16 初日

 私はどうやらだいぶ図太くなったらしい。玲音の視線だけはいまだに私の心をとらえてしまうけれど、心無い女子たちの言葉に傷つくことは少なくなった。それでも時々、彼女たちの言葉や行為は私の心の傷に無遠慮に触れるのだけれど。

 それになにより、玲音の変化をみんなが受け入れつつあった。特に女子の熱が弱まったおかげで、明らかに私に対するあたりが弱くなった。文化祭という目を向けるべき行事があるからかもしれないが、私としてはとてもありがたかった。

 少なくとも今日から始まる文化祭三日間については平穏無事に過ごせるだろうなと、そんな根拠のない確信を持ちながら、私は活気に満ちた学校の廊下を進んだ。大きな荷物を運ぶ者、楽しみだねと話すグループ、書類を手にせわしなく廊下を早歩きで行き来する役員たち。

 みんながみんな、文化祭のために集中していた。そしてそれは、私のクラスも同様だった。


「ちょっと、看板がずれてるわよ⁉」


「っ、今行く!西城、テープ取ってくれ」


「養生テープなら昨日切らしたぞ?」


「うっそだろ……ああ、もう。ちょっと待ってろ」


 教室前ではわずかに傾いた看板の歪みが気になる女子が男子に叫び、男子の一人がばたばたとせわしなく廊下に飛び出して駆けて行った。多分生徒会室にテープを貰いに行くのだろう。――そういえば最近悠里と顔を合わせていない。文化祭準備が忙しすぎて倒れていることは――悠里に限ってはないだろう。彼はなんでもそつなくこなすから、大量の仕事に追われててんてこ舞いな姿を見せているイメージができなかった。

 走り去っていくクラスメイトの背中を見送って、私も店番のための準備に入る。と言っても、私のクラスの展示では特に人はいらない。ただ待ちの列の管理や賞のための加点要素の一つである集客数をしっかり数えなければならない。

 ちなみに、集客数を数えるのは別のクラスの生徒が行う。作為の入らないように、という対処らしいが、カウントを行う人が抱き込まれた場合はどうなるのだろうか。まあ文化祭でそんなことをする生徒はいないだろうという生徒の良心を思っての方針なのだろう。

 生徒会役員でもない私としては、生徒がずるをしようがどうでもいい。ただ、与えられた仕事として忠実に店番をこなすだけだ。


 私の当番は、文化祭初日である今日の、それも最初のコマ。初音と一緒にクラスに残って列の誘導と入場者数の調整、それから必要に応じて説明を担当する。これさえ終われば後は二日目の客引きだけなので私の仕事の大部分が今日の朝一で終わることになる。ちなみにこれは文化祭開始すぐに体育館で行われる運動部男子による混成ライブに行けなくするという地味な嫌がらせだったらしいが、知りもしない生徒のライブに行ったって楽しくないので、私にとっては何の害もなかった。


「おはよう、花蓮」


 ぱたぱたと忙しく歩き回っていた初音が、私に気づいて声をかけて来た。なんというか、今日の初音からはすごく熱を感じる。こう、体の底からめらめらと燃え上がっているというか、エネルギーに満ち満ちているというか。とにかく、すごい気迫だった。ああ、血気盛んという言葉がふさわしいかもしれない。


「初音、おはよう。なんか熱気を感じるんだけど」


「それはもう、今日は朝からフルスロットルだからね」


「帰りにはエネルギーを使い果たしてふらふらな姿が目に浮かぶわね」


「そう?私は不滅だよ」


 若干空回りしているように思えなくもない初音の指示を聞いて、私も最後の設営を始めた。


「それでね、優希のクラスでは占いをやるんだって。謎だよね。クラスの出し物で、一人がずっと占い役として教室に残るって言うんだよ。いくら出不精だからって、もう少し何とかならないのかな、と思わない?」


 開会式のために体育館へと向かう道すがら、私は初音の怒涛の愚痴らしきものを聞いていた。唇を尖らせて悪口を言う相手は、優希。同じ一年生であり、初音と中学校が同じだった友人だという。彼に対しては初音の口が異様に悪くなるが、なんとなく照れ隠しのような気がしている。これほど初音が遠慮なしに何かを言うのはいつだって日下部優希に対してだけだから。

