17 相談
「うーん……」
多分、十五分くらいの時間が経っていた。
日下部優希君を中心とするクラス企画に行っていた初音は、少し険しい顔つきでうなりながら私たちの方へと戻ってきた。歓喜から抱き着きたい衝動にかられたけれどぐっとこらえて、代わりに私は「どうしたの?」と初音に尋ねた。
「なんというかね……まあ、花蓮も行ってみればわかるよ」
苦笑を浮かべる初音の言葉に従って、私はそれ以上何も聞かずに初音と交代した。僅かな不安と、怖いもの見たさの恐怖を感じながら、私は二つ隣のクラスへと向かった。
ペルソナ相談所。
真っ黒な暗幕に遮られた教室の向こうにどんな空間が待ち構えているのかは私にはわからなくて、少しだけ怖かった。
教室前に控えていたカウント係が入るのかどうか私に目で尋ねてきた。その視線に背中を押されるように、私はその教室へと一歩を踏み入れた。
「……へ?」
そんな間の抜けた声を上げてしまったことが恥ずかしくて、けれどそれも仕方がないような光景が、目の前に広がっていた。教室の前半分。暗幕で切り取られたそこはまるでデパートの衣料品店――というよりはコスプレ会場のような状況になっていた。無数の服、服、服。ドレスのような豪華なものから始まり、どこかで見たようなアニメ衣装や着ぐるみまで幅広いラインナップをそろえたそこに、複数の生徒が待ち構えていた。
「ようこそペルソナ相談所へ」
独特のゆったりとしたパイプオルガンの厳かな音楽の中に、場違いなほどはきはきした声が響いた。
開いた口が塞がらない私の前に現れた女子生徒は、困惑で一杯いっぱいな私の手を取って衣装が並べられた前へと連れて行った。
「え……っと?」
完全に想定外な状況に私は困惑しきりで、けれどそんな思いを読み取ってくれた彼女はこの出し物の企画内容について私に説明してくれた。
曰く、ここは本格的な相談所であり、あらゆることをペルソナ様に相談する場であるとのこと。仮装という仮面を身にまとうことで日常から離れた別人へとなり、口を軽くすることで心の中でわだかまる思いを吐露してもらおうという考えがあり、そのために着替えが必須なのだという。
「……なるほど?」
ペルソナというのは仮面を指す外国の言葉で、そんな仮面を身に着けることで身バレを気にすることなく質問をする――という趣旨らしい。誰がどんな衣装に着替えていたかはペルソナ様には伝えられず、当然衣装担当の彼女たちは相談を聞かないため、相談内容と個人が紐づけされることはない、と彼女は胸を張って話していた。
いまいち納得し難かったけれど、私の曖昧な頷きを理解したと受け取ったらしい彼女は、さっそく私の仮面――すなわち衣装――を物色し始めた。
「これなんかどうですか⁉ほら、悪の令嬢って感じで、すごく似合ってると思いますよ?」
「悪の令嬢って………これでいいです」
差し出された衣服は、露出の多い黒のドレスだった。一体どこからこんな衣服を用意したのか、それによく企画が生徒会執行部や文化祭実行委員にはじかれなかったなと感心すら覚える深いスリットや開いた胸元は煽情的で。さすがにそんな服を身に着ける勇気のなかった私は、適当に目がついた黒いスーツっぽい上下を引っ張り出した。
「おー、執事服とはなかなか攻めますね!それじゃあ着替えはこちらでどうぞ!」
執事服という単語に慌てて視線を服に向ければ、男物のそれは確かにシックな燕尾服とパリッとした白のシャツで、モノクルでも身に着けた長身の男性が身に着けるようなイメージが私の頭の中に広がった。
とっさに違う服を取ろうとした私は、けれど楽しそうに笑う彼女に押されて衣装スペースとして隔離された一角へと押し込まれてしまった。
「あ、それからこれも身に着けてくださいね」
そんな言葉と同時に私は仮面を手渡された。それは目元だけを隠す木製の仮面で、スプレーか何かで装飾を施された仮面は、それなりに手間暇をかけていることをうかがわせるものだった。
「…………はぁ」
腕の中にある衣服を見つめて、それから先ほど手にしたドレスのことを思い出した。あれよりましか、とそう思いながら私は着替えを始めた。
執事服は私にぴったりなサイズだった。若干胸元にきつさを感じるけれど、それだけ。まるで測ったように問題ないサイズのそれに底知れなさを感じながら、私は着替え終わった制服を手に着替えスペースから出た。――サイズが合わなければ別の服に着替えられたのに、と思いながら。
