 もう一度、初音の名前を呼んで。私は彼女にハンカチを返す。


「でも――」


「大丈夫だから、ね?」


 私はきちんと笑えていただろうか。私は、初音に心配をかけないよう、うまくとりつくろえていただろうか。

 たぶん、できていない。

 大丈夫なんて繰り返す奴が、大丈夫なわけないだろ――玲音の言葉が、かつて彼が私に投げかけた言葉が、胸の中で響いた。

 確かにそうだね、玲音。大丈夫って言う度に、心が悲鳴を上げているみたいだよ。大丈夫なんかじゃないって。私を見てって、この思いに気づいてって。

 でも、大丈夫。私は大丈夫。だから、玲音。玲音はこんな私なんか気にしないで、前を向いてよ――


 その思いは、けれど玲音に届くことはない。

 その日玲音は、学校を休んだ。






 私たち仲良し三人組がばらばらになったのは、中学一年生のころ。成長期が訪れた玲音が、男子から男の人へと変わっていき、そして私は、変化した彼が怖かった。


 あの日は、しとしとと雨が降る梅雨の始まりだった。

 キュッキュッ、と廊下を踏みしめてゴミ出しに向かっていた私は、結露した水滴でぬれた床で足を滑らせた。

 転ぶ、とそう思った。

 けれど、私は転ぶことはなくて。

 少しだけ背中に衝撃を感じた私は、ゆっくりと目を開けた。


 そこには黒い学生服の布が見えて。

 顔を上げれば、壁に手をついて私を抱きとめた玲音の顔があった。

 少年と青年の間の、不思議な空気をまとった玲音が、私をじっと見ろしていた。大きな体。私を支える、骨ばってきた手。

 少しだけ香る、汗のにおい。


 変則的な壁ドンに、私の乙女心が燃え上がる――ことはなかった。

 私がときめきの代わりに感じたのは、恐怖。それは玲音が私の知る玲音ではなくなっていってしまう恐怖であり、玲音が私とは明確に違う存在だと気づいたことによる恐怖。

 それまで私は、玲音のことが好きだという思いはあって、けれど私にとって玲音は遊び仲間の延長でしかなかった。

 それが、学生服によって明確に男女の境を設けられ、そして少しずつ大人になっていく玲音を感じて、私は少しおかしくなった。


 私は小さくお礼を言って、玲音の顔を見ることもなく、逃げるように走り出した。


 ただ、それだけ。

 それから、私は玲音と悠里と会うのを避けるようになった。遊ぶ回数も減ったし、そのころには私も仲のいい同性の友人ができていて、彼女たちと遊びに行くことが増えた。

 ただそれだけをきっかけに、私たち幼馴染の関係は、ゆっくりと崩壊した。


 あの日、私が逃げるように走り去ったそこで、玲音はどんな顔をしていたのだろうか?






 放課になって、私は居ても立っても居られず、気が付けば玲音の家の前に立っていた。インターホンへと指を伸ばす。けれどその手は、あと一歩のところで止まってしまう。

 怖かった。玲音にまた、あんな目で見られるのが。玲音に嫌われた事実を突きつけられるのが、怖かった。

 けれど、大事なのは玲音が誤解だと知ること。私と悠里が付き合っていないと、知ること。昨日、私たちが偶然玲音の家の前で遭遇しただけなのだと、それを知ってほしかった。


 指を伸ばして、動きを止めて、腕を下す。

 そんな動きを何回か繰り返して。


「花蓮ちゃん?」


 ふと、声が聞こえた。聞き覚えのある声。私は肩を跳ねさせて、頭の中で対象の人物を探しながらゆっくりと後ろを振り向いた。


「……春ちゃん?」


 坂東春香。玲音の妹であり、現在中学三年生の彼女が、制服姿で不思議そうに私のことを見ていた。


「久しぶり。最近あんまり兄さんと一緒にいないみたいだけど、喧嘩でもした?」


 喧嘩――つい昨日、初音にもそう聞かれたばかりだった。あの時は、喧嘩はしていなくて、私は初音の言葉を否定した。けれど、今は。


「うん、たぶん、喧嘩」


 私が素直にそう告げると、春ちゃんはふーん、と気のない返事をして私の前をすたすたと通り過ぎて行った。その後ろ姿は、玲音にそっくりだった。

 ポケットをあさり、家の鍵を取り出す。ガチャリと、鍵が回る。


「入らないの?」


 不思議そうに背後を向いて尋ねてきた春ちゃんの言葉に突き動かされるように、私は慌ててその背中へ走った。


 久しぶりの玲音の家は、大きく変わったようで、けれど外見上は何も変わらなかった。少し物が増えたり減ったりしていたが、それよりも私の変化のほうが大きかった。私も背が伸びて、見える景色が変わった。心持が、変わった。

 今の私の眼には、坂東家は好きな人の家ではなく、私の入場をじっと待っている伏魔殿のようだった。


 お邪魔しますと小さく告げながら、私は玲音の家に上がる。

 春ちゃんに案内されたのは、かつて玲音と一緒に遊んでいたリビングだった。


「お茶いる?」


「ううん、大丈夫」


 何が大丈夫なのだろうか、そんなことを思いながら、私は扉の先へと消えていった春ちゃんの背中を見送り、それから周囲を見回した。

 変わらない部屋、変わらない思い出。テレビの位置も、ソファやローテーブルも、棚も、そこに置かれた写真も、何も変わらなかった。

 まるで時が止まったようなその場所で、けれど時の流れに翻弄された私は一人、ぽつんと座っていた。


 やがて、春ちゃんは制服から着替えて数冊のノートや問題集、筆箱を片手に抱えて戻ってきた。


「兄さんいなかったから、帰ってくるまで勉強教えて」


「いいけど……いなかった?」


「そう。たぶん、コンビニにでも行ってる」


 パサリとテーブルに勉強道具を置いた春ちゃんは、そのまま静かに勉強を始める。ペンが進む音、消しゴムで消す音、小さな唸り声、問題集とノートを行ったり来たりする顔は時折私の方を向いて、いくつかの質問ののちに再び紙面へと戻る。

 そういえば今年受験生なのか、と私はひたすらに計算を進める春ちゃんを見ながら気づいた。たぶん昨日は、家に帰らずに真っすぐ塾に行っていたのだろう。だから、私は誰にも会うことなく、家の前で悠里と顔を合わせることになった。

 もし昨日、春ちゃんが塾のない日で、私のことをこうして家の中に招き入れてくれていたら、何か変わっただろうか。


 そんな今更な「もしも」を考えながら、静かな時間は過ぎていった。

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