 恋愛感情なのかはわからないが、少なくとも彼は初音にとって心許せる存在の一人なのだと思う。最も、私だって初音の中では彼に負けず存在感を持っていると思う――そう、思いたい。


「休みなしでってこと?」


 大きなリュックを背負って生徒の波を逆走してくる男子生徒を避け、私は再び初音の隣に立つ。腕を組んでわずかに不満をにじませる初音は、私の言葉に勢いよく首を横に振った。


「ううん、流石に昼休憩はとるって。でも変だよね。完全にクラスの出し物を私物化してるんだよ。ありえないよ」


「うーん、クラスメイトが出し物に乗り気じゃないって言うなら仕方ないんじゃない?無理にするくらいだったらやりたい人がやればいいと思うし」


「……あー、それなら、クラスの人たちの方が乗り気なんだって」


「?日下部君に是非って押し付けてるってこと?それとも、日下部君が占いをやるのにもろ手を挙げて賛成しているの?」


「後者だよ。優希の占いは恐ろしいほどによく当たるんだよね」


 寒気がしているように両手で腕を撫でる初音は、それから苦笑を浮かべて軽く肩を竦める。


「後で行ってみる?ていうか、初音は部活の方は大丈夫なの?」


「うん。そっちは人手はあんまりいらないし、優希以上の出不精がずっと部室にいるって言ってたから問題ないよ」


「手芸部は製作した小物の展示だっけ?」


「そうだよ。あ、わたしは絶対行かないからね?自分の作品が不特定多数に見られている場面を見ると、こう、そわそわして落ち着かなくなるんだよね」


 女子力の高さを示すような部活に入っている初音は、夏休み中にもコツコツと作業を進めていた。時々教室でも作業をしていたため、私はある程度初音が何を作っているかは知っていた。とはいえ完成版は目にしていないので、初音が他の友人と文化祭を周っている間にでも一人で行ってみようと思う。


「はぁ、にしてもあっという間だよね。つい最近夏休みが終わったと思ったらもう文化祭だよ。高校に入学したのだってつい昨日のことのような気がするのに」


「高校に入ってからますます時が経つのが早く感じるよね」


「きっとこのままあっという間に受験に突入するんだよ……あ、すみません。なんでもないです空耳ですほら文化祭でハイになってるから変な声が聞こえたんだと思います」


 ジロリ、と現実を思い出させた初音に上級生――三年生たちから強い視線が注がれる。ビクンと肩を跳ねさせた初音は、彼らに対してうろたえながら言葉を重ねる。やがて皆が視線をそらして再び体育館に向かって歩き始めて、初音は安堵の息を漏らした。


「失言だったよ」


「先輩たちにとって文化祭は最後の息抜きでしょ?そりゃあ現実逃避もしたくなるでしょうね」


「うん。次からは気を付けるよ」


 受験から解放されるつかの間の時間を楽しんでいてもらおうと、初音は失言をしないと固く誓い、口のチャックを閉じるような動作をして見せる。普段はあまり見せない子どもっぽい姿だけれど、不思議と初音に似合っていた。

 小さく笑う私を初音が肘でついて来る。私が何となく初音の頭を撫でれば、彼女は両手を突き上げて抗議を示した。






 文化祭開始の熱気が渦巻く体育館からいち早く脱出した私と初音はクラス展示の案内のために教室へと急いだ。最も、体育館から出てきている生徒の数も少なく、それほど慌てる必要もなさそうだったけれど。

 今日から三日間行われる文化祭だけれど、実際の時間は二日半といったところだ。最終日にはクラス展示の片づけを終わらせ次第後夜祭的な会があり、それに午後半日を要する。そして、校外の者の見学期間は今日の午後と明日、明後日の午前中のみ。ちなみに文化祭は土日を含む五日間ある。今日は金曜日なので土日の一日半――つまり明日と明後日が最も来場者の多い大変な時間となる。今週の月曜と火曜は生徒たちがそわそわと落ち着きなく、浮足立った雰囲気の中で行われた授業に身が入っているものはほとんどいなかった。