衣装スペースへと出た私を、衣装担当の生徒たちは手放しでほめたたえた。何でも、すらっとした姿の私の男装は非常に似合っているとのこと。体の起伏が少ないと馬鹿にされた気がしたけれど、努めて気にしないようにした。
戻ってきた衣装スペースには、私以外の相談者もいて、その生徒はまるで仮面舞踏会のような目元を隠す真っ白な仮面を身に着けていた。仮面舞踏会というよりは、オペラ座の怪人といったほうがふさわしいかもしれない。その仮面のせいで男女さえあまりはっきりわからない人物は、けれどその騎士服姿と身長、男子用の着替えスペースにいたはずだという事実から、男子のはずだった。その男子のことをどこかで見たような気がしたけれど、誰だか分らなかった。
制服を預ける私は、内心でオペラ座の怪人仮面よりはこっちのほうがましだったと考えながら、仮面に手を当てて小さくため息を吐いた。
なんとなくこんな格好をしているのが私だと皆に知られるのが嫌で、私は黙って相談開始の時を待ち続けた。
先に入っていた女子が教室後方の暗幕の先から出てきた。血を装った汚れのついた純白のドレス姿の女子が突然現れて、私は思わず悲鳴を上げそうになった。
彼女はまるで霧が晴れたようにすがすがしい目をしていた。背筋をピンと伸ばし、彼女は私のことなど一切気にならないというように、まっすぐ着替えスペースへと消えていく。
そして、彼女と入れ違いに、オペラ座の怪人仮面の男子生徒が暗幕の向こうへと消えていって。
「……ん?」
再び暗幕が揺れ、男子生徒の相談がもう終わったのだろうかと身構えた私の前に、先ほどとは別の女子が顔を見せた。けれどやっぱりその服は真っ白で、白が流行りなのだろうかと彼女の服をぼんやり見ながら思った。というか、彼女はどういう立ち位置なのだろうか?相談者?あるいはこのクラスの生徒?
禊、という単語が私の頭をよぎる。真っ白な和服のような――滝着のような服。神聖で、どこか厳かな空気を感じるのは、教室に流れるどこか聞き覚えのある音楽と、その顔のせいだった。顔、と言っても彼女の顔は見えない。衣服と同じかそれ以上に白い布で顔を覆い隠した彼女は、ゆったりとした足取りで暗幕を横手に歩き、教室窓際で立ち止まった。
くるりと振り返った彼女の目が、私を見ている気がした。
私はじっと、自分の番が来るのを待ち続けた。非常に居心地悪く思いながら、私は早く時が経ってくれないかと切実に願った。
暗幕の向こうからは、話し声は聞こえなかった。時折声らしきものが私の耳に届いたけれど、耳をそばだてても聞こえないくらいの小さな声。分厚い暗幕に隔てられ、さらにそれなりの音量で奏でられている音楽が盗聴防止に貢献していた。
これならこちら側に声が聞こえることはないだろう。それが知れただけでも、突き刺さる視線の中で耐え続けた甲斐はあったと思う。
それから数名の男女が入場してペルソナを物色し始めた頃、私の先に相談に臨んでいた男子が暗幕の間から現れた。彼はどこか楽し気に私に視線を送り、ひらひらと手を振って男子の着替えスペースに消えていった。
彼は、私の知り合いなのだろうか?それとも、文化祭、あるいはこのクラスの雰囲気に当てられただけの見ず知らずの他人だろうか。私たちを隔てる仮面は、しっかりとその役割を果たしていた。
ここは、学校という閉鎖空間の中で、日常から切り離された別世界だった。
別世界。そう思った私の考えは間違ってはいなかった。
わずかな恐怖と決意、それからどうして自分はここにいるんだろうという少しばかりの困惑を感じながら一歩を踏み入れた先、暗幕の向こう側には不思議な光景が広がっていた。
懺悔室という単語が頭をよぎる。あるいは百物語だろうか。
ろうそくを模した揺れる橙色の光。暗幕につけられた大小のガラス玉や雪の結晶を模した飾り付けが光を反射して輝いていた。そして、その奥に赤い絨毯と、年代を感じさせる丸テーブルが一つ。テーブルには赤い背もたれの柔らかそうな椅子が一対並んでいて、奥の方には一人の少女が座っていた。
少女、だった。黒と赤のゴシックドレス。アイシャドウとルージュが目を引く、派手な女子。白い肌を隠す黒いチョーカーと長手袋が少女に不思議な雰囲気をもたらしていた。長い髪をアップでまとめた彼女が、無言で対面の席を手のひらで指し示す。
なんとなく声を出すのがためらわれて、私は無言で承諾の頷きを返して椅子に座り、そして顔を上げた先の光景を見てぎょっと目を見開いた。
椅子に座る少女の右斜め後ろに、気が付けば先ほどの顔を隠した滝着姿の女性が控えていた。顔の見えない彼女は、やっぱりじっと私のことを見つめている気がした。
茜色の光が揺れる。ぼんやりと浮かび上がる彼女は、幽霊のように見えた。それほど、生気も気配も感じられなかった。
空気に飲まれて、私はゴクリを喉を鳴らした。
それが開始の合図だったように、一瞬部屋の中の光が揺らいだ気がした。
目の前の少女が、覗き込むように私の目を見ていた。
「くさか――」
「んんっ」
私は、思わずその人物の名を呼んでしまいかけて。けれど、喉をうならせた女子に言葉を遮られた。
「失礼。ですが、ここはペルソナ相談所でございます。そして彼女は、我が館の主人、ペルソナ様。それ以上でもそれ以下でもありません」
慇懃な口ぶりで、けれど有無を言わさぬ響きで告げられた言葉に、私はただ頷くしかなかった。わずかに目を瞠っていた男子日下部君――改めペルソナ様は、ふっと目尻を下げた。なんというか、女子力とか女性の魅力とかで、全く歯が立たない気がした。初音が困ったように言葉を濁していたのは、彼の女装の完成度を考えてのことだったのだろうか。
そんな完璧な女子に変装した男子生徒でありこの場の中心的存在である日下部君――ペルソナ様が、背後に控える女子へと目で訴える。
「それでは、ペルソナ様にご相談内容をお告げ下さい。この場はつかの間の隔離世界。外界から切り離されたここでは、自由に思いを告げることが許されております」
恭しくペルソナ様に頭を下げた女子が、私に向かって告げた。
少しだけ、言葉をためらう。けれど、それも一瞬のことだった。
文化祭という非日常の高揚感、この場の雰囲気、何よりも、ペルソナを身に着けて大変身を遂げている私は、日常を生きる天野花蓮ではなくなっていた。そして何より、ペルソナ様を前に、言葉はすぐに喉元までせり上がってきていた。
暗い瞳が、私の心の奥底まで覗き込むように私のことを見つめていた。
「……告白、されたんです」
その言葉は、ひどくあっさりと、私の口から零れ落ちた。半ば無意識のうちに、言葉を選ぶこともなく、私は話し始めた。
玲音のことだとばれないようにごまかしながら、私はおよそ全てのことをペルソナ様に打ち明けた。
好意を寄せていた男子に、親友の男子が好きだと告げられたこと。彼が好きだと言った男子と話している場面を見られて、付き合っていると誤解されたこと。彼に、嫌悪や軽蔑の視線を向けられるようになったこと。彼に元のような時間を――私が「彼は男が好きだ」と皆に言いふらすかもしれないという杞憂に心囚われることなく――健やかな生活を送ってほしいこと。私は、どうにかして彼に、玲音に楽しい学校生活を送ってほしいと、そう訴えた。
ペルソナ様は時折小さく相槌を打ち、黙って私の話を聞いていた。そして、ゆっくりと首を巡らせる。片手を持ち上げて、側に控えていた女子の耳に、小声で小さく話しかける。
まるで目の前で影口を叩かれているようで、少しだけ嫌な気持ちになった。
「ペルソナ様はおっしゃっています。彼はゲイではないと」
「……はい?」
ペルソナ様は話さないんだとか、いきなり何の話が始まったんだろうとか、そんな感情に囚われて、私はぽかんと口を開いて固まっていた、と思う。
ペルソナ様が頷く。その動きを続きを語れという命令だと受け取ったらしい女子が、再び口を開く。
「貴方が思いを寄せていた男性には、ゲイとしての誇りが見られないと、ペルソナ様はおっしゃっています。ゆえにペルソナ様は、彼はバイセクシャルだろうとおっしゃっています」
「……ゲイとしての誇り、ですか?」
正直、そんな切り口で話が始まるとは思ってもみなかった。だから、私は困惑でフリーズした頭を何とか動かして、ペルソナ様とそのお付きの雰囲気に飲まれていて、柄にもなく丁寧な口調で、私はそう尋ね返した。
ペルソナ様が女子のお付きにささやく。どうやらこの場所でペルソナ様は相談者に声を聴かせる気はないらしい。彼は、この場の誰よりも完璧にペルソナを纏っていた。
女子の耳元へと近づけられた顔に視線が引き寄せられる。くしゃり、と苦い、自嘲めいた笑みが口の端ににじむ。垣間見えた人間性に、私はぐっと惹きつけられた。
ペルソナ様は男性だ。けれど、外見は女性的で、そして中性的な、性というくびきからかいほうされた不思議な色香を放っていた。
「彼は、おそらくは男性も女性も、どちらも愛することができます。ただ、彼が好きだと認識したのが、男性だったのだと、ペルソナ様は考えておられます」
「……どうして、そう言えるんですか?」