 だから店番が楽な今日の朝一にシフトを入れてくれた女子の嫌がらせに私は感謝すらしている。


「誰も来ないね」


 入り口前に出した机に頬杖をついてぼんやりと廊下の先を眺めながら初音がポツリとつぶやく。


「そりゃあそうでしょ。まだみんな体育館にいるんだし」


「でもさぁ、今の時間ってクラス展示を回るにはすっごくチャンスでしょ?だってどの企画にも誰も並んでないんだよ?こんなチャンスを棒に振るなんて理解できないなぁ」


「……そんなにバンド?の人気があるんじゃない?」


「ああ、あれねぇ……うん、まあ顔はそこそこだと思うよ」


 そう告げる初音のいやそうな顔に、私はバンドを組んでいる男子たちの裏の顔を見て取った。多分、浮名を流しているとか、暴力事件を起こしたとか、そんな感じじゃないだろうか。初音がこんな顔をするのは――彼女の中で大きな割合を占めている腐れ縁らしい日下部君を除けば――彼らに対してくらいだ。普段あまり他人に悪口を言わない初音は、だからこそ一緒にいて苦痛を感じない相手なのだ。

 だから、初音が言葉を濁しながら暗に悪く言う男子たちの正体もわかろうというものだ。


 私は気のない返事をして、ちらりと私たちの隣に座る他クラスの生徒の顔を確認する。これといった特徴のない男子生徒。そこそこがっしりした体つきをしているから、多分運動部にでも入っているのだと思う。さらさらとした短髪を揺らす彼は、無表情で人形のように微動だにせずに椅子に座っていた。

 展示入場者数を数える係である彼の仕事は、遅々として進んでいなかった――まだ、誰も私のクラスの展示に足を踏み入れていないから。


 体育館のほうから大きな歓声が響く。

 対する廊下はひどく静かで、まるで切り離された別世界にいるようだった。


「あ、そうだ花蓮」


「何……なんかすごく嫌な予感がするんだけど?」


「ほら、さっき優希の話をしたでしょ?」


 開会式のために体育館へ向かう道すがら初音が話していた内容を思い出し、私はああ、と頷いた。


「それでね、実は優希の企画って前段階ですごく人気なんだって」


 ひょうひょうと肩をすくめながら答える初音が、その日下部君に何を考えているのか、私にはよくわからない。……嫉妬、だろうか。


「インスタで注目を集めてるみたいで、この後どっと人が押し寄せるみたいなんだ。だからさ、今のうちに順番に行かない?」


「まあ店番は一人でもいいね。じゃあ初音から行ってきていいよ」


 クラス二つ先。体育館へ向かう方とは反対側なので私はそのクラスの前を通ってはいない。けれど、ここから廊下の奥を覗くだけでも、その異様な雰囲気を感じ取れた。冷え切った空気感というのか、緊張感というのか、あまり文化祭には似つかわしくないような不思議な空気が、その場所から漂っていた。

 少しだけ女子たちが私たちが席を外していたことを知ったらどうするだろうかと考えた。けれど私は、楽しそうに笑う初音の笑顔を曇らせるのが嫌で、そんな懸念を飲み込んだ。大丈夫、ここには私たち以外のクラスメイトはいないし、一人がちょっと席を外すことで文句を言う方がおかしいのだ。


「じゃあ行ってくるね!」


 勢いよく席を立った初音が、私の方へ手を振りながらパタパタと廊下を進んでいく。そして彼女の背中は二つ隣の教室の中へと姿を消した。


「……………」


 無言の時間が、過ぎていく。初音との間には感じなかった苦痛の理由は、隣にいる男子生徒のせい。こう、邪魔したら許さないというか、そんな仕事熱心な気配を感じるのだ。先ほどから微動だにしていないけれど、時折生徒がクラスの前を通り過ぎる際には真剣な表情でカウンターへと手を伸ばしていた。

 というか、彼の気迫のせいでクラス展示に入ってきてくれそうだった生徒が逃げて行った気がするのは私だけだろうか。今も私たちのクラスを興味深げに見ていた生徒が、彼の視線に顔を引きつらせて、そそくさと逃げて行った。


「…………はぁ」


 隣に座る彼にも聞こえないくらいの小さなため息をついて、私は手元の文化祭パンフレットへと視線を落とした。

 初音早く帰ってきて、とそう強く願いながら。

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