「…………ペルソナ様が、相談者様の言葉の端から読み取った人物像を元に考察しただけでございます。それから、重要なのは相談者様には彼を変えられないということだと、ペルソナ様はおっしゃっております」
「私に彼は、変えられない……」
そんなのは、嫌だ。私には、彼を傷つけた責任がある。私が、彼を、玲音の傷を癒してあげないといけない。癒して、あげたい。
けれど薄々、わかっていた。
私では、玲音を救えない。疑心暗鬼に陥っている玲音に私が何を言ったところで、その言葉は彼には響かない。それどこか、ますます彼を悩ませるだけだろう。
だから私は何もできない。何もできず、宙ぶらりんのまま、ただ誰かが玲音を救うのを、指をくわえて見ているしかないということなのか。
――悠里が、玲音を、救ってくれたら…………
「ええ。誰もが、他者を変えることはできません。変われるのは、変えることができるのは、いつだって己自身です。ペルソナ様はおっしゃっています。『貴女は自分自身を変えることができる。だが、貴女が変わっても彼が変わることはない。彼はただ、彼の意志で自ら変わろうとしなければ、変わることはないのだ』と」
「それじゃあ、どうすればいいですか?」
それじゃあ、何も変わらない。前に進むこともできない。これからも、彼は私が酷いうわさをばら撒くんじゃないかって、そう思いながら生きていくしかないということだろうか。
顔を上げる。ペルソナ様と、目が合った。彼の真っ黒な瞳は、じっと私のことを見ていた。あるいは、私の中にある、玲音の姿を見ていた。
それからふっと目を閉じて、その真っ赤な唇を開いた。背後に控える女性が、小さく息をのんだ。
「君はただ、君の思うままに玲音くんに接するといいですよ」
ぼうっと天井を見上げて、私は小さく息を吐いた。
ペルソナ様の肉声を最後に、私の相談は終わった。不思議な夢を見ていたような、落ち着かない感覚だった。
気が付けば耳に届かなくなっていた音楽が私の耳を震わす。にぎやかな衣装空間の光が、ひどく眩しかった。
私は制服を受け取って体を引きずるように着替えスペースへと足を運び、緩慢な動きで制服に着替えた。
「…………ふぅ」
小さく吐息を漏らして、背後を振り向く。そこには「ペルソナ相談所」と書かれた看板と、交代した店番と入場者数カウント係の姿があった。
邪魔だと言いたげな視線に追い払われるようにして、あるいはどうだこれが私たちのクラスだという強い輝きに背中を押されて、私は夢の中を漂っているような足取りで廊下を進んだ。
「花蓮!」
花が咲いたような笑みを浮かべて、廊下の先で初音が手を振っていた。その瞬間に、私の意識はようやくあの切り取られた夢の空間から、現実へと舞い戻った。
「何か、すごく不思議な場所だった」
「うん。だろうね!わたしも同感だよ。でもアレはないかなぁ。ほら、こうなんというかね、笑いをこらえるので精いっぱいだったというか、こう明らかにわたしのことを笑わせに来ているような気がしてさあ」
「……ペルソナ様を見てそんな感想を抱くのは初音だけだと思うよ」
「ってそんな呼び名で呼ばないでよ!また笑えてきちゃうじゃん……」
机に突っ伏し、肩を震わせ始める花蓮。その隣の席に座れば、花蓮の奥の席に座っていた女子生徒がぺこりと頭を下げた。既にこのクラスのカウント係は別の生徒に変わっていたらしい。その生徒の奥には、廊下の片側に並べられた椅子に四人の生徒が座って入場の時を待っていた。
時間は開会式後の怒涛のライブに一区切りがつくかといったところ。生徒たちを吐き出しつつある体育館からは先ほどの地鳴りのような歓声は聞こえず、代わりに明らかに校舎内の生徒の数は増えていた。
私たちのクラスもそれなりに盛況なようで何より、とそんな上から目線なことを思いながら、私は未だに机におでこをつけて笑いをこらえている初音の頭に小さくチョップを食らわせた。
そんなに笑ったらペルソナ様に――日下部君に悪いだろうに。どうも、私の中で彼はペルソナ様の印象で固まってしまったらしい。正直、直接言葉を交わした覚えもないので、実質的な彼の第一印象があの美しい少女姿として私の中で生き続けることになった。
出口用の扉から一グループの生徒が出て行った。
私は教室の中を覗き込んで近くに生徒がいないことを確認して、待っていた女子グループを案内した。
文化祭はまだまだ始まったばかり。
けれど体内で暴れていた熱が嘘のように消えた私は、ただ忠実に与えられた仕事を遂行していった。
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